三十八 私擬憲法その2 ~非永世皇族、女性天皇、戸主普通復撰選挙~

 大日本帝国憲法発布前の私擬憲法案は全国各地に様々なものが残されている。政府関係者によるものもあれば、共愛会のように独自の動きとして起草したもの、新聞社等が発表したもの、あるいは明治13年11月の国会期成同盟第2回大会における決議「翌明治14年に憲法草案を持参する」というのを受けて各地で起草されたものもあった。


 最も早いものだと「維新の十傑」・「佐賀の七賢人」に数えられる江藤新平がなんと廃藩置県よりも前の明治3年10月に“国法会議案”なるものを書き残したというが、現代において大学受験までの日本史教育で出てくるものといえば福沢諭吉が設立した交詢社の私擬憲法案(明治14年4月)といわゆる“五日市憲法”(明治14年4月)、それから植木枝盛や土佐立志社による国憲案(明治14年3月~9月)あたりを知っていればおおむね十分だろう。



 抵抗権や革命権なるものまで書き込まれた植木枝盛の国憲案はその中でも独特さがわかりやすいが、共愛会の国憲案もそれとは違った方向にまた独特である。


 共愛会の私擬憲法には皇位継承についても書き込まれていることを前回記したが、それについてもう少し語ると甲号案第五条には「……皇帝宗系の子孫に皇位を嗣ぐ可き男子を欠く時は傍系の親なる有栖川宮伏見宮閑院宮の三宮において前文の例規に循い其位を入嗣す可し……」とあるのだが、乙号案第五条の文では「皇系を重んずる為め特に三宮即ち有栖川宮伏見宮閑院宮を以て永世皇族とし嗣皇位権を有せしめ……」となっている。



 永世皇族があるということはつまり非永世の皇族もあるということだ。永世でないなら皇族はいったいどうなるというのか。なんと世代を経るだけで臣籍降下する。



 乙号案第十六条曰く「皇帝の子女は五世迄を皇族とし六世に至れば華族の籍に編入す」とあり、天皇の男系子孫であっても三宮に相当する地位と認められない者や傍系の血統はやがて子孫が宮家よりも少し下の地位にされてしまうのである。


 その原型であろう甲号案第十三条に至っては「皇帝の子女は五世に至る迄を皇族とす故に六世に至れば平民の籍に編入すべし」である。流石にいきなり「平民の籍に編入すべし」というのは共愛会内の憲法審査討論会でも反発があったのかもしれない。



 後に内大臣府書記官長となった木戸幸一は昭和11年4月10日の日記で「華族制度改革の骨子」三点の一つとして「永代世襲を廃す」ことを挙げ、「公爵九代、侯爵八代、伯爵七代、子爵六代、男爵五代で平民に復す」という案を書き残したという。共愛会において一般の皇族は昭和の男爵家並みの扱いだったらしい。(むしろ木戸自身が貴族院侯爵議員の家柄ということと、貴族院が既に一定期間運営されていて既得権益として確立していたことによって漸進的な改革案となったのだと見做すべきかもしれないが)



 また、甲号案第五条・乙号案第六条の「若し又全く皇族の男統を欠くときは前文の例に循ひ女子其位を入嗣す」、甲号案第六条・乙号案第八条の「嗣皇位権ある者は男女を問わず皇帝の允許を経ずして結婚する時は其権を失ふ 但し……」といった皇族女性への皇位継承を想定した条文が、明治時代の共愛会による私擬憲法に入っているのも現代からみるとなかなか興味深い。


 まあ日本の歴史上有名な女帝(女性天皇)は何人かいるし皇室典範を分けないならこのぐらいのことは書き入れておくべきなのだろう。




 さて、これまで記してきた皇帝大権や皇族の身分、摂政議会や府県憲法などの記述の他に共愛会の私擬憲法で特に個性的なのは国会制度に関する条文であろう。



 共愛会が考える国会は二院制で乙号案の方では議会の呼称は上院と下院になっているが、甲号案では元老議院と民撰議院と呼ばれていた。郡利などを中心とする共愛会関係者は政党制に関する議論などで「米国合衆政事」に倣ったらしく、“元老議院”という呼称からするとアメリカ合衆国の上院議会(Senate)の呼び名が古代ローマの元老院(Senatus)に由来するというぐらいの知識を共愛会は持っていたのかもしれない。



 甲号案における元老議員は“満三十歳以上で皇帝の特命にして1.華族にして世故に鍛錬なる者、2.大学校教員、3.勲労ある者、4.才識徳望ある者”の中から選抜され、乙号案における上院では“5.下院正副議長に任ぜられし者及び三び已上下院に選ばれし者”も資格を得て、選抜方法も皇帝による特命から普通復撰法による公選へと変わっている。(甲号案・乙号案共に第六十四条)



