三十七 共愛会の私擬憲法 ~余りにも積極的過ぎる君民共治~

 明治維新以降、新政府は国家の変革を押し進めるために専制的な政治を続けていた。そしてそんな明治政府の作る憲法案など、民権運動家たちはほとんど信用していなかった。

 だからこそ民定憲法制定のために国会開設を先とするよう求めていたのであり、それと併せて自分たちが考える“あるべき憲法の姿”を形にして示すこともまた、是非ともやっておかねばならないことだった。


 そのような時期に共愛会は明治13年1月に全国トップクラスの早さで国会開設と条約改正の建白書を元老院に提出している訳だが、なんとその翌月の明治13年2月にはこれまた民権派としてはトップクラスの早さで私擬憲法を起草している。さすがにここまで目覚ましい業績を残したのはこの2,3ヶ月ぐらいだが、なんとまあ慌ただしかったことだろう。


 共愛会の私擬憲法草案は甲乙の2種類が作られており、甲号の『大日本国憲法大略見込書』(内題。表紙には「大日本帝国憲法見込書大略」と書かれ、末尾の留めは「大日本国憲法見込書」になっている)は向陽義塾の講師だった大塩操が明治13年2月に共愛会の連合本部研究所で起草した物だという。


 この大塩操は旧名を和田玄遵と言い、はじめは真宗僧侶だったというから多分一度出家した後で還俗した人のようだ。

 正倫社のメンバーが所属していた開墾社の「向浜塾」において若者たちに『精献遺言』などを講じていたという真言宗僧侶“和田玄順”と名前が非常によく似ている。というか、読み方は恐らくどちらも“わだげんじゅん”であるし、もしかすると同一人物なのに何かの間違いで字も宗派も違う別人として扱われた人という可能性もあるかもしれない。


 共愛会の憲法甲号案に話を戻すと、大塩操が起草した憲法草案は審査委員の手を経て各郡区本部に送られ、2月17日からの共愛会第2期会において“第五号議案「憲法草案審査」”として討議、「原案可決」となる。

 その後7月の共愛会第4期臨時会で憲法審査討論会の10月1日開催が決定され、会長三木隆介、副会長箱田六輔の名で活版刷の甲号案を郡区会員に配布、討論会への積極的な参加を呼び掛けた。


 乙号案の『大日本帝国憲法概略見込書』(表紙の方には「大日本帝国国憲見込書草按」と書いてある)の起草者は鞍手郡出身の武谷次郎とされ、現代の視点から見て甲号案より乙号案の方が完成度が高いとみられることから、どうやら甲号案に憲法審査討論会の議論を反映させた結果がこの乙号案らしい。

 完成度が高いといっても通則・仮則として分けられた部分を合わせればどちらも条文の数は138ヶ条で大部分は文章のブラッシュアップ程度の違いである。


甲号案


第一篇

第一章 政体(第一~三条)

第二章 皇位及皇位継承幷(「并」の異体字)摂政

第一欵(「款」の異体字) 皇位及皇位継承(第四~十三条)

第二欵 摂政(第十四~二十二条)

第三章 国民及ヒ国民ノ権義(第廿三~四十一条)


第二篇

第一章 立法権

第一欵 国会(第四十二~六十三条)

第一欵(資料原文ママ) 元老議院(第六十四~七十条)

第二欵 民選議院(第七十一~八十三条)

第二章 行政権

第一欵 皇帝の権任(第八十四~九十七条)

第二欵 大臣幷ニ諸執政長官(第九十八~百六条)

第三欵 参議院(第百七~百十一条)

第三章 司法権(第百十二~百二十四条)


第三篇

第一章 兵備(第百二十五~百二十八条)

第二章 府県会及府県政(第百二十九~百三十四条)

通則(第一条・二条)

仮則(第一条・二条)



乙号案


第一篇

第一章 国体及政体(第一~三条)

第二章

第一欵 皇位継承幷摂政太保(第四~十七条)

第二欵(第十八~二十五条)

第二章(資料原文ママ) 国民及国民ノ権義(第二十六~四十三条)


第二篇

第一章 立法権

第一欵 国会(第四十四~六十三条)

第二欵 上院(第六十四~七十条)

第三欵 下院(第七十一~八十二条)

第二章

第一欵 皇帝の権任(第八十三~九十六条)

第三欵(資料原文ママ) 大臣幷諸執政長官(第九十七~百五条)

第三欵 参議院(第百六~百十一条)

