腹ぺこ貘の夢探索譚

@iwao0606

第1話

夢は見ないはずだった。

 いつもずっと深く、落ちるように眠りにつくから。

 だから、清水山吹は記憶にある限り、夢を見た記憶がない。

 だが、近頃は違う。いつも同じような夢を見る。

 黒い霧のようなものが手足にまとわりついて、肉を喰らっていく。

 血も滴る間もなく、喰われていく躰に痛みはない。

 ただ自分が喰われるという恐怖がまとわりついて、払おうにも、もうすでに手足が喰われている。

 ぽとり、ぽとり、と食べ滓が、昏き底へ落ちていく。

 山吹は呆然と喰われていく我が身を眺めながら、ゆっくりと「自分」を手放したーーーーー。


「山吹! ねぇ、聞いている! もう授業が終わっているのよ!」

「ふぇっ!」

 ガバッと顔を上げると、そこには同期の辰井がいた。

 どうやらいつの間にか、今日の最後の授業が終わっていたらしい。

 教授の信頼も厚く、ゼミを取り仕切る姉御肌の彼女は、ひとの世話ばかりをするという特異な性質を持つ。

 山吹みたいなものぐさは、何が楽しくてひとの世話ばかりするんだろう、と思う。

 しかも、どんな些細な変化も見逃さず、立ち入ろうとするとので、なかなか厄介な存在である。

「目の下にすっごいクマをこしらえているけれど、ちゃんと眠れているの?」

 返事をしないままの山吹に、辰井はもう一度繰り返した。

 山吹はうまく回らない頭を懸命に回して、少ししゃがれた声で返した。

「………うん、最近、よく眠れなくて」

 ここは素直に事実を肯定しておくに限る。

「悩みごと? ストレス? 何かあれば聞くよ?」

「うーん、夢見が悪いだけ、大したことじゃないよ。バイトだから、急ぐから。ごめんね」

 嘘も方便。

 捕まって事情聴取をされても困る。

 親切心も時には面倒なものだ。

 山吹は手早く荷物をまとめて、逃げ去るように、その場を離れた。


 もともと、山吹はあまり寝つきのいい方ではない、と自覚している。

 でも、一旦眠りにつけば、夢を見ないほど深く眠る。

 しかし、最近はなぜかすこぶる寝つきが悪い。布団にくるまっているはずなのに、夢と現実の狭間を漂っているような感覚に襲われるし、変な夢ばかり見る。

 朝、目が覚めても、どこか自分を見失ったような虚無感に陥る。

 陽のひかりに少しずつ自分を取り戻しても、どこかすっきりしない。

 おかげで、授業中の居眠りなんて常習になっているし、バイト先で失敗ばかりだ。

(やっぱりおばあちゃんの座布団が、原因かな……)

 二週間ほど前、布が裂けてしまったのを、山吹はものぐさからそのままにしていた。

 この座布団は、小学生のころ、死んだ祖母がくれたものだ。

 祖母の婚礼布団を、四つに分けたもののひとつ。

 これを枕にさえすれば、山吹はどんな爆音の鳴り響くところでも、目が覚めないほど深い眠りにつくことができた。

(修理に出そうかな……綿も薄くなって煎餅みたい固いから、ついでに打ち直しもしてもらおう)

 出費は痛いが、良い眠りのためだ。

 山吹は下宿の近くにある商店街に、一軒、布団屋さんがあったことを思い出して、足を伸ばしてみることにした。

 商店街の一番端にある、寝具・寝装品の寝占蒲団店ねじめふとんてん。

 住居兼店舗の建物は、ずいぶんと古めかしい。

 一階部分だけは、黒の漆喰で塗られており、ピンク色の自転車が立てかけられている。

(あ、残念)

 木枠の硝子戸は、しっかりと白いカーテンで閉ざされている。

 隙間から中を覗き込もうとするけれど、きっちりと閉められていて、見えない。物音もしないので、今日はきっと誰もいないのだろう。

(また今度来よう)

 山吹は渋々、店を後にした。


 その晩も山吹は夢を見た。

 寝ているような、起きているような、既視感ある感覚に襲われる。

(あ、まただ)

 黒い霧が足もとにまとわりつく。

 でも妙なことに喰らいつくことなく、口惜しそうにとぐろを巻いている。

(何でだろう?)

 なぜか今日に限って座布団を抱えていた。

 綿がはみ出しながらも、なんとか座布団の形状を保っている。

 あたりを見渡すと、どうやら近所の商店街にいるようだ。

 さきまで布団のなかにいたはずだ。

(ここは現実?)

