冷凍みかん
@iwao0606
第1話
下宿をはじめる経緯は実に単純で、両親から譲り受けた家の部屋数が住人ひとりあたり五部屋もあり、加えて僕が院生の身で薄給だったからだ。同じ家に住んでいるから固定資産税は年々低くなる一方なのだが老朽化が進むため、あちこち痛みそのたびにはなじみの大工さんに直してもらうにもこまごまな支出が出てしまい、スーパーの安売りや近所のおばさんの憐れみにすがらなければならなくなってしまった。その節は本当にお世話になっております。
この前などあまりの困窮ぶりに遠くで農家を営んでいる知人から十キロほどする箱が送られてしまった。開けてみると広告の裏に油性ペンで太い字で、「これで食いつないでください」と書かれており、めくるとてかてかとしたみかんが隙間なく埋め尽くされていた。さすがに食べきれず腐らせるのはもったいないので冷凍みかんにした。それは確かに僕の命を繋ぐ聖なる食べ物として様々な窮地を救い、見返りに弱者である僕を尻目にふてぶてしく冷凍庫に鎮座していた。
ある日、冷凍みかんで手を黄色くまた同時に冷たくしながら思った。これから先どのような展開があるかわからない。人生は一寸先は闇なのだ。みかんと人生の酸いを噛みしめながら到達した答えは、この家の一部を下宿として開放することだった。
幸い立地はよかった。大学の目と鼻の先にあり、遠くから通う生徒も多いからだ。そして、僕はその大学に在籍している。
しかし問題は住人だった。わけのわからぬ輩を受け入れるよりは気心知れる相手の方がいい。どうしようか頭を悩ませていたとき、携帯が鳴った。汚れた手のまま開くとかかってきた人間に驚いたが、ひとりごこちに納得した。
「お久しぶりです、久世さん、菊池です」
たおやかな声に口元がほころぶ。
「こちらこそお久しぶりです、菊池さん。先日はおいしいみかんをありがとうございました」
「いえいえ、たいしたものでは・・・。今日は久世さんにお願いがございまして電話をしたい次第なんです」
「僕にできることがあればいくらでもしますよ」
「実は上の娘がそちらの大学に通うことになったのですが、ここからは遠くなるので下宿させようと思っているのですが、都会に出るでしょう・・・落ち着くまでしばらくそちらで面倒を見て頂けたらうれしいのです。恥ずかしい話ですが、あの子何にもできなくて・・・もちろん下宿という形で月々いくらかはお支払いさせてもらうつもりなのですが・・・」
僕の命をつないでみかんを作った菊池さんは、まさしく私の恩人である。お願いを断るわけにもいかない。そして新たなビジネスの到来である。逃すはずもない。
結局、朝夕お昼お弁当と洗濯つきで、週一の定期報告を含め月四万五千円で契約を結ぶことになった。細かいって? 弱小下宿にとって細やかなサービスが生き残るためには必須なのですよ。
うららかな陽気に青い空、風に桜がそよいでははらはらと舞い落ち、線路の向こうからたこ焼き屋のソースの匂いを運んでいる。寒さに強張ったこころが晴れやかに伸びていく。工学部棟に沿って咲く桜並木に浮かれたまま、杉本町の改札へ行くと、不機嫌をそのまま体現したかのような少女がひとり立っていた。新たな下宿人、菊池草子である。
「遅い」
「ごめん、遅くなって。今更だけれど合格おめでとう。すごね、医学部なんて」
「当たり前だろう・・・早く連れて行けよ」
会話を楽しむ素振りすら見せないところは相変わらずである。前一度会ったときは僕を罵倒していたのしか記憶がないから、今日のことなんてまだまともに思えてしまうことに苦笑した。草子さんが返事しないだろうことをわかっていたにもかかわらず家へ帰るまでの間、僕はとりとめのない話をした。阪和線は延着するのが当たり前なこと。大学には猫がたくさんいること。菊池さんのみかんで冷蔵庫がいっぱいなこと。結局、草子さんは返答することなく家についた。
