マイネームイズ……

 何時しか、日は落ちていた。

 

 フィーネ・アルムホルトを思わせる白き月が顔を覗かせ、砂浜に座り込んだ淑蓮すみれは、ぼんやりと白光に目を向ける。


 これから、どうするべきなんだろ……正直言って、フィーネ・アルムホルトには、正攻法で敵うとは思えないし。かと言って、当本人の言う通り、桐谷彰お兄ちゃんを渡すわけにもいかない。


 淑蓮は、柔らかな砂浜に、指先で文字を描く。


 武力 → ✕

 籠絡 → ✕

 逃亡 → ✕


 押してもダメ引いてもダメ、下がろうにも立ち入り禁止KEEP OUTの黄黒線が張り巡らされている。


「……あの女、状況構築が上手いんだ」


 ぼふんと、音を立てて砂浜に寝転がる。仰向けの体勢で満天の星空を見上げて、名前のない光輝く白点に思いを馳せる。


「もう既にココは、フィーネ・アルムホルトの盤上……こっちが遊戯チェスなんて嫌だなんて言っても、駒であるこちらの言い分なんて聞くわけがない……いざとなったら、あっちはいつでもチェス盤なんてひっくり返せる……」


 まんまとこの島にやって来た時点で、半ば、この状況に至るのは決まっていたようなものだ。淑蓮たちのもつアキラに対する異様な愛情さえも、あの女の計算式には入れ込まれていた……そう思うと、歯噛みする他ない。


 最善手、最善手しか打ってないのに。いつの間にか、打つ度に、状況が悪化してる。最初はなから勝ち負けの決まっている、愚行試合ワンサイドゲーム。まるで、お釈迦様の手の上でもがく孫悟空みたいだ。


「お兄ちゃんを渡すしか……いや、ダメだ……渡して、もしも、お兄ちゃんがあの女を選んだら……!」


 呼吸が乱れる。胸が苦しい。


 全身から発汗して、目玉がひり出るみたいな感覚。胸の中心をぎゅうっと掴んだまま、過呼吸に陥った淑蓮は爪を噛む。


「ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ!! 絶対にダメだ!! お兄ちゃんは渡さない!! お兄ちゃんだけは!! お兄ちゃんだけは、渡してたまるかっ!! 私の!! 私のお兄ちゃんだ!! お兄ちゃんが私を選ばないなら!! なら、私は!! もうっ!!」


 凄絶な笑みを浮かべた淑蓮は、口端をひくひくと痙攣させる。


「死ぬしかない……」


 凪いだ海原とは対称的に、大荒れしていた心中が、徐々に和らいでいくのを感じる。最愛の人の身体だからこそ、自傷行為に走ることはなかったが、爪という名の精神安定剤だけは手放せなかった。


「勝つ……絶対に勝つ……どんな手を使ってでも、お兄ちゃんを渡すもんか……私なんかを受け入れてくれるのは、世界でたったひとり、お兄ちゃんだけなんだ……お兄ちゃんだけしかお兄ちゃんだけしかお兄ちゃんだけし――」

「ちょっと、静かにしてもらってもいい?」


 勢いよく、起き上がる。


 いつの間にか、水無月結みなつきゆいが隣に座り込んでいた。祈るようにして両手で携帯電話を握り込み、憂慮を覆い隠そうとするみたいに体育座りして、膝頭の間に顔をうずめていた。


「い、いつから、いたんですか?」

「貴女がアキラくんを想って、火照った身体を慰めてた時から」

「まだ、してないもんっ!!」


 赤面を誤魔化すために、ぱたぱたと両手で顔を扇ぐ。髪の毛にくっついた砂粒をとっている最中、こちらをじっと見つめていた彼女が口を開いた。


「お墓、あったわよね?」

「は? 主語が欠けてるんですけどぉ? 普段、優等生ぶってるくせに、そういうところはおろそかなんですねぇ~?」

「話す相手に合わせて、不要語なんて省くわよ。貴女とわたしの間には共通認識があるんだから、無駄なお喋りなんてしないほうがいいに決まってるでしょ。

 代名詞って、ご存知?」


 お兄ちゃんが私を選んだら、目の前で300時間くらいキスしてやる。そんなことを思いながらも、淑蓮はニコリと笑った。


「『モモ先生』のお墓ですよね?」

「そう。あったわよね?」


 なんで、このタイミングで、こんな質問――ゆいが握っている携帯電話に目をやり、察した淑蓮は問いかけに問いを返す。


「フィーネ・アルムホルトの父親パパとなにか関係が?」


 逡巡。


 こちらの内奥を視尽くさんばかりに、瞠目どうもくした水無月結は、小首を傾げた状態で注視してくる。単に話すべきか話さないべきか、迷っているだけなんだろうが……こちらの反応を伺いすぎて、バケモノ染みた集中力を発揮していた。


