三 大国の衝突と幕末日本
江戸幕府は明王朝や李氏朝鮮で行われていた海禁政策の潮流に乗って交易場所を制限し、覇権を奪い合うヨーロッパの騒乱や帝国主義から距離を置くことで250年以上の長きにわたって安定した支配体制を築いが、それももはや存続の危機となっていた。
内乱・軍事衝突を繰り返していた戦国時代の終わりには、量で見れば世界トップクラスを誇る大量の鉄砲と、それを扱える武芸百般に通じた無数の侍が日本にいた。だが徳川が支配体制を築き上げ国内を安定させるとそんなものは不穏分子でしかない。
幕府は徹底した軍縮を進め、一国一城制やお家取り潰しで大名の力を削ぎ落し、交易・渡航・移動の制限で外部からの不安要素を減らし、檀家制度で宗教団体の牙を抜き、生類憐みの令で武士と農民の区別なく血の気が多かった日本人の気性を和らげる。
そうした諸々の対処の結果として、下剋上の気風溢れる戦国の世から、「俺も武士だし一応刀の練習とかやっておくか」と考えた会計係が周囲に「手を怪我すると事務仕事に支障が出ますから」という理由で止められる太平の世ぐらいには大人しくなった。
一方でその間にヨーロッパはナポレオン戦争、第二次百年戦争、産業革命などで軍事技術を含めた国力を増強させ、蒸気機関によって陸海の距離を縮めた。
さらに南下による拡大と不凍港の獲得を目指す陸軍大国(ランドパワー)のロシア帝国と、海洋における覇権の固守を求める海軍大国(シーパワー)の大英帝国はオスマントルコ帝国やペルシャ帝国で激突する。両国は陸路と海路で競い合うように東へ進み、英国は先んじてインドのムガール帝国を植民地化し、アヘン戦争で香港に拠点を築き大清帝国を支配下に収める。ロシアもまた大清帝国から日本海に面した沿海州を獲得し、海参崴と呼ばれていた地にウラジ・オストーク(征東港)を築港した。
かつて蒙古襲来や白村江以前の昔から日本の国防を助けてきた広大な海洋という防壁はここにきてほとんど無力化されてしまう。幕末はこの脅威に対してどのように対応していくのか日本の権力者たちが大いに頭を悩ませた時代だった。
攘夷を止めて開国を行うとしても西洋列強と渡り合える強力な国家体制が必要で、国内だけで旧来の安定を存続させることに特化したそれまでの幕藩体制ではそのような強力な国家体制を担えないことは明白である。
だが、新政府構築の方法が倒幕の道一直線というわけでもない。政治の実権を握る幕府や、各地の開明的な大名が当初考えていたのは朝廷と幕府が協力して新しい政治体制を作る「公武合体論」という方法だった。
天皇が権威の頂点にあることを再確認し、あるいは外様大名も中央政府の政策議論に加わるという点では幕府や譜代大名の地位が少し下がるように見える。だが全国各地諸藩のエリートが集まって貴族院ないしは元老院的な議会を挙国一致で開き、その議長に徳川家が就任するような形になれば新しい時代に対応しながら一定の地位を保つ、もしくは補強・強化することができる。
蒸気船の襲来という新しい世界情勢に対応できなくなったとはいえ、江戸幕府は200年以上の長きにわたって内政を行ってきた幕藩体制の中央政府であり、その歳月分だけ積み重ねられた政治的ノウハウとそれに通じた優秀な人材をそろえている。
その影響力を残したまま新しい政府に変わるというのは保守的なアイディアであるが、保守的であるがゆえに混乱も少なく能力を引き継いでいけるという利点がある。先の見えない情勢の中で、列強諸国に大きな隙を見せないまま新体制に脱皮できるのではないかという期待があった。
苦境に悩む幕府側は孝明天皇の妹である和宮内親王を徳川14代将軍家茂の正妻として迎え入れ、外様大名の中で英邁な藩主として知られた島津斉彬などもより現実的な策である公武合体運動を支持した。
そんな時期に歴史の教科書でも歴史ドラマでもめったに目立たせてもらえない地域の一つである福岡藩が何をしていたかというと、公武合体を支援しながら勤皇党の側でも優秀な人材を抱え、西南外様大名の雄である薩摩と長州の間を取り持ったりしていた。
そして一時期は、高杉晋作、西郷隆盛、坂本龍馬ら幕末維新の英雄たちが集結する薩長連合構想の中心地となっていたのである。
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