我が家は冒頭で言ったとおり、ひとり暮らしには広すぎるくらいである。一階は玄関から廊下へ続く道に応接間とトイレ、食堂兼リビングがある。また食堂の奥にはそれぞれ仏間と浴室とつながっている。逆に二階は僕と草子さんが使う部屋を含めて五部屋が向かい合う形でずらりと廊下に沿ってある。
「ここが草子さんの部屋だよ」
草子さんの部屋は一番手前の部屋だった。荷物は既に届けられている。
「僕の部屋は奥からふたつめの部屋だからね。何か用事があれば声をかけてよ」
僕は草子さんに部屋の鍵を渡す。下宿をはじめるにあたって二階の各部屋に設置したばかりだから真新しいものだ。草子さんは軽く目を瞬かせた後、尋ねてきた。
「他に下宿人でもいるのか?」
「いや、いないよ」
「なら、何で鍵を?」
「ああ、草子さんにもプライバシーが必要だろう? 僕がマスターを持っているからあんまり意味ないかもしれないけど。それに将来的に下宿人が増えたら必要になってくるかなーって思ってさ、つけてもらったんだよ」
草子さんはじっと僕を睨むように見つめた後でていけと追い払ったので、退散する形で僕は部屋を出て行った。
「で、例のガキとはうまくやってるの?」
顕微鏡をのぞく手を止めて安曇野が聞いてくるので、僕も溶けたばかりの冷凍みかんを剥く手を止めた。安曇野は大学に入ってからの友達だ。彼女女が何か文句をつけたそうな顔に、僕はうれしくなってくる。
「あ、それなりに言えばいいのかな? 実は草子さんとの遭遇率はイリオモテヤマネコくらいだから、一ヶ月以上同じ家に暮らしているけれど顔を見たことがなかったりする」
「本当に一緒に暮らしてるの?」
「洗濯物が出たり、作った食事が消えているから、多分いるはず。物音もするし」
「それなりにやってるのはいいけど、だいだいあんた何であのガキを受け入れたの? 初対面の人間に罵倒を浴びせるような人間よ?」
安曇野は心配そうな顔する。
「まぁ、草子さんが僕を罵りたい気分をわからないでもないし、菊池さんのお願いだからね。僕はあのひとに恩返しできていないから、こんな形でもね返したいとは思うんだよ」
「あんたも律儀ね」
そうかな、と誤魔化すように僕はみかんを剥き始めた。丁寧に果肉を袋から出して舌に乗せると、広がったのはかすかな甘さと見合わない酸っぱさだった。その味はあの日の菊池さんの言葉をいつでも容易に思い出させた。
僕がちょうど大学にあがった年、突然の来訪者は感慨深そうに我が家を眺めていた。六月の梅雨の晴れ間でかんかんと照る日差しに陽炎が立ち、蒸し暑さで汗ばむほどの陽気だった。たまたま近所に工場を構える長崎堂でカステラを買ってきた帰りだったのが幸いだった。茶菓子に困ることはなかった。
「これを」
応接間に通してすぐに差し出されたのは白い骨袋だった。このときようやく彼女女の来訪が意味していることをわかった。
「・・・兄はつい先日の十日に亡くなりました。少しだけお骨を分けようと思いまして・・・きっと兄も久世さんのご両親と一緒に眠りたいでしょう」
「ありがとうございます、きっと両親も喜ぶと思います」
僕はお骨を仏壇に供えるために席を立った。りんを一度鳴らし、線香をあげる。ゆるゆると煙はたなびき空へ昇っていく。お仏飯を少しよけて先生のお骨を置いた。
「おかえりなさい先生」
先生は半年前のある日、ふらっと僕の前から姿を消した育て親だった。末期癌で助からないと知った彼は、醜く死んでいく自分の姿を晒したくないと、故郷へ戻り入院した。手紙越しの穏やかであたたかな文章だったが、彼は僕を拒絶した。その気になれば、先生の居場所なんてすぐわかった。でも、元気な姿のままを覚えていてほしいという先生の意思を尊重したから、僕は今でも目じりを深く寄せて微笑む先生の姿しか覚えていない。