「……ま、いいか」


 ふっと力を抜いて、彼女はささやいた。


「雲谷先生が、フィーネの携帯から抜き出したSIMカード。そこに入ってた連絡先、『Loving daddy』にかけてみて、男が出たって言ったことがあったわよね?」

「言ってましたね」

「その男が、モモ先生だった」


 ……は? なに言ってんだコイツ?


「『……は? なに言ってんだコイツ?』って顔してるところ悪いけれど、全部、本当の話よ。幼稚園児たちをあやす時、あの女性ヒトはよく男声を出してたもの。まんまと騙されてたってわけ」

「なら、お墓は? あのお墓は、なんですか? 『西条桃』って、ちゃんと書いてありましたよね?」

「よくよく考えてみれば、わたしはモモ先生の正確な姓名を知らない。感情的になってたし、状況証拠が揃っていたから、そう見做してしまっただけだもの。墓碑には没年も刻まれてたのに、確認すらしなかった」

「確認してなかったんじゃなくて、確認“できなかった”んじゃないですか?

 例えば、傷隠しシートみたいなモノで、事前に隠しておけば――」


 衝撃――脳天から、爪先まで走り抜ける。


 思わず、口元を覆って、真実を取りこぼさないために押さえ込む。正体不明の悪寒が全身を包み込み、気だるい熱さを体内に抱え込んでいる。


「なんで……な、なんで、今まで疑わなかったんだろう……この状況を構築してるのは、フィーネ・アルムホルトなんかじゃない……。

 コレは――」

「やめて」


 わかってると言わんばかりに、ゆいは首をふった。


「今、追求できることじゃない。この先、なにが起きようとも、わたしたちはフィーネを打倒する他ない」

「私たちが気づくとわかってたから……わかってたから……クソ……!」


 意味がないとわかっていながらも、砂浜を殴りつける。拳の形に凹んだ砂上は、からかうみたいに風に運ばれ元通り。


 ひとつ、深呼吸。


 冷静さを取り戻した淑蓮は、髪の毛を掻き上げてから切り出す。


「それで、なにか“パパ”から聞き出せたんですか?」

「いいえ、なにも。ただ、『わたしの役目は終わった』とだけ言っていたわ」


 髪の毛を、ぐしゃぐしゃに掻き回したい衝動に駆られる。必死に抑え込み、代わりに爪を噛んで目を閉じる。


「ところで、アキラくんと衣笠さんはどこ? 姿が視えないけど?」

「……衣笠先輩サイコパスは知りません。

 お兄ちゃんなら、さっき、用を足しに森の中に――」

「まさか、ひとりで行かせたの?」

「はぁ? 当たり前じゃないですかぁ? 昔、お兄ちゃんの補助をしようとした時に、ウォシュレットで目を潰されて以来、もうトイレ中に突撃なんてしな――」


 さーっと、血の気が引く。


 既に立ち上がって駆け出しているゆいを追って、鬱蒼うっそうと生い茂る森の中へ。汗だくで探し回るものの、周辺のどこにも兄の姿はない。


 ひくついた笑顔で、仇敵はささやいた。


「な~んで、わたしも貴女も、アキラくんが関わると、知能指数が底辺にまで落ちちゃうのかしらね~!? ねぇ~!?」


 淑蓮はその場にヘタレ込み、最愛の兄を求め、わんわんと泣き始めた。




 早朝、フィーネ邸付近の浜辺。


 M4カービンの銃口に囲まれた半裸の少年が、綺麗な深青色マリンブルーに足先をつけていた。


「俺は……」


 濡れて透けているワイシャツ。痩躯ではあるものの、彼の身体には、くっきりと筋肉の陰影が浮き出ている。


 盛んに英語で『下がれ』と言われているのに、少年は意にも介していない。というよりは、恐らく、英語がわかっていないのだろう。身をくねらせながら「俺はマイネームイズ……」を繰り返す彼は、自己紹介出来ずに死んだ霊に取り憑かれているみたいだった。


 色っぽい表情で髪を掻き上げた彼は、切なげな吐息を漏らす。


「俺は……一体、誰なんだ……」


 半裸の少年――桐谷彰きりたにあきらは、そっとささやいた。

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