第47話 父への想い

「毒に身体を侵されている。傷は塞いだ」


 少年の言葉に女性は頷く。


「詠貴殿、桂月さんの身体を少し起こして」

「一体何を?」

「見てれば分かる」


 詠貴は女性に言われるがままに桂月の上半身を起こし、自分の身体に寄り掛からせる。

気を失った桂月の身体はとても重い。


女性は両手で皿を作り、双眸を伏せた。

すると両手で作った皿の中に淡い光が集まって輝く。

光が消えるとそこには水が溜まっていた。


「私の水なら毒を癒せる」


「その水が……?」

「正確には私が神力を与えた水。さっき、あの人が彼の傷を癒したのも神力によるもの。この水には私の神力が宿っている」


そして女性はその水を薄く開かれた桂月の口元へと持って行き、口に流し込んだ。

こくりと水が喉に落ちる音がする。


少しずつ、口の中に流し込み、入らずに零れた水が桂月の口周りを濡らす。

徐々に浅かった呼吸が深くなり、ゆっくりと胸が上下するようになる。

呼吸が楽になれば苦し気な表情も少しずつ穏やかなものに変わっていく。


「あとは横にして安静にしておけばいい」


 少しずつだが、繋いだ桂月の手に温もりが戻ってきているのを感じて、詠貴は嬉しさで心が震えた。


「ありがとう……!」


 感極まって言葉が震える。

 詠貴は深々と頭を下げた。

 溢れた涙がぼろぼろと零れ、酷い顔になっているに違いないが、そんなことは構わない。


「貴女は……あの蒼子ちゃん、なのですね」


 幼くも整った容姿、身体は小さくも、大人びていて強烈に人を惹きつける魅力が彼女にはあった。今の姿はそれらに磨きが掛かった本来の姿なのかも知れない。


「桂月の命を救ってくださいましたこと、感謝申し上げます」


 この女性が何者であっても私は最高の礼を尽くす。


 そんな風に思ったのだ。


「お礼は彼に言ってあげて。貴女のことを守りたくて嫌いな人間にずっと傅いてきたようだから」


 その言葉に詠貴の胸は締め付けられる。

 嬉しさと恥ずかしさと、罪悪感、いくつもの感情が混ざり合い、詠貴は胸を詰まらせた。


「蒼子、その娘はこの邸の娘か?」


 少年が蒼子に問う。


「いいや、彼女は以前の邸の所有者の娘だよ」

「李天功の娘か?」

「はい……天功の娘、詠貴と申します」


 少年から見つめられ、詠貴は自ら名乗った。

 よく見ると、少年は幼い姿の蒼子に似ている気がする。

 顔立ちと雰囲気、特に目元がそっくりだ。



「ふむ」


 少年に凝視され、詠貴はたじろぐ。

 吸い込まれそうな、深い藍色の瞳に見つめられるととても緊張した。


「蒼子、この娘は……」

「気付いてるよ」


 何か言いかけた少年の言葉を遮るように蒼子は言う。

 気付いているとは一体、何のことだろう?