 考えていると、座布団のなかからどんどんと綿がこぼれていく。

 それにしたがって、足元にまとわりついた黒い霧のようなものに、手足や髪を引っ張られた。

 このままでは黒い霧のように喰われてしまう、と本能的に直感した山吹は、行き先なども考えずに走り出した。

 走るたびに、座布団が軽くなっていく。

 暗い商店街を抜けて、下宿に戻ろうとした。が、途中で一軒だけあかりが灯っている店があり、山吹は飛び込んだ。

 山吹は硝子戸を慌てて引き開けると、勢いに任せて閉じた。

 息を切らしてへたりこんでいると、くちゃくちゃとガムを噛んでいる音が上から聞こえた。

 見上げると、黒づくめの青年がひとり、ジロジロと山吹を見つめていた。

 いきなり、しかも勝手に入ってきたともなれば、迷惑だろう。

「……あ、ごめんなさい。その黒い霧みたいなものが、その」

 そこまで言って、山吹は自分の言動がおかしいことに気づいた。

(急に飛び込んできた女の、訳わからない言葉を信じてもらえないだろうな)

 でも、ガラス戸の向こうでは、黒い霧が渦巻き、どんどんと激しく戸を叩いている。

 山吹が言葉を探していると、青年のほうが口を開いた。

「………あなた、いまどき珍しいひとですね」

 山吹を上から下まで物珍しげに眺める。

「珍しい?」

「あなた、夢路を行き来できるひとなんですね」

「夢路を行き来?」

 聞きなれない言葉に、山吹は聞き返す。

「ひととひとの夢をつなぐ路、それを夢路、というんですよ。ほら、授業とかでやったでしょう? 平安時代は恋していると、夢路を通って会いに来てくれるなんて話、聞いたことがありません?」