先生は僕の両親の同居人だった。そして両親の上司であり、恩師であった。対外的に明確にできる関係性はこれだけた。何故彼らが同居し始めたのかも、彼らが互いにどういう気持ちを抱いたのかも、生きている間はついぞ聞くことはなかった。僕がわかることは、それが世間ではどんな名前で呼ばれていようとも、どんな形で分類されようとも、先生と両親がおたがいを深く愛し合っていたことくらいだ。ご先祖様には怒られそうだが、三人のお骨が墓で揃うことに僕は目じりが熱くなっていた。潤む視界を乱暴に吹き、お茶とカステラを持って応接間に戻った。いくらか世間話をして、とんぼ返りするように戻らなければいけないと菊池さんが言い出したとき、草子さんは苛立ち気に鞄から大きなファイルを出した。
「ああ、そうそう。これはあなたへよ」
渡されたファイルはずしりと重たかった。日に焼けた装丁を開くと、目に飛び込んできたのはクレヨンで紙からはみ出るほどのみみず文字だった。小さな黄色い付箋が添えられており、そこには先生の丁寧な文字で日付と一行の文章があった。解読不明な文字はどうやら僕が三歳のころ書いた先生宛への初めての手紙のよう。次の頁を開くごとにみみず文字はペンギンの一歩並みの進化を見せて続け、ようやく最後のほうは解読可能ほどになった。
「兄は最後までこれを大事にしてましてね。…草子のなんてまとめてすらいなかったのにね」
ちくりと刺す言葉に、草子さんはますます眉間のしわを厳しくする。その様に僕は草子さんの与えられるべき場所を奪ってしまったのだな、と理解した。そして菊池さんがお手洗いに立っている隙に、彼女は激情をぶつけてきた。
「お前なんか大っ嫌いだ!」
この言葉が意味することがわからないくらいに僕は鈍くなかった。郵便受けにどれほど彼女の手紙が溜まっていたのを知っていたし、先生が彼女に書いた手紙をポストまで出しに行ったことだってある。くり返される罵声が募るほどに、僕は彼女の気持ちの深さを知った。
君も先生のことを愛していたんだ。
夕飯の材料も買い込んで意気揚々に晩御飯の準備をしようと玄関に開いてすぐ違和感を感じた。靴を放り出して二階へ駆け上がれば、一番奥の部屋に隙間が薄っすらと開いていた。鍵は壊されていた。
翳りゆく部屋はほの暗く、うつむいていた草子さんの顔ははっきり見えなかった。だが、全身怒りに満ちていたのがわかった。
「あんたは何でこれを隠していたんだよっ・・・!」
彼女が手にしていたのは手紙の束。届くはずだった彼女の、先生宛の手紙。
「お前の仕業だろうっ・・・!!」
そう、それは昔僕が隠したものだった。
「てめぇ・・・!!!!!」
胸倉を掴み殴ろうとした草子さんに僕は薄い笑みを浮かべた。
「僕もね、あのとき君に罵られたように言いたかったんだ、君のことが大っ嫌いだってね」
郵便受けをのぞけば頻繁に届く手紙が、僕から先生を奪っていく。
「こんな大っ嫌いなやつと一緒に暮らしてまで、先生の何もかもが欲しかったんだね。どうだった、先生の名残りがある場所は? そんなによかった? わざわざ鍵を閉めている部屋を暴くくらいでもんね」
草子さんはその腕を振り下ろした。
「何でいつもお前だけが・・・! 赤の他人のお前がおじさんを」
赤の他人。その言葉は左頬の衝撃より痛んだ。気づけば僕は台所まで走っていた。草子さんは追いかけてきた。
腸煮えくりかえるほど腹が立った。だから僕は冷凍庫を空けた。そして肩がはずれそうになるくらい力任せに冷凍みかんを投げつけた。むかし冷凍したリスで夫を撲殺した妻の話を知っているから、凍らされたみかんが凶器にもなりうることくらい知っている。でも、それくらい死んでしまえばいい、と強く思った。いや、正確には僕の心情を述べるならば、死ね、だ。せめてみかんに殺されるなら、死ぬ彼女じゃなく僕が浮かばれる瀬もあるだろう。とりあえず、心情的正当防衛な意味で。あり余った殺意で突き動かされているため、冷凍みかんにコントロールはない。彼女にあたるお利口さんなみかんもいれば、鈍い音を立てて食卓にあたるお馬鹿さんなみかんもいる。もちろん大半はお馬鹿さんで、まるでこの世の縮図のそのものだ。僕もそのひとりなのだけど。