「その説明もしなきゃならないんだけど……」


 バタバタと息を切らして現れたのは一人の青年だった。 

「蒼子様!」

長身ですらりと長い手足、黒い髪を後ろの低い位置で結び、垂らしている。

 左の目元には黒子があり、下睫毛が長い。

 顔立ちは中性的な印象だ。

 荷物を背負い、手にも風呂敷に包まれた荷物がある。


「遅い、紅玉」

「うわっ! 何て格好してるんですか⁉ すぐにこれに着替えて……って、何で貴方がここに? 視察は隣町のはずでは?」


 紅玉と呼ばれた青年は荷物を女性に渡し、人目のない蔵へと押し込んだ。


「大丈夫ですか? って血が!」


 詠貴と倒れた桂月に気付き、青年は目を丸くして驚く。


「処置はしてある。問題ない」


 少年が青年に向かって言う。


「この人、蒼子様を攫った男ですね」


 青年が鋭い視線を桂月に向けて言う。

 横たわる桂月を今にでも踏みつけてしまいそうな雰囲気だ。


「……ごめんなさい……」


 詠貴は青年に向かって頭を下げた。

 きっと、物凄く心配していたに違いない。

 桂月もきっと自分のしたことを悔やんでいるわ。

 倒れた桂月の代わりに詠貴は謝罪の言葉を口にした。


「貴女に謝罪されても困ります」

「やめなさい、紅玉。彼女を責めないで」

 蒼子の言葉に顔を上げる。


 着替えを済ませた蒼子が蔵から出て来た。


 長い黒髪を夜風に靡かせ、藍色を基調とした着物に明るい色の帯を締め、花の帯飾りを着けており、とても似合っていた。

 神秘的で清廉された雰囲気が人の目を釘付けにする。


「だけど……!」

「桂月さんは私をここまで無事に連れて来てくれたわ。ここに来てからも私の身を案じて、自分の行いを悔いていた」


 蒼子は横たわる桂月に視線を落とす。


「主に背中を何度も突かれ、毒で生死を彷徨った。私を攫った報いはもう充分よ」

「でも……」


 まだ腑に落ちないという表情だ。

 蒼子は青年にゆっくりと近づき、華奢な腕を青年の背中に回し、優しく抱き締めた。


「心配かけてごめん。来てくれてありがとう」


 その言葉を聞き、ようやく倒れた桂月に対する憎悪が消失した。

 ゆっくりと身体を離し、青年は詠貴に視線を向けた。


「申し訳ありませんでした」

「い、いえ……桂月が彼女を攫ったのは事実です。それは目を覚ましたら改めて謝罪致します」


 蒼子を攫ったのは間違いなく桂月なのだ。

 凜抄に命じられたことであっても、その事実は変わらない。

 私を守るためにずっと手を汚してきたのだ。

 桂月が目を覚ました時、二人で一緒に謝罪をし、罪も共に背負う覚悟だ。


「彼は随分と酷い怪我だったようですが、一体何があったのですか?」


 詠貴は今までの事情を紅玉に説明する。


 すると、紅玉は小刻みに身体を震わせている。

 怒鳴ることはしないが、少し突けば破裂する水風船のように思えた。


「あの男……酷い怪我をした桂月殿を蹴り飛ばしただけでなく、彼女を井戸に落としただって……?」


 声に怒りが滲み、整った顔がみるみると険しいものに変る。


「井戸には落ちる必要があったから別に構わない」


 むしろ、礼を言いたいぐらいだ、と蒼子は言う。

 しかし紅玉は到底納得などしておらず、憤りを露わにしている。



 この二人は……恋人なのかしら?


 年頃の男女にしてみれば距離が近過ぎる気がするが、恋人のように甘い雰囲気ではないように思う。

 二人の関係は気になるが詠貴は頭を振り、思考を切り替える。


「詠貴殿」


 蒼子の凛とした声で呼ばれ、詠貴は少し緊張して自然と背筋が伸びる。

 大人の姿になった蒼子を前に、詠貴は彼女の存在がとても大きなものに思えた。


「貴女はどうしたい?」


 その質問の意味がよく分からなかった。


「この邸も、この町も、父に返したいと思っているのではないの?」

「それは……」


 蒼子の言う通りだ。


 詠貴は父が奪われたものを旋夏から奪い返したいと願いながら、苦痛にたえてきた。

 地主の認印、それに関する書類、そして竜神の宿る霊玉、それらは旋夏が持っている。



 これらを探し出して奪うのが詠貴の目的だった。


 しかし、旋夏の部屋に忍び込むのは困難で本人に直接問い質せば、夜の相手をすれば教えてやると言われ、身体が竦んだ。


 その時はどうにかして振り切ったが、その一件以来、生理的に近づけなくなった。


「できるのであれば……父が大切にしていたものを父の手に戻してあげたい」


 ここに残ると言った時、父は断固反対した。


 詠貴がいてくれれば、それで良いと、とう父は言ってくれた。


 しかし、娘は父が長年大事にしていたものを失い、悲しみに暮れる背中を見たくはなかった。

 この町も、町の人達の信頼も、この邸から見える町の賑わいも、全ては父が町の人達と作り上げてきたものだ。


 父にとって、詠貴にとってもかけがえのないものだった。

 忙しそうに働く父を誇らしく思っていた詠貴にとって全てを奪われ、部屋の隅で肩を震わせる父の姿を見た時、胸が張り裂けるくらい痛かった。


「取り戻したいですっ……!」


 この町が誇らしいと、そう言って笑う父に戻って欲しい。


 それが詠貴の願いだ。

 でも、そのためにどうすればいいのか、詠貴には分からない。


「でも……私の……我儘で、桂月が傷付いて……私は……」


 自分のために手を汚し、重傷を負った桂月を見ると自分のしていたことが正しいことか分からない。


 自分がこの邸に残ると言わなければ桂月もここに残ることはなかった。

 傷付く必要はなかった。

 この邸から離れた場所で悔しい気持ちを抱えながらも、小さな幸せに喜び

を見出して、幸せに暮らせていたのかもしれない。


 今とは違っていた未来を想像して詠貴の目からは涙が零れる。


「泣かないで」


 蒼子は詠貴の目元を撫でて涙を拭う。



「重要なのは貴女の気持ち」


「……私……の気持ち……ですか?」

 蒼子は大きく頷いた。


「貴女次第でこの現状をひっくり返せると言っているのよ」



 自信に溢れた蒼子の言葉に詠貴は目を見開いた。

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