春隣の猫

@iwao0606

第1話

忘れものをした、と気づいたのは、卒業式が終わった日の晩だった。


盛大に送り出されたのにもう一回戻るのもな、と思いつつ、翌日、私は学校へ向かった。


一年生は一階、二年生は二階、三年生は三階。


受験で衰えた体力では三階まで昇るのもしんどく感じてしまう。


「駄目だ、これ、完全に弱っている……」


去年の秋口まで部活をしていたころは、へっちゃらだったというのに、体力の衰えというのは急に来るものらしい。


息を切らすと、三階の廊下はひとがおらず、がらんとしていた。


卒業式の翌日に学校を訪れる生徒なんて、まずいないと思う。


いや、忘れものをする間抜けは、私だけだというだけだ。


教室に入ると、ひともそこにいたひとたちの気配も跡形もなく消えていた。


ほんの昨日まで、あんなに騒ぎあって、たがいの旅立ちを祝ったのに。


だからだろうか、余計に静かに感じてしまう。


机のなかをまさぐり、忘れものの弓の弦を手にした。


三年生最後の大会で団体優勝したときに張っていた、古い弦だ。


優勝のときの弓の弦なだけに、ゲンを担いで、ずっと受験の間中、お守りがわりに持っていた。


肌身離さず持っていたのに受かってしまうと途端に机に忘れてしまうとは、なかなか薄情だ。


こうやって大事な思い出が薄れてしまうのかな、とふと寂しくなる。


未来に進むたびに、後ろに置いていく過去との距離が、伸びていく。


そんなことを考えると、少しでも最後に強く記憶に刻みたい、と思ってしまった。


だから私は教室を出て、校舎のなかを歩き回ることにした。




弓道場へやってくると、今日は誰もいないのか、弦音がひとつも響いていなかった。


そっと顔を覗かせると、見慣れたひとかげが板張りに寝転んでいた。


三月と言え、板張りは冷えるのに、三池はのんきに学生服で寝転んでいた。


すぅすぅと寝息を立てる三池のとなりに腰掛けると、案外そこはあたたかくて、私は驚く。


ひだまりができて、とても心地よいぬくもりに包まれている。


そういえば、三池は夏の暑い時期でも板張りの冷たいところを見つけるのが、得意だった。


あまりにも上手だから、部内の連中が三池の探した場所に集まったものだ。


おかげでひとがひしめきあって、たがいの体温で、逆に暑いという本末転倒ぶりだった。


「あんたはいつもそうやって眠っているよね、猫みたい」


猫を撫でるように、そっと三池の前髪を撫でた。


薄い茶色の髪はとてもやわらかい。


「春……?」


寝ぼけ眼が、私を映す。


「あんた卒業したのに、こんなとこで寝ていいの?」


「うーん、別に大丈夫だろう。お前こそ何でここにいるんだ」


「忘れものを取りに来たの」


「ふーん」


三池は興味なさそうに大きく伸びをした。


「そういうところ、三池は本当に変わらないね」


一年のころから同じクラスで、同じ弓道部員の三池とは、高校生活、わりと長い時間を一緒に過ごして来た。


でも、その時間のわりには、私は三池のことをまったく知らない。


高校に入ってから弓道を始めたというのに、とてつもなく腕がいいとか。


季節ごとに板張りの一番いい場所を探し当てれるとか。


そういうことくらいだけだ。


三池はこちらが質問をしない限り、基本的に何も言わない。


「三池は卒業のあと、どうするの?」


進路について三池は何も話してくれなかった。


私もあの受験の複雑な時期にも聞くことができないままでいた。


もう最後だし、せっかくだから、と私は尋ねてみた。


「うーん、多分、適当にどっか旅に出る」


「何よ、その返事」


三池はいつもどこかはぐらかすかのように言う。


こちらが真剣に言っても、きちんととりあってくれないことに、私はいつも寂しさを感じてしまう。


そのわりには、私が隣にいることを許してくれるし、触れてもいやな顔をしない。


いつだってつかず離れずだ。


「相変わらずだなぁ。本当に心配になるなぁ……」


「春は?」


「京都に進学するの」


「そっか」


三池はやわらかく微笑んだ。


もっと何か言うことはないの、と言えればよかった。


私たちの距離はいつだってつかず離れずのままだ。


皮膚で隔てられるように、隣り合うだけなのだ。


私はそっと三池の肩に頭をのせた。



***


春が立ち去った弓道場のなかで、三池はぼんやりとしていた。


「もう思い残すことはないかい?」


春と入れちがう形で、ひとりの男がやってきた。


「ああ、もう十分だよ」


「そう言ってもらえると、僕としても仕事をした甲斐があったよ」


「代わりに約束は果たす」


「君たち猫というものは、気ままだが約束は違えないからね。そこは心配していないんだよ、三池くん」


男は三池を見下ろしながら、笑う。


「三毛猫だから、それにちなんで三池なんて単純な名前ですね。何度口に出してもおかしくなる」


三池は男を睨みつけた。


この名前を笑われるのは、あまり許せるものでもない。


春が初めて呼んでくれた名前なのだ。


「でも、君も難儀だね。もっと違う方法で一緒にいることもできたのに」


「あいつの未来には、俺はいらない。俺の機嫌が悪くならないうちに、早くしろ。猫は気ままなんだ」


「それは困る。満たされた君じゃないと意味がないからね」


男が指を鳴らすと、三池はひかりの粒へ形を変えて行った。




三年前の春、まだ猫だったころの三池は、男とひとつの契約をした。


ひとになるという願いを叶えるかわりに、成就したあかつきには自らの皮を差し出す、と。


つまり、三味線の皮になる、ということだ。


古来より猫の間では、三味線の皮にならないように、気をつけるよう教え込まれる。


昔噺になったいまでも、変わらず教えとして伝えられる。


皮にされることは、猫にとっては魂を穢され奪われるも同義の、忌むべく事態だった。


三味線の皮を欲していた男は、特に満たされた生を終えた猫を探していた。


そういう猫の皮は、とても良い音色を響かせてくれるのだそうだ。


人間にしてくれるなら、三池は自分の皮を差し出すなんて安いものだと思った。


だから、契約を結んだ。


ひとと猫の寿命は違う。


十数年生きる猫のままとなりにいても。


何百年も生きることができる猫又になったとしても。


瞬きのような時間しか重ならない。


だから、三毛猫の三池は願った。


ひとになることで、彼女と同じ視線で時を生きれることを。


同じ空気を吸い、同じものを見て、ともに笑いあえる時間を得ることを。


ずるずると一緒にいても、先が見えているのなら、おたがい不幸になるだけだ。


だから、三池は高校の三年間と時間を区切り、彼女のとなりにいることを決めた。


本当は今日、春と会う予定ではなかった。


最後に彼女と過ごした場所で静かに生を終えるはずだった。


隣で肩をよせる彼女は、ひだまりのようにひどくあたたかった。


このぬくもりのために、ひとになってよかったな、と三池はあらためて思った。


遠いいつか、俺のことを思い出して、「ああ、そんなひともいたなぁ」と語ってくれるくらいでいいな、とも思った。


寒いのに、ひかりばかりが溢れる眩しい季節。


冬の終わり、まだ春の隣、三毛猫が一匹。

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