襖絵の鯨

@iwao0606

第1話

梅子は、紀州一の材木商中村惣兵衛のひとり娘だ。

 今日も変わらずに不機嫌で、ぶぅと頬をふくらませている。

 というのも、のべつまくなしに蜜柑を食べ続けている目の前の女のせいだ。

 女の名は松蔓という。

 京から熊野までの旅途中、和歌山の城下町に立ち寄った女絵師だ。

 京でも評判の絵師ということで、父の惣兵衛はこれ幸いに彼女に襖絵を頼んだ。

 渡り廊下の襖すべてを一枚絵として描いてほしい、というおおがかりな依頼だった。旅人に頼む仕事ではないから断れるかと思われたが、松蔓はあっさりと頷いた。

 これを皮切りに惣兵衛は、あちらこちらに色々なものを頼みはじめた。

 ひとり娘の梅子の祝言だから、と張り切っては、家をひっくり返すような騒動だ。

 しかし、祝言をあげる本人たちは、苦い顔をするばかりだ。

 呆れ返っている梅子はもちろん、番頭の平治郎も珍しく苦言を呈するありさまだ。

 そう言われても、「梅子の祝言なんだぞ!」と惣兵衛は言い張っては、依頼の文を書く手を止めない。

「梅子さまからも言ってください」

 祝言をあげるまでは梅子をさまづけする平治郎に、律儀な男だと梅子は思った。

 でも、祝言さえ終わってしまえば、梅子は平治郎の妻として仕えることになる。

 そのことを考えるだけで、梅子は憂鬱だった。

 それはあちらもそうだ、と思う。

 勤めている商家のひとり娘だというだけで、十も年下の女を娶るのだ。

 美しくもなく、愛想のない女を娶って楽しいこともないだろう。

 憂さを晴らすように、ぶらくり丁に繰り出しては遊んでいる、と風の噂で聞く。

「なぁに梅子さま。祝言も終われば、落ち着きますよ」

 女中はみな口を揃えて言う。

 行き場のない苛立ちをふつふつと抱えて梅子のもとに、件の女絵師はやってきたのだ。

 憂鬱と苛立ちのうえに不快さを重ねがけする松蔓は、今日も梅子のおやつを狙いにくる。

「梅子、今日も蜜柑をくれ!」

 客人だから無碍にはできない。

 凛と背筋を伸ばして、蜜柑を差し出した。

 松蔓は皮をぐいぐいと剥くと、筋が残ったままものを、ぽーんと口に入れた。

 頬いっぱいに咀嚼する松蔓に、梅子はため息を吐いた。

 蜜柑は決して安いものではない。

 けれど、毎日のように蜜柑が並ぶものだから、松蔓は紀州ではみかんが安いものと誤解している。

「一生分を食い納めしておかないとな」

 遠慮なしに食べ続けるものだから、さすがの梅子は嫌味を言った。

「そんなに食べてどうするんですか?」

「何って、食い納め。ここの仕事が終われば、蜜柑なんて贅沢なものは食べられないからな」

 貧乏気ままなひとり旅さ、と松蔓は尻を掻く。

 下品だと梅子は思った。

 しかし、松蔓は気に止める様子もない。

「どこまで行かれるのです」

「ちょっと鯨を見に行くのさ、熊野まで」

「鯨を?」

「熊野のほうでは鯨を獲るのだけれど、その姿がまた勇壮だそうだ。こりゃあ、一度拝まなきゃなぁって思ってな」

「はぁ」

 そんなものを見たいがために、わざわざ女ひとりで旅をしているのか。

 絵師は変わりものが多いのだろうか、と梅子は松蔓を見ながら思う。

「鯨獲りって男しか参加できないものって聞いているけれど……」

「断られたら、山の上からこっそりみればいいじゃねぇか」

 あっけらかんというものだから、梅子は逆に驚いてしまった。

「描いてみたいんだよ」

 松蔓の遠くを見るような眼差しに、梅子は何も言えなくなってしまった。


 暇さえあれば、松蔓は梅子の部屋を訪れていた。

 と言っても、何をするでもなく、ただ蜜柑をむさぼっては横になっている。

 襖絵は一向に進んでおらず、絹布に張り替えられた襖は、真っ白なままだ。

「仕事もしないで、蜜柑ばっかり食べて!」

 梅子に叱られても、松蔓は気にとめる素振りもない。

「ここは蜜柑がうまいなぁ」

 梅子はカチンとしてしまった。

 まるでここには蜜柑しかないみたいな言い方だ。

「蜜柑以外にもあるわよ!」

 松蔓のとぼけた瞳に、梅子はいよいよ腹が立った。

「今度来たとき、みてなさいよ!」

 梅子は吠えた。

 しかし、松蔓は「はぁ……」というばかりで、それがなお梅子の癇に障った。


 翌日松蔓が部屋を訪れると、梅子が仁王立ちで立っていた。

「これ!」

 ぐいっと差し出された檜の包みを受け取れば、まだほんのりあたたかい。

 蒸して匂い立つ檜とともに、ふわっと湯気が立つ。

 白い饅頭のうえに、焼印で本の字が押されている。

「何だこれ?」

「本ノ字饅頭!」

「そのまんまの名前だな」

「いいから、早く食べなさいよ!」

「はいはい」

 松蔓はひとつつまんでは、そのまま口に放り込んだ。

 むしゃむしゃと咀嚼する松蔓を、梅子は期待の満ちた眼差しで見つめる。

 酒の匂いがかすかに香る皮のなかに、こし餡がしっとりと上品におさまっている。

「……うまいなぁ」

 松蔓はつぶやくように漏らした。

