よいむの章

よぅの夜

よぅの夜


 〟アオイ〝、それは人の子の名前である。とても勘の鋭い少年で、常人には見えないものを視ることができたという。とはいえ、幼かった〟アオイ〝にとって、怪異というものはそれはそれは恐ろしいものであった。自分たち人間と違う形のモノがわけのわからない言葉で話しかけてくる。時には追いかけ回されたり、道の途中や家の廊下の隅などで待ち伏せされていたりした。しかも、それが周りの人間たちには誰にも見えないのである。一人で叫びながら走り回ったり、物を振り回したりしている姿を見た人々は、彼を奇人変人、正体不明の人外魔境だとからかった。怪異も恐ろしいが、真に恐ろしかったのは何も知らない人間たちの好奇、恐怖、嫌悪の目だった。〟アオイ〝は怪異も人間も恐れ、すっかり心を閉ざしてしまった。そして、たった一人書斎に閉じこもって、一言もしゃべらずに黙々と本だけを読み続けるようになったのであった。

 幸いにして〟アオイ〝はとても賢く、文字の読み書き、またその本の内容を正確に理解することが同年代の子供たちより優れていた。母の読み聞かせてくれた黄表紙や、父の読んでいた難しい戦記物や古典文学など、彼は次々と本を読みあさり、とうとう書斎に保管されていた本を一年ほどで全て読みつくしてしまったのである。

 その頃からだった。〟アオイ〝の元を一人の人物が足しげく通ってくるようになったのは。その人物はいつも夜になるとどこからともなく現れる。そして、いつも〟アオイ〝の部屋の外にある縁側に腰掛けては、彼が眠るまでいつも物語りをしてくれるのであった。障子を開けないことを条件に、その人物は毎晩〟アオイ〝を訪ねてきた。その人物は〟アオイ〝が今までに読んだことも聞いたこともない話をたくさん話してくれた。その話を聞いているうちに〟アオイ〝はいつの間にか眠りに落ちて、気がつくと朝を迎えていた。不思議なことに、目覚めた時にはその人物の姿はどこにもなくなっていた。屋敷の戸口にかかっている閂も用心棒も動かされた様子はない。屋敷を囲む塀を乗り越えるという手段もあるが、梯子なしで人が登れるような高さではなかった。〟アオイ〝はそのことをずっと不審に思ってはいたが、その人物に聞いてしまえば、もう二度と物語りをしに来てくれない、と子ども心に感じ、彼の正体も、どうやって屋敷に入ってきているのかも聞くことはなかった。恐怖よりも好奇、まさに興が恐に勝った瞬間だった。

 そんな奇妙な逢瀬が始まってから、〟アオイ〝は彼から聞いた物語を巻物に書き留めていた。そのことに一番驚いたのは〟アオイ〝の両親であった。〟アオイ〝が以前にも増して部屋や書斎にこもりっきりになったことを心配して様子を見に行ったら、何かにとり憑かれたように、一人ブツブツとわけのわからないことを呟きながら、一心不乱に筆を走らせていたのである。しかも、その内容は両親の持っていた本にも書かれていない、それどころか聞いたことすらない奇妙奇天烈な話ばかり。それを嬉々として書き続ける〟アオイ〝を見て、この子は何か悪い病気にかかってしまったのかもしれない、と感じた両親はすかさず医者を呼び寄せて診てもらうことにした。結論、極度の心神喪失状態であるから、寺に預けて精進潔斎させるとよかろう、と言われた。

 両親は早速医者に紹介された寺に行くために〟アオイ〝を外に連れ出そうとした。だが、〟アオイ〝はその時、極めて真剣な表情で、しっかりとした口調で、行きたくない、との意志をはっきりと両親に告げたのであった。あまりに強情であったので、ついに連れ出すことを諦めた両親は、代わりに坊主を屋敷に呼んで説法をしてもらうことにした。〟アオイ〝は毎回退屈そうにそれを聞きながら、いつも何処か遠くの方を見ていた。

 何かに憑かれている、あるいは魅入られている。そう感じた坊主は、何処を見ているのか、と思い切って訊ねてみた。すると〟アオイ〝は、今日もあの人来るかな、と上の空で呟いたのだった。そこで初めて〟アオイ〝の元に謎の人物がずっと訪ねてくる事実を知ったのである。一体誰なのか、と問うたが、〟アオイ〝は何も語ることはなかった。当然だ、〟アオイ〝もあの人物が一体何者なのか知らなかったのだから。

 そして、その日の夜のことだった。〟アオイ〝は忽然と姿を消してしまったのである。大量の巻物を部屋に散らかしたままの状態で……。誰に尋ねても、何処を探しても、結局〟アオイ〝が見つかることはなかった。世間は、神隠しに遭ったのだ、といたずらに騒ぎ立て、ありもしない噂に傷つけられながらも両親はずっと〟アオイ〝の帰りを待ち続けていた。が、とうとう彼は帰ってこなかった。部屋は彼がいなくなったその日のまま。巻物と墨の香りが寂しげに漂うばかりだった。