 定員は甲号案だと「元老議員は四十人に越ゆ可からず」、乙号案では「上院議員は定限なし然れども下院十分の一に越可らず」(共に第六十七条)と記され、どちらも少数精鋭に抑えられた上院議会となるらしい。



 上院の権限は「立法権受用するの外1.大法院長官並びに執政諸長官審判 2.皇帝又は国安に対する皇族の所行を尋問 3.元老議員若しくは民撰議員を審糾」(甲号案・乙号案共に第七十条)とのことで、国会で皇族の尋問が可能なところは上院議員に皇族や皇太子を入れておいた甲斐があると言えるかもしれない。(それでも弊害の方が多そうだが)



 上院議員の任期は甲号案だと「元老議員の任期は六年とす而して三年毎に全員の半数を更撰す」と書かれ、現代日本の参議院議員とよく似た仕組みが作られている。ちなみに「旧員重ねて選挙せらるる」だそうである。甲号案だと「元老議員は皇帝の特命」なのにさらに「選挙」するのだろうか。



 この部分は乙号案だと任期六年の更撰で「旧員重ねて選挙せらるる」のは同じだが、更撰のやり方が“二年毎に全員三分の一ずつ更撰”という若干見慣れない形に変わっている。(甲号案・乙号案共に第六十九条)


 下院の方が「代議士の任期は四年とす而して二年毎に其半数を更撰す其更撰に当り旧員重ねて撰挙せらるるを得る」(甲号案第七十九条、乙号案第七十八条)なのでひょっとするとこの方がねじれ国会など多少マシになるのかもしれない。(ただし甲号案の第四十五条と乙号案の第四十八条・第四十九条曰く、皇帝が上下両院に対して解散の権利を持っているらしいが)



 また余談だが戦前から戦後にかけて活躍した政治家の川島正次郎という人は「戦後、衆議院の解散は、平均して二年ごとに行われている。二年を過ぎれば、人心はあきる」といったことを語ったそうで、この認識が正しいとすると共愛会国憲案の“上下両院を二年毎に更撰”というのはそういう意味でも面白い考えではないか。




 このまま下院についての話に移ろう。下院の権限は「一般の法按を議定するの外政府の予算表に由り国費を定め租税を配当し及び国債を承認し又は返債し又は決算表を検査するを主司」(甲号案第八十二条・乙号案第八十条)し、また「大臣・執政諸長官・参議官を上院に劾告」(甲号案第八十三条・乙号案第八十一条)するのは下院の特権だという。



 共愛会の国憲案では下院議員選挙に関する条文もまた、共愛会ならではの個性を見せている箇所だ。


議会選挙に関して現代日本では度々“一票の格差”が話題になる。大都市では選挙区の人口と議会の定数の関係上、国会に送れる議員の数が人口に対する比例としてかなり少なくなり、過疎地域では人口に対して国会に送る議員が多くなるのだが、これは政治的権利の格差となるのではないかという問題である。


 とはいえあまり人口にばかり合わせると島根県と鳥取県や徳島県と高知県の参議院議員選挙区が合併されて合同選挙区となってしまったように、人口の少ない地域は面積に対して少数の議員しか送れなくなるという課題も指摘される……というのが現代の話だが、明治時代の共愛会は最初から議会の定数の方を人口に合わせて増減させてしまおうという形で考えを割り切った。



 甲号案の民撰議院は「毎州人口十万毎に代議士一人を出すものとす 此比例にして猶五万人の零数ある時は更に一人の代議者を出すことを得べし」(第七十二条)「人口二十万以上の大都会は亦前条の比例に応じ代議者を出すを得べし」(第七十三条)で、乙号案の下院は「人口五万毎に代議士一人を出す但此比例にして尚二万五千の零数ある時は更に一人の代議士を出す」(第七十二条)というだけのよりシンプルな計上方法に改められている。


 現代日本がこのやり方で議員定数を算出すると衆議院議員の数が2千数百人以上という中国の全人代みたいな人数になってしまうが、明治13年頃は日本の人口も3600万人程度だったとのことで隔世の感がある。それでも下院だけで700人くらいになるが、上院の定数がその十分の一程度というなら上下合わせると国会議員の人数は現代日本より少し多い程度に収まる。(国家の人口に対する国会議員の定数としてどのくらいが適切な数値なのかはわからないが)




 ところで、この共愛会の選挙制度には後に発表された交詢社の私擬憲法案やいわゆる五日市憲法などの、後世から先進的と称えられる国憲案より一歩先を進んだ点が一つある。


それは普通選挙への独自の道筋を示したことだ。


 一応「普通選挙」に対する“普通じゃない選挙”とはどういうものか説明しておくと、普通選挙じゃない選挙――すなわち普通選挙の対義語とは「制限選挙」のことであり、日本近代史上においては主に「一定額以上の税金を納めていないと選挙権が与えられない」という制度を指して言われる。