第三章 司法権(第百十二~百二十四条)


第三篇

第一章 兵備(第百二十五~百二十九条)

第二章 府県会及府県政(第百三十~百三十三条)

通則(第一条・二条)

仮則(第一~三条)


 構成はこのような感じで全体の条文の数と章の分け方はそれほど変わらないが章ごとの条文の数が一部増減している。

 内容をざっと眺め、カタカナ部分をひらがなに変えて印象的な条文を引用していくと、甲号案の第一篇第一章「政体」第一条では「大日本国の政体は紀元二千五百四十何年即ち明治十何年 今上睦仁皇帝陛下の制可を得て之を立憲君主政治と定む」とある。

 板垣退助がかつて語ったように天皇親政という選択肢は明治天皇自身の理解を得たうえで否定すると共に、共和制のような江戸時代以来の政治運動の流れから考えれば極端に急進的過ぎる国体変更の思想も国憲案の最初の最初で拒絶する第一条になっている。

 乙号案第一章でこの天皇親政の否定と共和政体の拒絶は更に強調され、乙号案第一条は「大日本の国体は皇太神の神孫たる無姓の皇統即ち今上○○(原文ママ)皇帝の系統を椎尊し万世不易に皇位を伝え如何なる時変に由るも冒姓の臣民たるもの此宝祚を侵すヿ(「事」の略字あるいは「コ」と「ト」の合字つまり合略仮名)を得ず」という条文が入ってかなり強い言葉で皇統の存続を求めている。


 そして甲号案第一条の「立憲君主政治」が乙号案では第二条に移ると共に少し文言が変わっており、「大日本国の政体は紀元某々年即ち明治某年今上○○(原文ママ)皇帝陛下の制可を得て永世立憲君主政治と定む」というものになっている。第一条と共に共和政体の拒絶が強調されつつ、甲号案で「立憲君主政治」と普通の言葉で定められていた政体は乙号案で「永世立憲君主政治」とまるでスイス等の“永世中立国”を思わせる、政体を超えて国体じみた新しい言葉になり、天皇親政の否定までも恒久的なものにされているように見える。


 もしこの立憲君主政治というのが現在の欧州の君主制国家の議会政治や、あるいは大正以降令和の現代に至るまでの国民に歩み寄るような皇室の在り方に近いイメージだったならこれは非常に素晴らしい条文だったと言えただろう。

 もしそうなら「永世立憲君主政治」というのも歴史上のほとんどを蘇我氏・藤原氏・平氏・源氏・足利・織田・豊臣・徳川……と他者に権力を預けつつ権威を遠い古代神代から握り続け、どういうわけか権威と権力の分立を古代から達成してきた皇室の特異な伝統と日本の国体を言い表す素晴らしい表現だったと個人的に思う。


 しかしながら残念なことに、そして同時に少し興味深いことに、共愛会の国憲案に書かれた「立憲君主政治」は現代の我々が想像する“立憲君主制”とはかなり様相が違う。

 共愛会の私擬憲法においては、皇室はかなり深く政治のあれこれに関わってくるし、さらに憲法と国会もかなり深く皇室のあれこれに関わってくる。


 まず共愛会の私擬憲法第一章は甲号案も乙号案も第三条までだが、第一条と第二条で政体を「立憲君主政治」と定めた直後のこの第三条で、甲号案では立法権を「皇帝国会の両院と之を行ふ」と定め、乙号案は「三大権の域を定め則ち立法の権は皇帝国令と之を行ひ行政の権は皇帝之を行ひ司法の権は司法省之を行ふ」と宣言している。


 皇帝の大権として立法権が国会を通じて帝に帰するというのは後に制定される大日本帝国憲法第一章第五条の君民共治的な立憲君主制と同様だが、責任内閣制という発想がまだ定着しきっていないのか行政権が見たところ皇帝だけのものとして記されてしまっており、帝国憲法の統帥権騒動を考えると解釈の悪用や議論の混乱が怖い条文である。


 ただ乙号案で司法権が皇帝・国会・内閣から切り離された司法省の権限として独立性が高く設定されているのは、後の大津事件などを思うとやや面白い。


 その後も甲号案第四十三条・乙号案第四十五条「国会は諸種の法案を議定し皇帝に奏上して制可を受く」甲号案第四十八条・乙号案第五十一条「皇帝及び国会両院は法案起草の権を有す」は勿論のこと、甲号案第五十三条・乙号案第五十五条によると、「両院決議の法案若し皇帝の制可を得ざるとき」はこの法案を必須とするならば再議に附して重ねて制可を請うことが許されつつ、「而れども尚制可を得ざるに於ては之を本会に議するを得ず」だそうで、下院・上院・皇帝の三重チェックとでも言えば聞こえは良いかもしれないが、皇帝の拒否権がだいぶ強めに記されている。


