四十六 共愛会の分裂ともう1つの「立憲帝政党」
明治14年の政変後。突如“10年後には国会が開設される”ということが詔勅として宣言され、筑前の民権運動各勢力もそれぞれ対応に追われていた。
一先ずのゴールだと思われていた場所が目の前に現れるという状況に対して平岡浩太郎は玄洋社の社員たちを呼び集め、今一度気合いを入れ直すために言葉をかける。
「国会の開設を達成したからといって、それはあの老獪な薩長閥が即座に敗北することを意味するものではない。むしろこれから民権派と政府との本格的な対決が開始されるものと気を引き締めなければならない」
ここまでは社員たちもなるほどと頷いたが、続く平岡の言葉には少し戸惑った。
「その戦いに備えて、自分は後のことを箱田に任せてしばらく玄洋社を離れる」
「……?」
“政府との戦いに備える”“しばらく玄洋社を離れる”というのは、どこに何をしに行くことを指しているのか。さすがに説明が足りなかったので、平岡は自分の考えをもう少し詳しく話した。
「西南戦争後、自分は獄中で久留米の古松簡二という人に教えを乞うたり、西郷軍の野村忍介と議論を交わす中で、今後我々の志を天下に容れようと思えば軍資金が絶対的に必要になるという考えに至った。財源がなければ、いたずらに天下国家を論じても志を遂げられないまま空論に終わる」
「ふむ……」
それについては、他の社員たちもこれまでの活動の中で実感があったかもしれない。
「もし政界に出るとなれば、まず1人当たり10万両は用意しなければならないだろう。“経国済民の業は徒手空拳の能くするところに非ず”だ。ここに集まっているような同志たちを奔放自在に活躍させるために、自分は今から殖産の策を講じて軍資金の調達に邁進する」
“議会制度による政治闘争の時代に備えて”、“同志たちの活動を支えるために”と主張して、それ以降しばらくの間、平岡浩太郎は玄洋社の活動から遠ざかった。
箱田六輔は既に筑豊の豊富な石炭資源に目を付け、県令とも協力関係を結んでコークス製造会社の強進社という企業を立ち上げていた他、養蚕業にも手を出していたというが、平岡もやはり石炭に目をつけて炭鉱の運営を始めたという。
しかしながら有望な鉱山を見つけ出し確保することや、炭鉱採掘の経営を軌道に乗せるというのは至難の業で、3年後の明治17年には平岡の兄である内田良五郎も弟の鉱山事業に参画したものの、事業困難に陥ってしまい、三男の良助(後の内田良平)が小学校を卒業する前に一家離散という憂き目に遭うなど、親族までも巻き込んでおよそ8年もの間大変な苦労を重ねたそうである。
平岡浩太郎は玄洋社の初代社長だが、明治13年には集会条例による政社設置届提出の為に交渉や顔役に適性のある進藤喜平太へと社長が交代、さらに阿部武三郎の3代目社長就任を経て、平岡が玄洋社の活動から離れる頃には払い下げ問題による時局の変化に対応するためなのか「後を箱田に任せる」という言葉の通り箱田六輔が4代目社長の座に就いていた。
明治14年9月2日には箱田は『福岡日日新聞』に既に共愛会会長兼玄洋社社長の肩書で共愛会定期会の予告を出している。
翌月、夜須野ヶ原にて筑前有志大懇親会と称される一大自由懇親会が催され、参加者は1千人以上を数えたという。その様子は『大阪日報』にまで報じられ、「原野中央に壇、国旗を翻へし、両側に三郡ずつ相並び、幌幕を引具し、郡名を記したる徴章を立て、恰も昔時の戦場に陣営を立連ねたるが如き」という勇壮なものだったそうである。
「福日」(『福岡日日新聞』)ではこれを“16日の六郡親睦会”として報じた。
さて、気になるのは“六郡”という数字だ。筑前共愛公衆会は筑前1国15郡933町村人民の結合体としてその全域から総代表を集めていた団体のはずである。詳細を報じた別の新聞でも「両側に三郡ずつ相並び」と描写されていることからしてこの郡数に間違いはあるまい。
この懇親会がある種のイベントじみたものだったにしても全構成地域の4割のみ集まっての開催とは少し寂しい印象がある。
そして懇親会の明後日、10月18日に共愛会の小野隆助(共愛会会長や各郡長を歴任した人物)と中村耕介(向陽社議長、共愛会連合本部副部長、共愛会会長、怡土・志摩・早良の郡長、福岡県会議長等を歴任した人物)という実力者2人は筑前東部への巡回・演説に旅立っていったと「福日」新聞は雑報欄で報じた。
これらが筑前一国規模での共愛会の活動を報せる最後の記録ということになる。
この翌月に共愛会はまず中枢部の幹部メンバーから一部は玄洋社へ、一部は別の組織へと違った道を歩み始め、組織の構造上さらに数年程は形を残していた郡単位の共愛会組織もやがて分裂・瓦解していった。
筑前共愛公衆会の長所にして最大の急所とも言える特徴が「(特に地域内での)階級階層の利害対立に関する視点・認識の欠如」という一点である。