 そして共愛会の私擬憲法案を見ると甲号案七十七条では「代議者となるには財産の多寡を問わず公評の選挙に応じて其任を受く但し満二十五歳以上の男子に限る可し」という風にわざわざ明記されていて、その他の条文でも甲号案・乙号案共に資産の大小や納税額が選挙権・被選挙権に関わってくるような記述はない。



 一方で人権保障の条文が先進的とされる『五日市憲法(日本帝国憲法)』四三条では「財産智識ある者は国事政務に参与し」、八〇条では「満三十歳以上の男子にして定額の財産を所有し私有地より生ずる歳入あることを証明し撰挙法に定めた〔る〕金額の直税を納るる文武の常職を帯びさる者は撰挙法に遵いて議員に撰挙せらるるを得」と記され、起草者の中で制限選挙を想定していたことが読み取れる。



 また福沢諭吉の門下生とその盟友と言われる大隈重信の門下生が中心となって起草されたという交詢社の『私擬憲法案』四十条でも、「其撰挙区内に於て郡村は地税五円以上納むべき土地を所有し若しくは価直金二百円以上の所有家屋に住居し人口三千以上の都市は地税金三円以上を納むべき土地を所有し若しくは価直金二百円以上の所有家屋に住居し又は価直金四百円以上の家屋を既に十二ヶ月借住して其年齢満二十一歳に達したる男子は左に記載する者を除き総て其の撰挙区内の撰挙人たるの権を有すべし」と細かな基準が定められている。



 日本で盛んに私擬憲法が提出された明治13年(西暦1880年)当時で既に、共愛会が参考にしたというアメリカ合衆国や、欧州大陸でもフランス、ドイツ(北ドイツ連邦)、ブルガリアと男子普通選挙を実施する国はいくつか現れていたが、未だ世界的な常識とまでは言い難く、民間主体で制作された私擬憲法においても制限選挙を明記するものが幾つもあった。



 確かに福沢諭吉や大隈重信らが参考にした英国で普通選挙が実現するのは1918年とだいぶ先の話である。とはいえ私擬憲法で書かれたものは自国の政治制度や社会制度などについての各自の将来像や理想像を構想したものではないのか。そんな中で制限選挙という手法を選び取った人々と共愛会とでは研究分析の対象とした国の違い以外で何が違ったのだろう。




 おそらくだが、交詢社憲法や五日市憲法を起草した知識人たちの念頭には、資産額を基準に政治から遠ざけたい人々の存在があったのだ。


 それは“不平士族”という、資産が少なく政治意識が高く政府への不満が大きい一大グループである。一時期は反乱運動を頻発させ、今なお政治運動を盛んに続けているこの巨大な不満分子に選挙権を与えることは知識人たちにとっては大きな不安だったに違いない。



 一方の共愛会は、向陽社もそうだがまず組織の中心人物からして当の元不平士族グループが多く含まれている他、それ以外の農民や漁師その他の構成員も制限選挙が採用されれば多くは選挙権を得られずに跳ね除けられてしまう側だった。


 そもそも、“筑前一国の人民結合体”を自負する組織として成り立っている共愛会は制限選挙という手法を選ぶわけにいかない。幸いにしてというべきか、共愛会には復撰法という手段で資産階級を問わず地域ごとに総代を選出する経験があった。



 制限選挙では選挙権を一定以上の資産を持つ階層に限定することでその所得や財産に見合うだけの政治的教養や知見を有権者に期待し少しでもまともな投票先の選択を求める。


 一方、共愛会の国憲案においては低所得者層の選挙権を切り捨てるのではなく、代わりに「一家の戸主にして年齢満二十歳已上の男子」を“初級選挙人”とし、(甲号案・乙号案共に第七十四条)甲号案では続いて戸主にして年齢二十五歳以上の男子を「毎郡区人口五百人毎に一人の比例」で“上級選挙人”として選び出し、この上級選挙人が代議士を選ぶことになる。(ちなみに上級選挙人は「比例にして猶二百五十の零数を生ずる時は又一人を撰任する」。甲号案第七十五条)



 人々の信頼を得た上級選挙人がさらにおよそ100人毎に1人の議員を選ぶことでより質の高い候補者の選択が期待される。しかも納税額では制限を行っていないので、もし制限選挙であったならば投票にすら参加できないような階級の人々でも共愛会で行われた議論のように議会へと上り、「是迄名も聞へざりし人にて大に奮発し、激切高尚なる議論を立てし人も多かりき」と活躍の場を得て農民や漁師その他無産階級の中からも立派な人物を議会に送ることができるかもしれない。