 ある日、〟アオイ〝の母親はあることに気がついた。その時、彼女の脳裏には「百物語」という言葉が浮かんでは消えた。百話語られ、ろうそくが全て消えた時、何かが起こるというあの怪談話を。

 そう、〟アオイ〝の部屋に残っていた奇妙奇天烈な話が書かれた巻物の本数が全部で百本あることに……。






 《でも、この話には別の真実がある》

 シラタマがそう言うのでアオイは目をしばたたかせた。しかし、彼はやはり寂しそうに言うので、そこから先を聞いて良いのか、促すようなことはできなかった。どうしたら良いかわからずオロオロするアオイを見てシラタマは苦笑した。

 《まあ、それはまた今度、かな?――ごらんよアオイ。今の話、なかなか恐がっていた人は多かったみたいだよ。皆おびえた顔をしている。ろうそくの火はどんな感じだい?》

 そういえば、ろうそくのいい香りはより一層強くなっていた。アオイは、食べ頃だ食べ頃だ、と嬉しそうにとび跳ねながら言うので、シラタマはよし、と言いながらニヤリと笑うと、

 《もう一味、加えてこようかな。アオイ、君はここで少し待っていて》

 言うや否や、シラタマが天井から下の広間にストッと飛び降りる。何をしようとしているのか、アオイが不思議そうに見ている目の前で、彼はまずその広い室内を駆け、ろうそくの火を大きく揺らして回ったのだ。誰かが悲鳴を上げた。シラタマは今自分の姿を隠した状態でこのいたずらを行っている。人間たちからしてみれば目に見えない怪異が火を揺らしている、という光景を目の当たりにしてしまったのである。驚かないわけがなかった。ただでさえ先ほどの語りで相当恐が満ちていた。今のいたずらで、その感情はさらに増幅した。

 《いいねぇ、面白いねぇ! それ、もう一味だ!》

 シラタマは今度その場にいる人間の肩に乗ったり、顔をペロリと舐めたり、前足で鳩尾に一発お見舞いしてやったりした。そのせいで、人が急に部屋の隅に吹っ飛んだり、ゾクゾクと寒気がしたり、何やら気色の悪い感触が襲ってきたりする。人々はもう恐慌状態に陥っていた。

 今だ、とシラタマが目で合図を送ってくるのと同時に、今が食べ頃だ、と気がついたアオイが天井から降りてくる。そして、一番近くにあったろうそくの火をぱくりと飲み込む。

 あぁ、なんて美味しいのだろう! なんと甘美だろう! もっと、もっと食べたい!

 人々は更に悲鳴を上げた。突然ろうそくが消えたと思ったら、そこには青白い光がいてろうそくの火を丸飲みにする瞬間を見てしまったから。更なる恐慌状態の中で誰かが叫んだ。

 「青行燈だ!青行燈が出たぞ!」

 〟青行燈〝? また知らない音がアオイの元に聞こえてくる。この人もひょっとしたら、自分の正体を知っているのだろうか。だが、その人をまじまじと見てみると、彼は先日の二人とは異なる視線でこちらを見ているのだ。ギラギラとした視線で、口元がニヤニヤと歪んだその表情が恐ろしい。そう、ただの好奇に満ちたその姿がアオイにはとても恐ろしいものに見えたのだ。アオイはその人物から逃げるように一度天井裏へと戻って様子を見ることにした。

 未だ、恐慌状態の人間たちは、口々に〟アオイ〝の呪いだ、とか、祟りだ、とか喚き散らしながら、近くの障子を開け放って外へと逃れていく。

 《先に侵入してきたのはそっちだろ! 呪いだの、祟りだの、失礼な奴らだなぁ。恐がるぐらいなら来るんじゃないよ》

 シラタマの怒号が聞こえてくる。そうしているうちに人々は次々に逃げ出し、ついには先ほどアオイを〟青行燈〝と言ったあの人間だけが残る。彼は舌打ちをすると、どいつもこいつも、と何やらブツブツと文句を垂れながら、ろうそくの火もそのままに外へと出ていってしまった。そして誰もいなくなった広間にアオイは再び降りていくと、それら残ったろうそくの火をぱくりぱくりといくつかを飲み込んでいく。

 なかなか美味しかった、満足満足。

 アオイは嬉しそうにプルプルと震えながら宙を漂っていた。そこにシラタマが戻ってきて、満足そうなアオイを見上げた。

 《ん、たくさん食べられたみたいだね、よかったよかった》

 嬉しそうに尾を振りながら笑う彼に、手伝ってくれてありがとう、という意を伝える。すると、ボクも楽しかったしお礼はいらないよ、と返ってくる。それでも、とアオイは繰り返しシラタマに礼を述べた。

 いつもは誰にも気づかれないようにビクビクしながら食べに行く火も、今日は全く恐がらずに食べに行くことができた。シラタマが手伝ってくれたからであろう。改めて彼の存在の大きさを知り、彼に感謝の念を飛ばし続けるアオイであった。

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