「条約改正」、「国会開設」とそれから「所得や資産による制限のない選挙権の獲得」などといった目的に対して元下級士族・農民・漁師・商人・町民といった人々はある程度まで階級や家柄を超えて互いに目的を共有することが可能だった。
向陽社や共愛会が幅広い階層の人々を迎え入れられたことは資金や組織経営に苦しんでいた士族中心の政社と対照的に組織運営の安定につながっていたし、また立志社などが「士」と「農工商」の分断を越えられず時には保守的な立場に甘んじていた中で正倫社や共愛会が仲間たちと共に華々しく革新的な主張を繰り返す力の源でもあった。
しかし民権運動の進展と共に政治的要求の多様化も進んできた中で、「国会開設の詔勅」で統一目標を失った上に開会まで9年もの待機を強いられるとなれば、それまで意識する必要もなかった階層毎の意識の違いや政策対立の表面化に直面するのもやむを得ないことだった。
筑前有志の大懇親会も小野隆助と中村耕介の筑前東部巡回も国会開設詔勅への対応のひとつだという。
明治17年の福岡日日新聞では“嘉麻・穂波両郡の状況”が伝えられており、元士族と土着の豪農たちとは平生の時は相親睦すること兄弟のごとく、郡内公共の事業についても共同一致しているものの、主義思想は改進(急進)主義中心の士族たちと漸進主義中心の豪農たちとの二派に分かれていることが報じられている。
改進主義の士族階級は政党を目指さず急進的な主張を行い、主義が断固としていて容易に他に流されないが資産に乏しいため勢力も小さい。
対して漸進主義の人々は地方政党組織を目指し、勢力が幾分か盛んであるものの、どのような政党を目指すのか、勢力内それぞれの政策や支持政党はまちまちで「漸進主義である」「政党の組織をなす」という以外は主義も目標も一定していない状態だったとか。
当然ながら共愛会関係者も共愛会委員だった中野嘉四郎と角不為生は改進主義側へ、郡の共愛会組織である両郡友愛会の幹事だった麻生太吉(前回竹内綱のところで名前を出した麻生太郎自民党副総裁の父方の曾祖父)は実業家として漸進主義の側へ分かれていた。
明治14年政変の余波で草間時福の「自由を主義とする国会」の理想が打ち捨てられたまま顧みられなかったのと同様に、共愛会の掲げた「筑前一国の結合」もまた、ごくわずかな期間だけの理想に終わらされてしまった。共愛会の夢は国会開設の詔という現人神の御言葉によってバベルの塔がごとく崩れ去ったのである。
ところで嘉麻・穂波両郡では共愛会の士族たちもあまり政党の組織を立てることに積極的ではなかったようだが、他の地域の士族たちは皆が皆政党結成の動きに消極的だったわけではない。
共愛会会長・向陽社議長経験者である中村耕介は筑前東部巡回の後、南川正雄(条約改正・国会開設の建白を元老院に提出した際の共愛会建言委員)や吉田鞆次郎(向陽義塾塾長・正倫社社長経験者及び自由党結党大会における共愛会代表)らと共に明治14年11月、立憲帝政党という地方政党を結成する。
自由党のように国会開設に備えた準備としてなのか、共愛会の結束が崩れたための必要に迫られてなのかはわからないが、国会開設の詔と筑前東部巡回、及び自由党結党大会のすぐ翌月という時期には既に共愛会とは別個の政党組織を立てる動きが実行に移されていたようだ。
ちなみに「立憲帝政党」という政党名は現代の歴史の教科書などで
“『東京日日新聞』社長の福地源一郎(福地桜痴)や『明治日報』社長の丸山作楽、『東洋新報』社長の水野寅次郎らによって結成され、初期の帝国議会内で政府の政策を支持して民権派に対抗した「吏党」”
と説明されるものが存在しているが、こちらの結成は明治15年3月13日で福岡の同名政党と人脈的な繋がりもない別物である。そこまで奇抜な組み合わせの言葉でもないし、名前被りが起きるぐらい当時の保守派に選ばれやすい政党名だったのだろう。
そしてまた何とも奇遇というべきか何というか、“吏党”と言われた方の立憲帝政党が結成する前日の明治15年3月12日には九州各地の民権派が熊本に呼び集められ、合同して新たな地方政党「九州改進党」を結党。福岡にあった方の立憲帝政党はこれに合流し吸収されたため2つの立憲帝政党は同時に併存することは1日もなかった。
度々時系列が先に飛んで申し訳ないが、この九州改進党も残念ながら帝国議会の開会まで組織を維持できず、3年程の短い活動期間で終わってしまった組織なのでその概要についてここで話してしまう。
九州の民権各派が結集する連合の構想は明治13年頃から現れていた。明治13年6月21日、熊本相愛社の池松豊記社長と松山守善ら幹部は向陽社の川越余代(吉田鞆次郎の弟である吉田真太郎(震太郎とも)が改名した名前)を迎えて会合を開き、民権派九州連合本部の早急な開設について協議したという。