「聞いたことがあるけど」

 授業では百人一首のどれかの歌を例にいくつか聞いたことがある気がする。

「普通のひとは夢路に自由に行き来することはできないんですよ。でも、あなたは勝手に行き来できる」

「え?」

 わけがわからない。

「ほら、その証拠にあの黒い霧が迫ってきている」

 青年は窓向こうの黒い霧を指差す。

「あなたも見える!? あ、あれって何なの!」

 すがる思いだった。

「それはこっちが聞きたいよ。君が誰かの夢路を混線させたせいで、流れていた産物なんだから」

「そう言われても! 今までこんなことなかったからわからないわよ!」

 わけのわからない会話に、山吹は半狂乱に近い状態だった。

「ま、そりゃあそうだよね。ずっと君は守られていたんだもの。それの封印がもう解けてかかっている」

 青年が指差したのは、山吹の座布団だった。

「あなたが無意識に夢路を行き来しないように、誰かが封印を施したんだね」

「ちょっと、それって」

 つまり、祖母は山吹が勝手に夢路を行き来しないように仕掛けを施したらしい。

 死んだ祖母がなぜそんなことをしたのか、山吹は検討もつかなかった。

 だが、祖母によって守られていたという事実に、強く座布団を抱きしめた。

 祖母の思いに感動しているなか、さっきから空気を乱す大合唱が聞こえる。

「あなた、お腹の音がうるさいんだけど」

 さっきからぐぅぐぅとお腹が鳴っている。

「いやぁ、最近、悪夢が食べられなくて、すっかりお腹が空いてしまって」

 しごく申し訳なさそうに、青年は頭を掻く。

「悪夢? 食べる?」

 わけのわからないことに、そろそろ山吹の頭はパンク寸前だ。

「ああ、君たちの言うところの獏という生き物でね」

 悪夢を食べるという伝説の生き物・獏。

 なぜ黒づくめの人間の姿をとっているかは不明だ。

「じゃあ、今すぐ私が見ているこの夢を食べなさいよ!」

「たとえ、食べたとしても、あなたがどこへ行きたいか、と自分を制御できない限り、あなたは誰かの夢路に迷い込み、悪夢は続きますよ」

「どういうことよ」

「他人の夢路を勝手に行き来できるってことは、あなたは夢そのものを見ない、そういう珍しい体質でもあるんですよ。その代わりに、他人の夢路を行き来する」

「何よ、それ」

「昔だったら、巫女とか就職先があったのに。才能が生かせないとか、残念、至極残念だな」

 山吹は思わずムッとしてしまう。その様子に、やれやれとばかりに青年は、肩をすくめる。

「封印をかけ直すことはできませんが、あなたが夢の行き来を制御できるよう、手習いをつけてあげることはできます」

「……何よ、いきなり」

「あなたがいれば、こんなガムを噛んで、空腹感を紛らせずに済むんだ。あなたが無差別にひとの夢に出入りするおかげで、悪夢に出会いやすくなるんですよ」

「最近はとんと美味しい悪夢にありつけなんで、とても困っているんですよ」

 舌なめずりをして、山吹をじろりと見た。

 山吹はどうすればいいのか、悩んだ。

 その間にも窓硝子を叩く音が激しくなる。

 とうとう硝子戸が割れ、黒い霧がやってきた。

「ああ、お前が連れてきた悪夢がやってきたね。どれ、美味しそうだ」

 青年は割れた硝子戸を開けて、闇を招き入れる。

 店の明かりは消え去った。

 山吹は座布団を抱えながら、小さく体を縮こませた。

 しかし、青年は山吹の腕をとると、立つように促す。

「さぁ、夢路を通って、会いに行こうか」

 目がらんらんとひかっている。

「会いに行く?」

「ああ、この夢を見ているひとの元へ。これをやろう」

 手渡された提灯をかざせば、深きまでの距離がわかるようになる。

 だが、黒い霧に阻まれて、前に進めない。

「ちょっと何かしなさいよ!」

「えー、こんな麩菓子のような夢は嫌だよ。もっと奥にある上質な夢が食べたい」

「わがままを言うな!」

 とりあえず、腕に持った座布団で、悪夢を蹴散らしながら、奥へ進む。汗が滴り落ち、腕が重くなる。やけになって、山吹は青年に尋ねた。

「あなたが食べた一番美味しい悪夢って何よ!」

「美味しいと言っても、色々な尺度があるでしょう? 人間だとあまいとかにがいとか、ほら色々。一番を決めるなんて、とてもではありませんができませんね」

「じゃあ、記憶に残ったものでいいから!」

「妄執にかられた男のものでしょうか? さすがに食いきれずに、祟り神になってしまいましたが」

「いつの時代の話よ」

「千年も昔でしょうかね。ああ、ようやくたどり着いたみたいですね」

 黒い霧の心臓部にふたりはたどり着いた。

 自分の手さえ見えないような闇のなかで、小さな少女の泣き声が聞こえた。

 何度も母親を呼ぶも、どこにも声が届かない。

「闇への恐れ、根源的な恐怖だね」

「どういうことよ」

「昔、寝るときに電気を消すの、怖くなかったりした?」

「したわよ、真っ暗で豆電球をいつもつけてもらっていたわ」

「みんな、夜が怖いんだよ。でも、いまは夜もすっかり明るくなったものだから、こんな純然とした闇への恐怖を持つ子も珍しい」

 夢の世界のなかでも、闇に怯えるなんて、かわいそうだと山吹は思った。

 だって夢の世界では、瞼を閉じることはできないからだ。

 もう現実世界では瞼を閉じている。

 だから、夢の中では瞬くことはできない。目をそらすことができない。

「ああ、なんておいしいそうな夢!」

 青年は純然たる闇に喉を鳴らす。飢えた腹を満たそうと、貪り食べていく。

 山吹は泣いている女の子に、声をかけた。

「ほら、目ばっかりに頼らないで」

 それは、寝つきがよくない山吹に祖母が繰り返し言っていた言葉だ。

「私の声、聞こえる?」

「……うん、聞こえるよ。お姉ちゃん」

「いつかは覚める夢だけどね、ちょっとしたおまじないを教えてあげる」

「よく耳を澄ますの。何か聞こえてこない?」

 少女はしばらく黙ったものの、山吹に返答した。

「……聞こえるよ、母の寝息」

「なら、大丈夫だよ。帰れるよ」

 ボリボリと悪夢を青年が食べてくれているおかげで、だんだんとあかりがさし、少女の輪郭がはっきりしていく。

 山吹は少女の手を取った。

 熱く湿った手を引きながら、明るいところを目指す。前も見えない光に、目がくらんだ。

 やがて焦点が合うと、山吹は自室の天井であることに気づいた。

 カーテンから透けたひかりが、世界をさやかに見せる。

 朝が来たのだ。


 結局、座布団を直してもらっていないことに気づき、山吹は学校帰りに再び布団屋さんに持ち込んだ。カーテンの隙間から灯りが道路に漏れていている。のぞき込めば、年老いた男性がひとり、手仕事をしている。つい目線があってしまい、ぺこりと頭を下げると、男性は戸を開いた。

「ご用件は?」

「あ、あの座布団の綿を打ち直してもらおうと思って」

 座布団を見せると、式台に座って待つよう言われる。

「開いてもいいですか?」

「ああ、ぜひぜひ」

 開くとへたって、弾力を失った綿が見えた。

「いい綿ですね」

「あ、なんでも祖母の婚礼布団でしたっけ? それをばらして作った座布団だそうで」

「それはそれは。これは、けっこういい綿を使っていますね。お日さまにうんと乾かして打ち直せば、ふかふかになりますよ」

 布地は薄くなっているので、新しいものに替えてくれるという。

「最近はとんと座布団の打ち直してなんてなくてな、ちょっと奥から生地見本帖を取ってくるよ」

 手持ち無沙汰にあたりを見渡すと、ふと神棚が目に入った。施された彫りに、私はぎょっとする。

「ば、獏? 変わった神棚……」

 あっけにとられている私に、店主は「うちは布団屋ですからね」

「いつの頃からかわかりませんが、ずっと祀らせてもらっているんですよ。ずいぶんと昔、お客さまの夢にお邪魔していらっしゃる、と話を聞きますが、どうなんでしょうね」

 店主はにっこりと微笑んだ。

「また取りに来てくださいな」

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