彼女は実家で丹精込めて育てられたみかんが冷凍みかんに改造され、襲われるとは思わなかったのだろう。冷凍みかんの逆襲。彼女は爪先にクリーンヒットした痛みに涙目になりながら、椅子を盾に連投によるダメージを防いでいた。
「あんたが僕を嫌いのようにな、僕もあんたが嫌いだっ!」
叫ぶしかないのは僕が先生の死を受け入れていないからだ。
「あんたは先生の最期を看取れたじゃないかっ! それなのに何で僕のものまで奪おうとするんだ!!」
「おじさんはお前だけのものじゃねぇ!!!」
彼女は見抜いていたのだ。僕が先生に縋っていることに。それは彼女が僕に怒りや憧れをごちゃまぜにした感情を僕にぶつけて自分を支えているのと同じ行為なのだ。
草子さんの言うとおりさ、 先生の命は先生のもので、命終えるときどう扱うかも彼の自由だ。ひとりきり置いていかれるひとのことなんて考えやしていない、ひどいわがままだ。だから僕もわがままなことをしたかった。ほんの少しだけ僕だけのものがほしかった。時にも奪われないように、真空のまま閉じ込めておきたかった。そう、草子さんが暴いたのは、先生の書斎だった部屋だ。
「先生の最期を看取りたかった…」
投げるものがなくなって空っぽになった冷凍庫。僕は膝からがくりと落ちた。頬から伝ったのは熱い何かで、ぽつりぽつりと床を濡らした。
「・・・草子さんだけずるいよ」
「あんただってずるい、おじさんの時間を全部持っていった。・・・だから俺はあんたが嫌いだ」
「僕も嫌いだよ・・・」
顔をぐしゃぐしゃにして馬鹿の一つ覚えのように「嫌い」を連呼する僕に、草子さんはずっと「俺もだ」と相槌を打ってくれた。
新聞紙で塞いだ障子は、風に吹かれてぱたぱた音を立ててる。僕たちは向かい合わせに座り、さきほど投げてすこし潰れたみかんをもくもくと食べている。みかんの筋を丁寧にとるところは、先生と似ているけれど草子さんの場合は神経質そうにする。筋は栄養だと言ってばくばく食べる僕を怪訝そうに見つめ、さりげなく自分がむいたみかんを僕から遠ざける。
「あんた、この下宿に名前つけないのか?」
唐突な発言にもかかわらず僕は行儀悪く右頬を台にのせてまま食べ続けた。こいつはいつでも唐突なのだ。いや、凡人の僕から見たら唐突なだけで、彼女の中では道筋がついてから言葉を発しているのだろう。ぽっこりするほど右頬を占めていた房を咀嚼してから、ようやく返事した。
「吉田荘みたいに? 留年しそうにないスマートな草子さんが卒業したらすっぱりきっぱりやめるよ」
「…留年し続けて居座ってやる」
「留年だけはやめて。菊池さんに顔が見せれなくなるから、ほんとお願い」
僕の嘆願を無視して、彼女は自分勝手に話をすすめる。
「ついでに恋人とかこどもとかひっぱりこんで騒々しい家にしてやる」
それじゃああのひとたちの二の舞じゃないか、と言いかけて口をつぐんだ。形など意味を持たない、大切なことは違うところに存在しているのを少なくとも僕は身を持って知っている。
「そのときは人頭税導入でも考えようか」
食べすぎたせいか喉の奥から熱いものがこみあげてくるのを押し止めて、冗談を言う。そして目の前に散乱したみかんのひとつを指先で軽くつついて、向こう側へ転がす。よろよろと凸凹なみかんは対岸へたどり着く。草子さんはそれはそれは仕方がないみたいな顔をしたけれど、無愛想な彼女にしてはほんのちょっぴり口元をほころばせて、転がったみかんを剥きはじめた。
冷凍みかん @iwao0606
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