この民権派九州連合本部設置の構想は同年9月22日に中津で開かれた会議の中でもう一度話し合われる。この中津会議は11月の第2回国会期成同盟に向けて九州各派が集まった会議の1つだというが、ここでは“土佐派が同盟大会にて私立国会設立を主張する場合、九州各派は愛国社をも脱して別に九州を団結する一大社を立てる”という考えまでも出たそうである。
そんな九州派会議での考えと関係あるのか、当の第2回国会期成同盟ではアメリカ合衆国を参考にしたという共愛会型の“地方国会結合政党”を共愛会の郡利が福島の河野広中や長野の松沢求策と共に主張するが否決。
さらには嚶鳴社の草間時福が自由を主義とする憲法の起草と“自由を主義とする国会”についての主張もあったが、それも否決され、結局国会期成同盟での私立国会というところまでは話が進まなかったということで、土佐派・あるいは愛国社や期成同盟と九州派との決別は自由党結党大会まで先延ばしという結果になった。
そして自由党の結党後、明治15年2月に熊本県内で相愛社が“実学党”などの県内民権派と合同して「熊本公議政党」を形成。九州各地の民権派にも結集を呼びかけ3月12日に熊本で大会を開き九州改進党が結成される。
本部は長崎に設置、毎年3月と9月に党大会を開くこと、参加する各団体は名前を変えて九州改進党の地方部(支部)となること、それらの地方部から2名の本部常務委員と7名の議員を選出して党運営にあたることなどが定められた。
この九州改進党に福岡県の民権派では「立憲帝政党」から中村耕介、南川正雄、吉田鞆次郎、そして「柳河有明会」という団体から十時一郎、岡田孤鹿、立花親信、風斗実ら、その他永江純一、野田卯太郎といった人々が集まった。
また結党大会には「玄洋社」からも箱田六輔と頭山満が参加し、その後も九州改進党関係者の人脈と交流を続けたそうだが、「玄洋社」という組織としては九州改進党の地方部にはなれないと判断したらしく、彼らは党組織に合流せず独自性を保った。
九州改進党の結成を主導した相愛社は同じ熊本県内の政社の一つ「紫溟会」と対立していたのだが、九州改進党結成の頃には既に頭山満は「紫溟会」の代表である佐々友房と交友関係を築いてしまっていたというのも玄洋社が九州改進党と合流しなかった理由の一つとなったようである。
とにもかくにも熊本相愛社のリーダーシップによって一大地方政党として結成された九州改進党だが、国会開設を9年後とする勅諭によって民権派の政党組織に行える活動はほとんど封じられてしまっており、九州改進党の存在意義はもっぱら“九州各政社の有志を集める連絡機関”といったところだった。
結局国会に議員を送ることはないまま、第一回衆議院選挙が行われるより5年も前の明治18年5月に九州改進党は解党される。そして九州各地の民権派有志は九州改進党の解党後もまた別の有志大会などの形で交流を続けたが、新たな政党は立てられなかった。
ところで、あの『自由党史』には自由党の他にライバルである立憲改進党やその他諸政党の結党などについてもいくらか触れられていると以前述べた通りだ。『自由党史』自体がかなり土佐派に寄ったスタンスで書かれている書物なため、土佐派と関係の薄い立憲改進党などについてはわりとボロクソな書き方をされているのだが、その中に九州改進党の名前も載っている。
政社の連合体とも言うべき九州改進党について『自由党史』は「其綱領とする所頗る簡単を極めたるは、実に大団結を謀るに於て已むを得ざるの方案なりしが如し」というけなし方で、愛国社再興大会以来の九州派の大団結主義に対する少数精鋭主義の土佐派の軽蔑がここにも表れている……のだが、その一方で『自由党史』は九州改進党について党名は“改進党”とついているものの、「其実は純然たる自由党系統なり」と断言している。
一方ではけなしながらもう一方では仲間宣言するというおかしな内容だが、要するに“可能な限り土佐派が日本の民権運動の礎でなければならぬ”という例の野心である。
植木枝盛が向陽義塾で講師をやったり九州北部で遊説を行ったりしてるし、共愛会は国会期成同盟に代表を送っているし吉田鞆次郎も自由党結党大会に途中まで参加している(途中で退席したことは『自由党史』に書いてないが)し彼が参加している九州改進党も自由党の系譜扱いにしてしまおうということか。
しかしながら九州改進党は結成を主導したのは熊本相愛社でありながら本部は長崎に置かれ、中央指導部は単一のものとしては置かれず、党大会とその時の責任政社は毎回九州各地で回り持ちにするなど九州派らしい分権的な気風で、自由党の中央集権的な運営とは全く対照的であった。
そもそも結党大会でぞろぞろと退席していったのをそのまま見送っておいて「純然たる自由党系統」も何もあったものではないだろう。
いずれにしても自由党は自由党でこの頃はまだ体制が不安定であり、こちらも結局一度は解党にまで追い込まれてしまうのだが……その話をするのはまだしばらく先になりそうである。
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