ヤンデレナイズドスイミング
思えば、フィーネには〝月〟がよく似合う。
潮の満ち引き……月の引力の影響によって起こる海面の昇降現象。この島の娯楽が制限されているが故に、俺は毎日のように浜辺を散歩していて、満潮が何時なのかくらいは把握している。
海水面が高くなるということは、その分だけ落下距離は短くなるということだ。この崖の場合、満潮時の高度は大体4mといったところだろうか。
安全に着水できる高度は約6m……物体の質量(つまり、俺の体重)と落下距離、そして重力加速度さえわかれば、自身にかかる衝撃力と落下速度くらいは計算できるし、フィーネも重々承知している筈だ。
なのに、フィーネは泣き叫んだ。
百パーセントの安全は保証されていないし、落下時にかかる衝撃でどこか痛めれば泳げなくなる上に、この切り立った崖肌で切り傷を作ることになれば危険性はぐっと跳ね上がる……俺を失うのが、余程怖いからこその叫声だろう。
だが、俺は跳んだ。
なぜかって言えば、フィーネの〝
「「アキラくんっ!!」」
でも、コイツら、当たり前のように跳ぶわ。どこまでも付いてくるわ。この地球上に、逃げ場はどこにもないわ。
身体を垂直に保って着水、鈍い痛みを感じたものの、華麗なクロールで逃走を開始する。
「ダーリン! 待って!! なんで、逃げるの!? どうして!? フィーから逃げないで!! 行かないでっ!!」
「アキラくん!! ゆいは助けに来たんだよ!? 逃げる必要なんて、どこにもないの!! ゆいから逃げるような腕と脚、要らないってことなの!?」
そういや、アロハ・カニオ、大丈夫だろうか? 咄嗟に崖上に放り投げたものの、美味しい中身が溢れてないか心配だ。
「どうして……どうして、逃げるのダーリン……ダーリンが欲しいもの、全部、用意したのに……なんで……フィーは、間違えたことなんてないのに……どうして、パパとダーリンは……大切な人だけは逃げるの……」
黙々と泳ぎ続けるものの、さすがに疲れてきた。
幼い頃からヤンデレに追いかけ回されてきたせいで、命を拾うために十分なくらいの体力は身につけてきたものの、あのハイスペック共には敵わない。
「お、お困りですか……?」
急にぬぅっと顔を出したのは、『きぬがさゆら』と書かれた水泳キャップを身につけ、ゴーグルを装備している由羅だった。
何時から水中でスタンバイしていたのか知らないが、唐突に水面から現れた由羅を横目に、俺は全力で泳ぎながらこくりと頷く。
「そ、そうですか……え、えへへ……あ、アキラ様がお困りの時に……お、お役に立てるように……ぼ、ボクは常に傍にいますから……え、えへ……」
お前が傍にいるせいで、お困りの無限ループだよ。
「と、とりあえず……ま、待ってますね……」
待つ? 何をだ?
特殊な泳法(高速で横に泳ぐ、カニ泳ぎ泳法)で、逃げ続ける俺にぴったりと張り付いている由羅。その目は爛々と光り輝き、期待で艶めいていた。
「じ、人工呼吸待ちです……あ、アキラ様が……し、失神したら……き、きす、します……」
溺れる者はヤンデレをも掴む(強制)。
卑しい
「ご、ごめんなさい……乙女で……」
隙あらば、失神からの人工呼吸コンボを狙う乙女はいねぇよ。
「だ、大丈夫です……安心してください……あ、アキラ様が死ぬようなことがあれば……い、生きていけないので……完璧なタイミングで救出します……ぼ、ボク、あ、アキラ様に……お、恩を返すんです……!」
俺に恩を返してる暇があったら、神から常識を返してもらってこい。
「……ちゃーん……お、に、い、ちゃーん!!」
ハイエナが一匹なわけないもんな! アイツら、群れで漁るもんな!!
水平線の彼方。点となっていた像が、水しぶきを上げながら接近してきて……一台のボートが目に飛び込んでくる。
華麗な舵捌きで小型船を巧みに操っている淑蓮は、俺の直ぐ横にボートを隣接させ、洒落たサングラスを上にずり上げてから得意げに微笑する。
「『勝利の法則は、常に妹にのみ適用される』――アルベルト・アインシュタイン。
乗って、お兄ちゃん。大正義の妹が助けに来たよ」
場の流れにノッて、アインシュタインの発言を捏造するな。
うきわが投げ込まれて縋り付いた瞬間、背中に柔らかいものが当たり、夢見心地の由羅が必死にくっついてくる。
目と目が合うと、濡れた黒髪の隙間から片目を出している由羅は、わたわたとしながら思い切り俺を抱きしめる。
「ぎゅ、ぎゅー……」
なんだろう、海底に引きずり込まれそう。
淑蓮による
執念の果てを思わせるスピードに、さすがの淑蓮も焦燥を覚えたのか、余裕をなくして舵に手を戻した。
「ちっ、余計な
フィーネと水無月さんの小指が、俺の、肌を、掠めて――小型船のエンジン音が唸りを上げ、今正に手をかけようとしてい二人を引き剥がし、軽快なスピードで白波を立てながら海面を滑るようにして走る。
「「――って!!」」
二人の声と姿が、見る見る間に小さくなっていき、安堵感を覚えた俺はホッと息を吐いた。
「お兄ちゃん、このまま、結婚式場まで行けばいいよね?」
由羅に協力を仰いで、二人分の腕でバツ印を作ると、わかりやすく淑蓮の顔が不機嫌で彩られる。とは言え、基本的には素直な子なので、後で適当にフォロー(思ってもいない世辞)しておけば機嫌は直るだろう。
「あ、アキラ様……」
胸部に脂肪を溜め込んだ輩が、俺に耳打ちをしてきて振り向くと、どことなく不安気な声音で二の句が継げられる。
「う、雲谷先生なんですが……そ、その……アキラ様に……は、話があるそうです……」
「話? 何の?」
「わ、わかりませんが……あの……気をつけてください……」
いや、気をつけるべきはお前らであって、あの三十路ではない――という俺の心の声を聞き取ったかのように、由羅は真剣な面持ちで言った。
「せ、先生は、善い人だとは思いますが……な、何か、企んでいる、気がします……わ、わかるんです……ぼ、ボクの
疑念――なんで、雲谷先生は、わざわざこんな島にまで来たんだ?
「企むって、何をだ?」
「わ、わかりません……で、でも、なんだか……」
由羅は、顔を歪めた。
「嫌な……予感がするんです……とても、嫌な、予感が……」
俺はボートに引かれながら、時折、哀しそうな顔をするあの人のことを想っていた。
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