 ちなみに乙号案には上級選挙人についての記述はなく、第七十四条で代議士を選挙する者は一家の戸主にして年齢満二十歳已上の男子であることと、第七十六条で「代議士選挙の方法は別段の法律を以て之を定む」と書かれているのみである。(甲号案第八十条でも「選挙の方法は別段の法律を以て之を定む」としている)


 要するに“憲法案”としては詳細を詰め過ぎて、本来ならば別個の選挙法として取り扱うべき内容にまで踏み込んでしまったのを乙号案で少し削ったのではないか。



 ところで個人毎の選挙権に慣れた我々からすると普通復撰法の選挙権が戸主に限るというのはなかなかに受け入れがたい制度設計であるが、頭山満の孫・頭山統一氏の解釈だとこの時代の日本の伝統的な「家」制度のモラルとして家庭内の政治的行動はある程度ひとつにまとまっているべきであり、親と子が互いの政治的思想を無視して別々の議員候補者に投票するのはある種道徳の破壊なのだという。



 これはただ一家が家長・戸主の考えに従うというのではなく、戸主が自分の意見を家族に納得させられなかったならそれは家長でありながら一家をまとめ上げる力が不足していたという“恥”であり、また家族の方も戸主に対して自分の意見を理解させられなかったならそれは自分の政治的信念や相手を説得する誠意に欠けるところがあったと自らを責めるべきという考え方だ。



 その考え方で行くと、全ての国民はそれぞれの家に属しているわけだから戸主が代表する「家」に選挙権を与えたならばただ単に家長のみならずその家族である成人女性やさらには未成年者までも「家」を通じて選挙権が得られる仕組みになる。



 もし国全体でそんな理想通りに普通復撰法が行われるならば家庭内では盛んに政治に関する議論が交わされ、子供たちはそれを聞いて育ち非常に政治意識・市民意識の高い国民集団が形成されたのではないか。


 まあ流石にそう上手くはいかずに家庭内の議論や意見を無視した投票をおこなってしまう悪い家長やその他の弊害も多数出てくるだろうが、それはそれで大正デモクラシーの潮流の下で最高潮に達した普選運動は“「家」の選挙制度対「個人」の選挙権”という他の国と違った面白い議論が繰り広げられたかもしれない。


 そうなっていたら普通選挙制度の実現を模索する世界各国の民権運動家や政治家・官僚、特に西洋式個人主義の導入に二の足を踏んでいたような有色人種の国々はどのような知見を得られただろうか。




 さすがにその辺で夢想もほどほどにしてまとめに移ろう。


 共愛会の私擬憲法条文は当時の時代性を感じさせるものもあれば、共愛会独特の思想を感じさせるもの、そして民権運動団体の国憲案として至極まっとうな法の前の平等(甲号案第二十九条・乙号案第三十二条)、言論・出版の自由(甲号案第三十二条・乙号案第三十五条)、人身の自由(甲号案第三十五条・乙号案第三十七条)財産の不可侵、信書の秘密、結社・集会の権利、大学自治、宗教の自由、さらには議員の不逮捕特権(甲号案第三十七条~第四十一条、第六十条・乙号案第三十八条、第三十九条、第四十一条~第四十三条、第六十条)等といった条文もきっちり揃えてある。



 しかしながらやはり悪目立ちするのは皇室と国会ががっぷりと組み合うような積極的過ぎる君民共治の政治体制だろう。現代の憲法改正案に共愛会型の君民共治構想が入ってきた場合、条文の文言自体に対する世論の反発は勿論のこと制度運用においても多くの問題が予想される。


 度々引用させてもらっている頭山統一氏の『筑前玄洋社』はこの「共愛会憲法」について「条文の構造が、よく整理され完成している」「他政社の「憲法私案」にみられる無意味な重複も、ことさらに微細な条文も、重大な欠落もない」「民権思想をよく消化した上で、現実の使用に耐えうる実用性を備えてもいる」等々大絶賛である。「すこしほめすぎのきらいはある」とは本人も書いているが、いくらなんでも本当に褒め過ぎだろう。


 郡利らしき筆跡で甲号案の原文に書き込まれていたという「甲号乙号とも吾国体に対し不穏当の文有り、宜しく考思すべし」とのコメントが共愛会の国憲案に対するこれ以上ない評価なのではないか。



 しかしながら「永世立憲君主政治」や「府県憲法」といった文言を始め、その他興味深い構想も数多く、自由民権運動や近代日本の政治思想等の研究、または現代における憲法改正や地方分権構想の参考等として共愛会とその私擬憲法案には今なお光る部分があるというぐらいには評価しても良いのかもしれない。

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