 さらに甲号案第八十九条・乙号案第八十八条「法律に依り貨幣鋳造を指揮す」るのも皇帝ならば、甲号案第九十一条・乙号案第八十九条「国財を統理し国庫より給与する官吏の俸額を画定す」るのも皇帝、乙号案第九十条だと「皇帝は毎年翌年の国費予算表に意見を附し之を国会に送致」すべきものらしいし、甲号案第九十四条・乙号案第九十三条「法律に依り外国人の帰化免状を授与す」るのも皇帝である。

 甲号案第百二十五条・乙号案第百二十六条曰く、「国会は毎歳皇帝の起議に由り海陸軍常備兵表薄を議定す」るし、甲号案と乙号案共に第百三十三条で“府県憲法”なるものについて定められており、「府県憲法は府県会を以て之を議定し皇帝の許允を得て之を行う」だそうである。

 ちなみに乙号案では無くなったらしい条文だが、甲号案第九十条だと「法律に定めたる学校消費開拓水利道路橋梁等の条件は皇帝の指揮に拠る」とまで書かれている。

 まあ実際に運用されたとしたら皇帝大権のこういった仕事は実質的にほとんど行政担当の内閣や官僚が担うのだろうが、天皇親政だったとしてもやりすぎではないか。


 さて、共愛会の国憲案において政治に参加する皇族は皇帝だけに留まらない。皇太子も乙号案第十一条「皇太子成年に至れば元老院及び参議院に参入す」とあり、また甲号案・乙号案共に第六十五条では「皇子及皇族は満二十五歳に至り上院の議員に挙らるることを得る」し、同じく第六十六条「皇太子は満十五歳に至れば上院に出席するを得る」という。


 また共愛会私擬憲法では法律の議案の論弁や、就中宣戦講和や外国との契約について参謀するため皇帝が撰命した官員五人から成る“参議院”が上院・下院の国会とは別に存在し、乙号案の第百九条ではこの参議院でもまた「成年の皇太子は参議院の謀議に参与す」と定められる。


 これらの条文だけ抜き出して見たならばこの私擬憲法は天皇親政思想から脱却しきれていない守旧的・封建的・時代錯誤・退歩的とまで称せられても仕方がない代物かもしれないが、なんだかんだで共愛会は精力的な自由民権運動の団体であり、その国憲案は国会の皇室に対する介入もまた凄まじいものだった。


 甲号案第七条・乙号案第九条で皇帝は「予め皇嗣を定むべし」とされているが、甲号案第十条・乙号案第十三条曰く後継ぎを命じずに皇帝が崩御した場合“嫡長入嗣の正序”などに従って次の皇帝が誰かを決めるのは国会である。

 さらに甲号案第十一条・乙号案第十四条では「皇帝婚姻を結ばんとするとき又は妃を迎へんとするときは予め其旨を国会に通知し之が承認を得るを要す」である。現代からおよそ100年前(西暦1920年~1921年)の宮中某重大事件における山縣有朋公もこんな条文が通ったら腰を抜かしかねないだろう。


 また未成年の皇帝が即位するかもしくは皇帝が「外形(疾病の類)の故と心性(狂顚の類)の故に政を親らする克わず国会に於いて其事実を詳認したる時」、皇族中に摂政に相応しい者がいなければ国会が参議院から三名を任期五年の“摂政議会”に選任することになっている。(甲号案第十五~十八条、乙号案第十九~二十一条)この摂政及び摂政議会は政治的責任を問われない。(甲号案第二十条・乙号案第二十三条)


 また、明治22年以降の実際の憲法体制においては皇室典範の方に記されていた皇位継承や践祚即位、立后・立太子、摂政等に関わる条文が国憲案に記されていることからもわかるように、この時点では帝国憲法と皇室典範が別個に独立して併存する“典憲体制”の発想は共愛会になかったらしい。

