四 長州藩の危機と幕末の福岡藩

 土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎が活躍する前、薩摩藩と長州藩を結びつける役は土佐藩ではなく福岡藩だった。

 律令国で言うところの筑前国を領地とする福岡藩は馬関海峡を挟んで長州のすぐそばにあり、立地的にも長州藩と九州南部の薩摩藩を結びつけるのに両者の間で非常に便利な位置にいた。その上幕末の頃の福岡藩は薩長両藩と様々な縁があり、勤皇党の優秀な人材も多数働いて周辺の勤皇派から西南諸藩の中心として大いに期待される地位にいた。

 もう数年の間を上手く凌げれば、新政府で薩長と並ぶまでは行かなくても薩長福土肥とか、薩長土肥福というようなポジションに入ることができたかもしれない。それがぶっ潰れたことを語れば、この時福岡藩で起きた政変騒動の大きさがわかるだろうか。


 福岡藩は黒田如水(黒田官兵衛)の嫡男である黒田長政が関ヶ原合戦の功によって筑前一国52万3100石を与えられて成立した藩で、黒田藩、筑前福岡藩、筑前黒田藩などと呼ばれる。この黒田家は「代々不思議に男系に恵まれない家系」だそうで、幕末の藩主は11代の黒田長溥、12代の黒田長知と続けて藩外からの養子であった。

 11代長溥は島津家に生まれて黒田家に婿養子として入った人で、薩摩藩で名君と言われた島津斉彬と血縁的に大叔父にあたるが年齢は2歳差で兄弟のような関係だったという。(長溥は薩摩藩8代藩主島津重豪が69歳の時に生まれた13男。斉彬は重豪の曾孫)


 幕末の薩摩藩で起きた島津久光派と斉彬派のお家騒動で、長溥は脱藩して福岡に逃げ込んだ斉彬派の薩摩藩士たちをかくまい嘉永4年(1851年)には島津斉彬の藩主就任を斡旋・成功させている。

 また、福岡藩と佐賀藩は長崎の出島を警護する任に就いており、長溥はオランダ(蘭)を通じて西洋の科学技術を学ぼうとする“蘭癖大名”であった。シーボルトの講義を受ける、博多の中州に反射炉を建設する、藩士たちに出島で西洋技術を学ばせる、幕府に対しては永久鎖国の終了・積極外交・海軍の建設を唱えるなど非常に開明的で鋭敏な政治感覚を持つ大名として黒田長溥は名を馳せた。


 しかし幕末期は聡明な藩主を持ったところほど勤皇佐幕の軋轢抗争が激化し犠牲者が増えたという。さらに「黒田家は代々不思議に男系に恵まれない家系」であるとすでに述べたが、福岡藩7代藩主黒田治之はなんと御三卿一橋徳川家出身で徳川8代将軍吉宗の孫にあたり、そこへまた島津家から婿養子に入った黒田長溥は勤皇派と佐幕派との間で非常に難しい舵取りを迫られることとなる。


 文久3年(西暦1963年)、攘夷派の長州藩士久坂玄瑞らによってアメリカ、フランス、イギリス、さらには友好国であったオランダに対する異国船打ち払いが強行される。長州藩士の攘夷過激派は京都でも政敵を殺害、遺体の四肢を切断して脅迫状付きで公家の屋敷などに投げつけるなどの行動に出る。これらの先鋭化した攘夷活動によって長州藩は西洋列強も幕府も朝廷も敵に回すことになってしまった。


 朝廷では公武合体派で佐幕派の会津藩と改革派の薩摩藩が協力した八月十八日政変によって長州に親しかった三条実美ら攘夷派の公家たちや長州藩が今日の都を追放され「七卿都落ち」となり、翌年の元治元年(1864年)には、京都にいた長州藩の攘夷志士も池田屋事件で新選組の襲撃を受け斬殺される。

 これに反発した久坂玄瑞らは長州藩の兵を率いて上京。そのまま宮中に入ろうとして会津藩・薩摩藩の兵士と激突し禁門の変が発生する。畿内では実に大阪夏の陣以来の大名勢力衝突となり、京都市中の30,000戸が焼失、御所に向けても発砲が行われる大事件となった。長州は完全に逆賊となり、幕府による第一次長州征伐命令が下される。


 下関砲撃事件に対する英仏米蘭4ヶ国連合艦隊襲来と禁門の変に対する第一次長州征討。この長州藩の大ピンチにおいて、まず4ヶ国連合艦隊に対しては26歳の高杉晋作が立ち上がる。高杉は上海に渡航して租借地を視察した経験があり、異国船砲撃にも禁門の変にも反対した人物だが、海外渡航歴があるということもあって連合軍との交渉役に就き、過激派の尻ぬぐいじみた形で長州を守ることとなった。

 高杉は関門海峡の自由な航行という列強の元々の目的は受け入れつつ、長州と連合軍の衝突について長州から列強への賠償金の支払いも、租借地の割譲も断固としてはねのけた。

 戦勝国として要求を通そうとする英国側に対し、高杉晋作は敗戦した側の代表ながら「長州人民30万人相手に戦いを続けるつもりがあるのか」と対抗する。英国側の通訳だったアーネスト・サトウはこの時の高杉を「大魔王ルシファーみたいだった」と書き残したという。(ちなみにアーネストの父はドイツ東部のスラヴ系民族であるソルビア人の生まれで、「サトウ」はスラヴ系の珍しい名字らしい)

 高杉は他の要求については連合側の要求をのんだものの、この時は英国の公使オールコックが本国の不信を買って交代させられるなどの英国側の混乱もあり、

・賠償金は長州藩ではなく幕府の方に払わせる

・日本の今後に悪影響を残す租借地の割譲は断固拒否

という2つはどうにか守り抜き、長州を救った。しかしながら原理主義的な尊王攘夷派に疎まれ、長州藩の実権を握った幕府恭順派からも弾圧を受けて高杉晋作は脱藩を余儀なくされる。


 一方、第一次長州征討に対しては福岡藩の勤皇党が立ち上がった。勤皇派から慕われた藩の中老である加藤司書(「司書」は役職ではなく通称名)は広島城下での征長軍議に派遣されると、一連の騒動で孤立無援となっていた長州を弁護し、幕府との間に積極的に周旋を取り計らった。

 加藤と、筑前勤皇党の急進派である月形洗蔵らは薩摩の西郷隆盛(この頃は西郷吉之助?)と協力して説得を行い、都落ちした七卿のうち長州にいた三条実美ら五卿を筑前太宰府に引き取るという条件で長州征討軍の解兵に成功する。

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