なきむしとほんのむし

@iwao0606

第1話

 自分はひとの気持ちがわからない人間だと、先輩は自嘲する。

 そして、いつも先輩はお菓子があふれんばかり詰まったクッキージャーと珈琲を差し出してくれる。

 ぐすぐすっと嗚咽を漏らしながら泣き腫らす私は、クッキージャーを抱えて、悲しいことを話すのが常だった。

 先輩はずっと話を聞いてくれる。

 でも、私がなぜ悲しいのかまでは理解できないらしい。

 ひととおり気の済むまで話させてくれたら、そっと自分の意見を添えてくれる。

 いつも、あくまで私の意見だからと語り始める声音は押し付けがましくなく、やさしい。

 冷静な分析でやわらかく傷つけてから、先輩は今まで読んできた本で適切な事例のあるものがあったと塔のように積み上げられた本を漁る。

 私はその本を借りて、家に帰る。少し寝たあとで薦められた本を読むと、私はおそろしく癒されるのだ。


 一度先輩に尋ねたことがある。なぜひとの気持ちがわからないなんていうのだろうと。

 その問いに先輩は目をぱちぱちさせたのはいまでも良く覚えている。

「私にはね、動作や仕種から判断してそのひとが傷ついているかはわかるんだよ。でも、そこから何かを感じることはないんだ。わかるという気持ちは、経験の類似つまり一種の共感だろう? 私にはそれができない。だから、私は自分自身がひとの気持ちがわかる人間とは思わない。他のひとはどうか別にしてね」

 先輩は鳩のような罪のない瞳で語る。

「自己正当化に聞こえるかもしれないけどね、他者の悲しみを理解すること、それを傲慢だと私は思うんだ。だって一体どれほど悲しみを理解できると言うんだい? その悲しみはそのひとのものだ。共感なんて言葉で私が汚してしまうのはもったない」

 言い切る先輩に、嗚呼このひとはなんて純粋なのだろうと思った。

 そして、とてもさびしいひとなのだと思った。まるで先輩の部屋のように。

  ひとり暮らしの先輩の部屋は、濃緑のソファーと、床を埋めるほどの本以外はめぼしいものはない。

 貴重な本以外は図書館で借りているものの年々本は増えているらしく、狭くなってかなわないと笑っていた。

  先輩は一度たりとも大事な悲しみは私に渡さない。

 定位置であるソファーで過去の偉人たちを鏡に自分と対話を繰り返しているだけである。

 時たま、自分が必要ではないのか、とすごく悲しくなる。

「大事なひととは楽しい時間を過ごしたいからね、私事でかき乱すのは本意ではないんだ」

  頭を撫でてくれる手はとても冷たく、とてもやさしかった。

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