 もしくは、国会がかなり深く皇室のあれこれに関与するかたちの議会政治を想定していたために、国会に関係があること=憲法に書かざるを得ないこととなったのだろうか。

 明治憲法が全部で76条、第二次大戦後の現行憲法が全部で103条あり、この103条の現行憲法ですら占領時の理想主義的傾向の中で内容をあれもこれも詰め込んだ繁文憲法だと語られることさえあるというのに、共愛会の私擬憲法は甲号案も乙号案も130条を超える(通則と仮則を含めて数えればどちらも138条)というのは典憲体制で皇室典範に書き込まれるはずの内容が共愛会の構想では議会政治に関わる国憲の内容から分離していないという事情があるのだろう。



 「皇帝は最上なる権を有す其権総て大臣に由って之を行う但し大臣は其責任を承く」(乙号案第八十六条)、「国会殊に下院の議決を経るに非ざれば国税を徴収することを得ず」(乙号案第九十二条)、「大臣の副署なき勅書は総て決行するべからず」(乙号案第百条)等々、特に乙号案の方にはいかにも我々の考える普通の立憲君主制らしい条文が記されている。

 「摂政及び摂政議会は無責任とす」(乙号案第二十三条)、「皇帝の身体は侵す可らず又責任とする所なし」(乙号案第八十三条)といった条文も加わってますます立憲君主制らしくなっているところから、共愛会の憲法審査討論会において何かしらの指摘があったか、乙号案の起草者の方が個人的に西洋型の立憲政治に対する理解を幾らか持っていたのかもしれない。


 しかしながら、やはり根本的に共愛会の国憲案だと皇室が政治に踏み込みすぎであろう。皇帝が法案起草権を持っていたり、国費予算表に毎年意見を附すというのは君民共治としても行き過ぎで何らかのトラブルを招きそうだし、行政権における皇帝の大権と立法権における皇帝の拒否権も強調し過ぎである。

 二十五歳以上の皇族が上院議員になるとか、皇太子が15歳で上院に出席し18歳で成年と見なされてからは元老院や参議院にも参加するというのもまた、史実の大日本帝国の体制で帝国海軍軍令部総長を務めた伏見宮博恭王らが日米戦争敗戦後のGHQ占領下で危うく戦争責任を追及されかけたことからしても、かなり危うさを感じる。これで「皇帝に責任とする所なし」とか「我が国の政体は立憲君主政治」だと言っても、特に他の国からそうは見なされないのではないか。

 歴史の授業などでは明治の憲法制定の目的の一つとして、“日本が近代的な法体系を整備したことを示すことで条約改正交渉の一助とする”という説明もなされると思うが、共愛会の人々は条約改正の建白書でも不平等条約の改正について「国民協合の気力を表し、否の一字を以て彼が傲慢の術略を衝破するの一方あるのみ」と主張している。


 インドなどを植民地化し、日本に不平等条約を押し付けてきた欧米列強に対して彼らの善意に期待するようなやり方は共愛会にはできなかったのではないか。日本本土の広範囲が占領されるような事態も考えていないか、もしくはもしそうなった場合ゲリラ的な戦闘でも行って抵抗し続けるしかないというレベルまで覚悟していたのかもしれない。

 「帝国の独立及邦土防禦の為め戦闘するは国民緊要の義務とす」(乙号案第百二十五条)、「皇帝と国会の諧合するに非ざれば外国兵を内地に傭役することを得ず」(甲号案第百二十七条・乙号案第百二十八条)といった条文から見ても、日本人の独立を守るためには外国軍を本土に踏み込ませず、いざとなれば国民自らが力でもって戦う決意こそ必要であると確信していたのではないだろうか。


 共愛会の私擬憲法に書かれた政体は、今日の我々が想像する立憲君主制とはかなり様相が違う。しかしながら特に乙号案の「国会殊に下院の議決を経るに非ざれば国税を徴収することを得ず」、「大臣の副署なき勅書は総て決行するべからず」等といった内容からすると、いやそれ以前に甲号案の時点で存在し乙号案でも削られていない「皇帝婚姻を結ばんとするとき又は妃を迎へんとするときは予め其旨を国会に通知し之が承認を得るを要す」等の条文は明確に“天皇親政”の思想とも異なる。


 この国憲案で彼らはどういった理想を目指して政治制度を構想したのだろう。

 筑前共愛公衆会には様々な政治結社の人間や、それまで政治運動に参加したことがなかったような人々、さらには愛国社再興大会への参加に対し「他国人に進退をゆだねるな」と向陽社内で意義を申し立てた正論党などといった人々も大勢参加している。

