四十五 自由党結成陣取り合戦

 第二回国会期成同盟の後、大会では否決されたものの、河野広中は全国の運動を統率するため政党結成の準備を重視し、植木枝盛と佐賀県牛津の松田正久がこれに賛同した。大会後の明治13年12月15日に彼らは嚶鳴社の沼間守一・草間時福と協議し、自由党準備会は沼間が座長役となって歩み始めた。


 この政党創立準備会は嚶鳴社の機関誌として発行された東京横浜毎日新聞社を自由党通信社とするなど、当初は非常に嚶鳴社系のカラーが強い傾向にあったが、元老院で沼間が知遇を受けたという後藤象二郎が党首候補として挙げられたタイミングで明治14年4月に土佐出身で立志社員の大石正巳、土佐出身の馬場辰猪、愛媛出身の末広重恭、東京出身の田口卯吉などが嚶鳴社から分裂して「国友会」を結成する。

 さらに立志学舎が共立学校として復活再建されるというのに合わせて馬場辰猪は“旧藩主に寄付を要請するため”として立志社社長の山田平左衛門と立志社副社長の島地正存の上京を斡旋。また愛国社再興大会及び国会期成同盟に参加していた土佐の竹内綱(吉田茂の父親で麻生太郎自民党副総裁の曾祖父)は同時に後藤象二郎を通す形で板垣退助に上京をうながした。

 そして9月に上京してきた板垣を迎える在京各派合同の板垣歓迎会にて、とうとう国友会と立志社は板垣退助を党首に擁立する計画を発表。この自由党準備会においても土佐派・板垣シンパと嚶鳴社側とで運動の主導権争いが勃発してしまうことになる。

(とはいえ、竹内綱が板垣に上京をうながしたのが後藤象二郎経由だったように、後藤象二郎の方もまた旧土佐藩士なのだが)


 ちなみにこの歓迎会には尾崎行雄や高島小金治ら、そして団体としては交詢社などといった大隈・福沢系の人々も参加しており、彼らは政党結成よりも先に北海道開拓使問題で大隈と足並みを合わせ、全国的な倒閣運動を展開するよう求めて他の参加者たちと対立してしまったという。そして板垣からの返答が大隈派にとっては少々冷淡なもので、けんもほろろに断られてしまったのは前回述べた通りである。


 また板垣はこの歓迎会で「実例を戊辰の役に取り、小異を取って相争ふの不可を戒め、政党興隆の急務を切論」したそうだ。板垣はかつて頭山満に四民平等と国民議会の必要性を説いた際にも戊辰戦争における会津での出来事を取り上げており、同じ話をしたのかはわからないが板垣退助にとって戊辰戦争で経験したことはよほど印象深いものだったと見える。



 さて一方その頃の国会期成同盟であるが、期成同盟はその合議書において「国会開設の為め今茲に会同するものを国会期成同盟と為し国会の開設して其美果を観るに至る迄は幾年月日を経るも敢て此の同盟を解かざるべし」という一文を第一条、第二条は明治14年10月1日より東京で会議(第3回国会期成有志公会)を開くこと、そこで各組憲法見込案を持参することが第四条に定められていた。

 そんなわけで国会期成同盟の方では第3回大会の差し迫った10月まで、というか合議書に書かれていた10月1日以降にも幹部相談会が開かれ、私擬憲法審議大会の準備の傍らで国会期成有志公会と自由党準備会の合流が議論されていた。常務委員の林包明が言うところでは「期成同盟と自由政党とが別派の都合となりたるは多少論のありたる処なれども……」とのことで、嚶鳴社系の人々と土佐派との主導権争いなどもあってか国会期成同盟がそのまま自由党準備会に合流すべきかどうかはなかなか議論がまとまらなかったようである。


 そうした状況の最中に明治14年政変が起こり国会開設の大詔が発せられる。彼らの当面の目標であった国会開設への道筋が降ってわいたような勢いで実現に移されてしまった。

 この事態に参加者たちの中ではこれで国会開設の目的が概ね達成されたと見做し、大会における憲法私案の審議は見送り国会開設に向け政党の樹立を優先すべきだとする意見が多数を占めたという。

 前回の国会期成同盟第2回大会に嚶鳴社の草間時福が掲げた“国会ならば何でも良いというわけではない。官令憲法による国会には満足せず、自由を主義とする国会とその実現のための憲法を起草しよう”という理想は、政府主導の国会開設宣言が本当に出されてしまうと完全に押し流された。