「そりゃあそうよ! 紀州の殿様も食べる一品よ!」

 梅子は誇らしげに頷くが、本当か定かかは松蔓にはわからない。

 御三家の殿様が食べているものを口にできるなんて、そうそうありえないからだ。

「そりゃあ、贅沢なもんを食べさせてもらったな。お礼に何かを描いてやろう」

 懐から筆入れとくしゃくしゃになった紙を出す。

「そんなもの描く暇があるなら、さっさと襖絵を描きなさいよ」

「言うな、言うな。何の絵を描くか悩んでいるところなんだから」

 こんなやつでも悩むのか、と梅子は目を丸くした。

「けっこう失礼だよな、お前さんは」

「あなたのほうが失礼だと思うけれど」

 ひとの部屋にあがりこんでは蜜柑をぼりぼり食べる女に言われたくない。

「親父さんにお前さんのための絵だから、と言われてしまったからな。お前さんを観察しに来ているだけなんだけど」

 そんなの蜜柑を食べるための言い訳だ、と梅子は思ってしまった。

「お前さんは愛されているな」

 しみじみと松蔓は言うのに、梅子は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。

「そんなの建前じゃない。ただのご機嫌とりよ、見栄っ張りよ!」

「まぁ、それが仮に建前だとしても、大事にしなきゃならんよ」

 松蔓は梅子の気持ちを否定はしなかった。

「そういうのをしてくれるひとがいなくなるほうが、寂しいときもあるからな」

「寂しいことなんてないわ!」

 言い切る梅子を、松蔓はおだやかに見つめるばかりだ。

「だって! だって!」

 言葉にならない苛立ちを、梅子は松蔓にぶつけた。信じられないような暴言をいくつも吐いた。松蔓は何も言わないまま、じっと梅子に向かい合った。

 とめどなくあふるる感情に涙も重なり、梅子は荒れ狂う波のようだった。

 どうすればいいのかわからなかった。

 凪いだ瞳で見下ろす松蔓に、梅子がやつあたりをした。

「あんたに何がわかるのっ!」

 大店のひとり娘として生まれた梅子と、自由気ままに放浪しては絵を描く松蔓。

 家のために結婚する梅子と、好いた男と添い遂げることができる松蔓。

 何もかもが違う。

 梅子はようやく松蔓に羨望していることに気づいた。

 でも、羨望していたからと言って、梅子はこれまで生き方を曲げることなんてしない。

 次の世へと繋ぐための蝶番であることを、よく理解し、納得しているからだ。

 己が血肉を育んだものを裏切れるほど、身勝手な願望もなかった。

 ただ突然、目の前にあらわれた嵐のような女に、当てられてしまっただけなのだ。梅子はそう自分に言い聞かせる。

 どうしようもないことに、梅子は駄々をこねたくなってしまっただけなのだ。

 そんな梅子を見つめていた松蔓は、いきなり大きく頷いた。

「うん、決まった」

 そう言い残して、松蔓は泣き腫らした梅子を置いて、部屋を出て行った。


 それから三日三晩、松蔓は一心不乱に襖絵を描き続けたという。

 食べるものすら食べず、水を煽るだけで、ただ筆を動かし続けた。

 そしてできあがると、倒れこむように眠ったそうだ。

 梅子は松蔓に合わす顔がないままに、ひとづてに聞いたからその様子を見ていない。

 松蔓のほうも梅子に会わないままに、屋敷を出て行った。

 あんなに来ていたくせに、と梅子は唇を噛んだが、文句を浴びせかける相手がいないのではどうしようもなかった。


 やがて秋も深まり、梅子は番頭の平治郎と祝言をあげた。

 各地から集めた品々のおかげで、祝言はずいぶんと華やかなものになった。なかでも、一番評判がよかったのは、松蔓が描いた襖絵だった。

 しかし、梅子は襖絵を見ないままだった。ひと目目にしてしまえば、襖絵を破いてしまいそうだったからだ。

 梅子がようやく襖絵を見たのは、祝言が終わったあとだ。思い余って破いたとしても、もう許されるだろう。

 長い渡り廊下には、こうこうと月明かりが溢れる。

 照らされた八枚の襖絵には、遠く広がる海原と砂浜が描かれていた。

 松が風に吹かれ、空には鶴が旭に向かって、ゆうゆうと白い羽を広げている。

 何を意味して、松蔓がこの絵を描いたのかわからない。

 一枚一枚、梅子は襖絵を見ていく。

 きぃきぃと軋む床だったはずなのに、足がとられるような感覚に、梅子は眼を丸くした。

 板張りなのに、足裏が砂を踏んでいるようだ。へばりついた砂を、冷たい海水が洗い流していく。

 絡みつくような潮風に、喉の奥がつっかえてしまう。

 塩辛い海の味がした。

 梅子は砂浜に腰掛け、遠い海の彼方に思い馳せる。

 松蔓は鯨を見ることができただろうか。興奮した様子で筆を握る松蔓の姿が浮かんだ。

 この襖絵に描かれた海辺には鯨はいない。

 けれど、波下で力強く尾びれを打って、広い海原を駆け巡っている。

 そんな鯨の姿ばかりが目に映った。

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