 頭山満らが板垣退助から伝授されたという国民国家の妙諦についても、四民平等の必要性については向陽社や共愛会の性質からすると受け入れられたものと見て良いだろうが、天皇親政の問題点と責任内閣制・立憲君主制の意義については果たしてどこまで認識が広まり受け入れられたのだろうか。

 もしかしたら立憲君主制を理解しきれなかったり、天皇親政を棄てきれなかったりした人たちが一定数いた結果の妥協として私擬憲法が立憲君主制と天皇親政思想の合いの子とか折衷案のようになった可能性もあるいはあるのかもしれない。


 だがもう一つの可能性としては、とある思想を史実で実際に政府が選んだ道筋よりもずっと積極的な形で実現しようとした場合のアイディアの一つが共愛会の国憲案において文書化されたのではとも考えられる。

 その思想とは、臣民と帝が共に協力し合って国を治めていく「君民一体」や「君民共治」と呼ばれる思想である。


 共愛会の私擬憲法には様々な立場の人間が「誓い」を述べるべきことが繰り返し書かれている。

「皇太子世嗣の勅命を受くるの初国会に於いて皇帝に忠義を効し国憲と法律とを遵守するの誓を為すべし」(甲号案第九条・乙号案第十二条)

「摂政又は摂政議会は国会に於て未成年の皇帝に忠義を効し国憲と法律とを践守すべきの誓詞を宣ぶべし」(甲号案第二十二条・乙号案第二十四条)

「国会議員は皇帝に対して左の誓を為す皇帝に忠義を効し国憲と法律とを遵守するを誓ふ」(甲号案・乙号案共に第六十三条)

「皇帝は国会に於て国憲と法律とを践守し内国の安寧を保護し外国との和親を保護し外国との和親を保全すべきの誓を述ぶべし」(甲号案第九十七条・乙号案第九十六条)

「行政諸官員は皇帝に対し左の誓を述ぶべし皇帝に忠義を効し国憲と法律とを遵守するを誓ふ」(甲号案第百六条・乙号案第百五条)

「凡て司法官吏たる者は皇帝に対し国憲と法律とを遵守し苟も犯すことなきことを誓ふ」(甲号案・乙号案共に第百二十四条)


 皇太子、摂政、国会議員、皇帝、行政諸官員、司法官吏は皆国憲と法律とを守る誓を行うことになっている。この内皇太子、摂政、国会議員、行政諸官員は同時に皇帝に忠義を誓い、それに対して皇帝は内国の安寧と外国との和親の保護を誓ってその忠義に応える。

 司法権は不羈独立として立法権や行政権と扱いが別になっているため(乙号案第三条及び第百十二条)司法官吏の誓だけは皇帝への忠義の誓が含まれない。

 また「国会の両院は憲法法律及び国民自由の権を監護す」(甲号案第59条・乙号案第60条)るものだという。


 まあ、慣例として誓を述べたところで全ての国会議員と高級官僚が何時いかなる時でも法律に違反せずにいるとも思えないが、共に協力し合って国家のために仕事をするという意識であってほしいという理想を願ったのだろう。

 様々な職業や身分の人々が国会開設と条約改正の要求のため一丸になっている共愛会だからこそ、臣民の代表たる国会と皇室の両者までも対等の主権者同士として共に国家を運営する未来をも実現可能な目標として思い描いたのかもしれない。


 ちなみに興志塾や向陽義塾で教育指導を行った高場乱は頭山満らに対して“自分たちが作る憲法は我が国の歴史に基づくものでなければならない”といった趣旨のことを語ったそうだ。

 奇しくも、英国の憲法学者アルバート・ヴェン・ダイシーは「憲法はその国の歴史に立脚しなければならない」と語っているという。さらに共愛会の私擬憲法起草から数年後に渡欧した伊藤博文に対してオーストリアの国法学者ローレンツ・フォン・シュタインもまた、「憲法は、その国家において実施しうるものでなくてはならない。実施困難なものはいかに合理的であっても役に立たない。実施しうる憲法を作るには、他国の憲法に例を求めず、その国の慣習を基礎として制定する以外にない」という忠告を与えてくれたのは明治憲法にまつわる有名なエピソードの一つである。


 明治政府の元老たちは国内の古典と西洋法学とをすり合わせて大日本帝国憲法を作り上げた。それに対して、向陽義塾に優秀な漢学者を幾人も抱えた共愛会はその私擬憲法において東洋の伝統的思想である王道政治の理想に沿い、西洋にはない極東アジア的な形の議会政治の在り方を模索したのではないか。

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