 ……というかそもそも国会の開設まで10年もの猶予が勅令で下されてしまったというのに準備してきた憲法案の審議を中止してまで政党結成を急ぐ必要はあったのだろうか。


 とにもかくにも、自由党の結成は急速に具体化し、後藤象二郎を議長、馬場辰猪を副議長とした10月17日の自由党懇親会で自由党盟約3章と自由党規約15章が決定されたという。

 盟約の中で自由党結成の目的は第1章「自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図る」、第2章「善美なる立憲政体を確立する事に尽力」することと示され、自由党結成の意義は10月30日の『朝野新聞』紙上において「今日に於て人民の急務は自ら進んで国会開設の準備を為すに在り、而して其の第一着手と為すべきは政党の団結是れなり」「人民に於て、天皇陛下の盛意を奉戴し、至善至美なる立憲政体の確立に尽力せんと欲せば、何ぞ自ら進んで政党の団結に従事せざる可けんや」と語られた。


 だが、高邁なる大志を掲げる裏では役員人事を巡る紛糾と混乱が続いた。

 当初、沼間守一によって自由党総理(総裁)に名を挙げられた後藤象二郎は土佐派が板垣退助を総理に推すにあたって副総理に下りる。

 党の常議員には旧土佐藩出身の中島信行、竹内綱に国友会の末広重恭、土佐出身で国友会メンバーの馬場辰猪が選ばれる。そのような面子と共に福島の河野広中も当選したが彼は辞退してしまった。

 党の幹事には新潟の山際七司、土佐出身の林包明、福島出身の内藤魯一(出身は福島藩だが維新後三河に移り愛知交親社を立ち上げこの後板垣退助の秘書になるという複雑な経歴の人物)、そして岩手出身の鈴木舎定、土佐出身で立志社員にして国友会メンバーの大石正巳、それから幹事に当選したが辞退した者として薩摩出身の柏田盛文(自由党準備会で機関誌発行が否決されたため山際七司や松沢求策、松田正久、中江兆民や西園寺公望らと独自に『東洋自由新聞』を創刊した人)がいた。また鈴木舎定もその後辞退してしまったそうだ。


 ……という風に党役員は当選者の時点で国友会メンバー、土佐出身者・立志社系、東洋自由新聞系、東北有志会系といったグループに占められ嚶鳴社系の影響力は全く除かれてしまった。

 そして河野、柏田、鈴木の3人が辞退と共に如何なる経緯によってか後藤象二郎が副総理からさらに常議員へと格下げされて中島信行が副総理に就任する。また幹事には熊本出身で『東洋自由新聞』創立メンバーの林正明が加わった。


 そんなわけで決まった党役員の並びは以下の通り。

総理:板垣退助(高知・立志社)

副総理:中島信行(高知)

常議員:後藤象二郎(高知)、馬場辰猪(高知・国友会)、末広重恭(愛媛・国友会)、竹内綱(高知)

幹事:大石正巳(高知・立志社・国友会)、林包明(高知)、内藤魯一(愛知交親社)、山際七司(新潟・東洋自由新聞)、林正明(熊本・東洋自由新聞)


 総理も副総理も高知県出身、常議員まで1人を除いた他全員が高知出身者で固められ、残る1人も自由党総理職への板垣退助擁立を支持した国友会の一員。幹事も東洋自由新聞のメンバーが2名に対してまたもや高知県出身者が2名入り、残り1名も郷土やグループ的な繋がりこそ薄いものの、この後で板垣退助の秘書になるというぐらいには彼を支持する方針を明確にしている。

 自由党の前身とも言うべき国会期成同盟や愛国社再興大会が日本各地からの有志を集めていたことを思えば、あまりにもアンバランス過ぎる役員人事であった。かつての「土佐人を除くべし」という怒号まで飛んだ第四回愛国社再興大会以来の土佐派による大攻勢と言えよう。


 民権運動の顔役である板垣退助をリーダーとして活動方針の統一を徹底するために、強固に結束した指導体制を築き上げた……といったところなのかもしれないが、県単位でここまであからさまにやられてしまうと「国会の始まりという節目においては何としてでも土佐国人こそが新政党の支配権を握っていなければならぬ」という執心の強さに印象が向いてしまう。

 全国から集まってきた民権運動各派の代表たちが自由党の下で「自ら進んで政党の団結に従事」するという理想を思うと、この役員人事の内容はあまりにも露骨に偏っていた。


 後の『自由党史』の記述では、この時の自由党懇親会には各地から78名もの代表が会議に列し、「満座意気虹の如し」といった具合で、自由党盟約や党規則なども「一瀉千里に」決定されたという。

