ほんもののしあわせ

 ゆいの記憶の中にいる父親は、いつもいかめしい面をしていた。


 いつもいつも、生真面目な顔でぶすっとしているのに、金の匂いのする老人たちにだけは愛想が良かった。


「ゆい、あの男はクズよ」


 マニキュアを塗った爪、リボンとレースのついた鞄、化粧でかたどられた甘い顔。


 少女にさえ視える母親は、暇さえあればゆいのところに来て、父親の悪口ばかりを言っていた。


「ああいう男をね、妄人というのよ。おのずとして人生をかえりみることもなく、資本主義の甘い汁を啜り、金と権力をもつことが幸せに繋がると信じ込んでいる。盲目になって、仕事に明け暮れて、後の世代がどれだけの迷惑をこうむるのかも考えない。

 そして、言うのよ。今の若い者は、ってね」


 ゆいの頭を撫でながら、母親は微笑む。


「この国で、過労死という言葉を作り出したのは、ああいった連中なの。死人の上で踊り明かして、自分たちのために社会の奴隷を量産する。家庭は幾ら犠牲にしても良いと考えている癖に、妻をもたない人間を見下し、子供をつくれとがなりたてる」


 髪の毛を整えられながら、ゆいは鏡の中にいる自分を見つめる。そして、自分の髪先を撫で付ける、赤色のマニキュアが塗られた爪を。


「ねぇ、ゆい。

 この国で唯一、まともな人間が吐く言葉を知ってる?」

「……わかんない」

「働きたくない、よ」


 母親は、けたたましく笑った。


「まともに考えることができる人間はね、あんな労働環境に身を置いて、幸せになれるなんて思ってないのよ。だから、働きたくないは正解なの。

 まるで、クズみたいなセリフに思えるかもしれないけれど、まともなフリした気狂い……貴女の父親よりは、何百倍もマシね。愚痴を吐かない人間は信用しちゃダメ、偽善者は体裁に気を使うものよ。

 さ、できた」


 綺麗に出来た二つ結び、鏡の世界のゆいを見つめて立ち上がる。


「なら、わたし、しょうらい、むしょくのひととけっこんする」


 息を呑んだ母親は、更に大きい声で笑い出した。あまつさえも、お腹を抱えて、涙さえもにじませている。


「こんな戯言たわごと、真に受けちゃダメよ、ゆい! まともが過ぎてもおかしいの、無職の人間は生きていけないんだから! 働きたくないって言いながら、働いている人間が、最もまともな人間なのよ!

 この世界は、狂人が歯車を回してるんだから!」

「むずかしくて、わかんない……」

「わかんなくて結構。ほら、遅刻するよ。帽子、かぶって」


 そう言って、母親は、ゆいに帽子をかぶせて――その日、ゆいの代わりに荷物を抱えて、家から出ていった。






 ――それなら、誰にも渡さないように、アキラくんを〝監禁〟しないとね?


 まったくもって、そのとおりだと、ゆいは思った。


 つんと鼻につく、焼香の臭い。


 真っ黒な喪服を着込んだゆいは、フィーネ・アルムホルトの父親を見つめる。


 彼は、果たして、仏教徒だったんだろうか……真っ白な花に囲まれた、黒縁の大写真を眺めながら思う。そんなことを思いながらも、ゆいの両目は、幼き頃にアメリカへと旅立った親友の姿を探している。


 だが、フィーネは、いなかった。


「…………」


 この男は、なにを考えているんだろう?


 数百万はくだらない腕時計を着けた父親は、ゆいの横に座り込んで、いつもの厳しい面でじっと一点を見つめていた。


 視線の先には、故人の“親族”たちが控えていた。


 気が狂ったかのような、血走った目。


 親族の席に座る彼女を、父は見つめ続けている。直ぐ傍で感じる妄執が、ゆいの感情を、どんどん冷ましていった。


 本当に愛していたなら、監禁すればよかったんだ。


 お坊さんの読経を聞きながら、ゆいは、痺れていく両足に感覚を集中させる。そうすることで、思考が研ぎ澄まされていくように思えた。


 結局のところ、父は、母を愛しきれていなかった。このふたりの間に、愛なんて、最初から存在していない。だからこそ、今、こんなことになっている。フィーネ・アルムホルトの父親の葬式に出席して、痴態を晒し続けている。


 ゆいは、実の父親を、心の底から哀れんでいることに気づく。


 ――愛情を示すのに、手段なんて選んじゃダメだよ


 バカな男。奪われてから、ようやく、その愛情に気がつくなんて。手段を選んでいるからそうなる。狂気に染まって、歯車を回し続ければ、幸せになれると思い込んでいる……哀れな、奴隷鼠ハムスター


 木魚の、ぽくぽくという軽い音が、ゆいの頭蓋の奥に響き渡る。


 わたしは、手段は選ばない。絶対に、貴方みたいにはならない。歯車を回すために、幸福を空回りなんてさせない。


 ――愛にね、際限なんてないの。だから、手段を選ぶような愛情なんて、そんなものは〝本物〟じゃないんだよ?


 わたしは、本物の愛を手に入れる。


 絶対に、わたしは、本物の愛を手に入れる。父や母のように、なったりなんてしない。運命の人を見つけ出して、幸福な人生を歩むんだ。わたしだけを愛して、裏切らない、素敵な『働きたくない』人間を見つけるんだ。


 気がつけば、ゆいは、火葬場にいた。


 死装束を着たフィーネの父親は、化粧を施されて、血色が良いように見える。


 有機質である彼が、無機質な火葬炉に押し込まれていく。


 顔が見えなくなった途端、大きな泣き声が上がった。


 ゆいが、泣き声のほうを見遣みやると――あの女性ひとが、慟哭を上げながら、床にうずくまっていた。


「ぐっ……ふっ……うぐっ……!」


 隣に立っていた父親が、拳を握り込んで、苦しそうにうめき声を上げる。


 ゆいは、その愚かなる愛情を俯瞰ふかんし――笑った。


「……マヌケ」


 燃え盛る。


 ごぉごぉと燃え盛る、赤色の炎を幻視する。


 なんて素敵に燃え盛る、この世で最も美しき、これこそが愛色の炎なのか。


 くるくると回って、踊りたくなる気持ちを押さえつつ、ゆいは泣き叫んでいる遺族たちの愛を浴びながら笑った。


 だいじょうぶ。わたしは、必ず、本物の愛を手に入れる。


 自分の子供に興味をもたない癖に、人目を気にして、習い事を強要したりなんてしない。折檻として閉じ込めたり、算数の問題が解けるまで、食事や入浴を制限したりもしない。一緒に食事をとらずに、金だけをテーブルに置いていったりもしない。


 ――ゆいちゃん


 わたしは――モモ先生みたいに、優しい母親になる。


 幸せな、家庭を、本物の愛を、手に入れてみせる。


 そのためには。


 その、ため、には。


 そ、の、た、め、に、は。


「貴女を超える」


 炎獄の中で、少女は笑う。


「貴女を超えてみせる……フィーネ……アルムホルト……」


 その炎の中に――愛する人アキラが視えた。

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