 ところがその78名の中には嚶鳴社の沼間や草間らがいないのは勿論のこと、役員人事で常議員に当選しつつも辞退した河野広中や、幹事職に残った山際七司の名前すら入っていない。

 逆にこのことから懇親会の出席者が『自由党史』に記載された78人だけではないこと、すなわち、78という人数は出席者全員というのではなく、おそらくは新政党の役員人事を制圧した土佐派の方針にある程度肯定的だったメンバーの人数を書いているのではないかと窺える。

 つまり自由党懇親会の会議は『自由党史』が華やかに描いたほど順風満帆ではなく、党の盟約や規約の内容や役員人事の土佐派による占有率、さらにはひょっとすると会議の議長と副議長までもが土佐出身者だけで構成されていることに、党役員に選ばれた者達からも苦言を呈されるような苦しい様子こそが実情だったのかもしれない。


 明治14年10月29日。政変及び国会開設の大渙発から17日後に浅草の大集会会場「井生村楼」にて自由党結成大会が開かれ、日本最初の近代政党組織として自由党が誕生。共愛会の代表としては吉田鞆次郎が送り込まれていた。向陽義塾の塾長や正倫社社長等を歴任した経験があり、共愛会内でも参謀役の1人として働ける人物である。


 しかしながら吉田鞆次郎は自由党の結党に加わることはなかった。

 愛国社再興大会以来野党的な一大勢力として土佐派とつばぜり合いを繰り広げてきた九州派政社の代表らは29日当日の大会真っ最中、自由党結成直前というタイミングでとうとう土佐派の運営方針に愛想を尽かし、席を蹴って1人残らず一斉退出。座席には、用意されていた出席者たちの名標だけが残されたという。また、自由党結党の主導権を土佐派と争った嚶鳴社系の人々も九州各社の後に続いて脱退し、ここで自由党が土佐派グループを中核に板垣を総理として組織されることが完全に決まった。


 河野広中は自由党の常議員職を辞しつつも党員として自由党に残った。

 しかし土佐派に対抗する野党的勢力の中心として九州派と共に活躍してきた彼は九州政社の退席に“これで自由党と国会期成同盟の一体化は名だけを残してその実は失われた”と大いに嘆き悲しみ、土佐派のやり方に対して「難局に際しては、自ら陣頭に当ることを避け、形勢の一変するに際しては競ひて功名を衒はん」「愈々彼等の為すあるに足らざるを思ひ、折角党を結んでも此の状態では困ったものだと、人知れず嘆息し……」等々、非常に手厳しい批判を書き残した。


 また、農民組織に基盤を持つ愛知交親社は内藤魯一の他に荒川定英と庄林一正の2名を代表として送っていたというが、彼らに至っては自由党に対し「絶交表」まで出した上で帰郷してしまう。

 いくらなんでも「絶交された」という話が広まるのは出来たばかりの党にとっても人聞きが悪いのを通り越して色々な意味でマズいと慌てたのか、板垣総理の代理として立志社の片岡健吉と西山志澄が名古屋へと派遣され、「先回御出京の砌自由党と絶交となりて引取相成候趣、他社へも相聞候てはこはれの元に相成事と想像仕深く心配在候に付、何れにも自由党の悪き取計は篤と熟談改撰為仕」と申し入れたものの当然というべきか拒否されてしまった。


 結局、運動の統率と団結強化を掲げて結党したにもかかわらず国会期成同盟の参加者たちは一部が自由党の結党を機にそれぞれ分離していき、運動の主導権を掌握するために党役員の人事をほとんど独占するまでに至ったにもかかわらず、その役員人事の奪い合いによって党の中枢は運動に対する指導力を自ら喪失していった。

 そして「政党の団結」を結党の意義として語りながら、自由党中央指導部は自由民権運動の統制を確保しきれず、これ以降の民権運動は福島事件や大阪事件など地域毎・グループ毎の政治闘争や日常闘争として分散・孤立した状態で展開、あるいは暴発していくことになる。

 その分裂の決定打となった対立が党綱領の内容をめぐる理論的対立ではなく、地方出身者層と都市出身者層との間の意見や関心・問題意識の相違などですらなく、役員人事をめぐる主導権抗争の対立にほとんど終始していたというのが、新たに出来た新政党内部の性質のみならずその前途に立ち込める暗雲をこれ以上ないほど如実に示していたのかもしれない。

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