[3-32] 民俗学者を投げ入れろ

 テーブルクロスでも、手を拭うための布でも、エプロンを裂いたものでも。

 とにかく傷に当て布をしてきつく縛り、ミアランゼはルネに応急手当を施した。

 この空間で尋常の応急手当がどの程度効果を及ぼすのか、普通のやり方で意味があるかは分からないが。


「わ、わたし……死ぬの……?」


 引き千切ったカーテンの上に寝かされたルネの呼吸は苦しげだ。

 ぐるぐる巻きになった上半身は、即席の包帯越しに血が滲んでいる。


「……死なせは、しません。絶対に……!」


 熱を帯びて汗が浮いたルネの額を軽く撫で、ミアランゼは立ち上がる。

 実際にはルネは既に死んでいるはずなのだが、だからといって現状を放置して良いとは思えない。


 ――おかしい! あれは、何だったのだ……? この空間は奇妙な仕掛けで私たちを閉じ込めはしたけれど、直接的に傷付けるようなことはしなかった。それが何故、急に……


 直感でしかないが、何か変だとミアランゼは思った。ミアランゼたちがこれまでやらされてきたことにそぐわない。

 第一、あんなことができるなら最初からやっているはず。何故今になって。


「ルネ。私は出口を探して参ります。可能な限り早く外に出なければ」

「……いかないで……」


 手を握り返され、潤んだ銀色の目で見つめられ、ミアランゼは罪悪感すら覚える。

 連れて行けたらそれが一番良いのだが、不用意に動かすのは止めた方がよさそうな傷だ。今はルネをここに残して状況を探らなければならない。


「どうかお聞き分けを。私では……その傷を治せません。一刻も早く対処できる方を、その、お医者様を、呼ばなければ。

 外に出る道を探して参ります。必ず、必ず戻ります」


 ルネの手をぎゅっと握ると、ミアランゼは足早に調理場を飛び出した。


 すると、その先には歪んだトンネルのようなものがあった。


「これは!?」


 廊下が狂っていた。

 四角いと言うよりも円筒状の空間になり、絨毯を敷いた床も煤けたような壁紙の貼られた壁も、泥酔時に見える景色のように歪んでいる。

 何かに切り裂かれたかのようなタンスや戸棚が宙に浮いていた。


 ――世界が……壊れている!?


 振り返れば背後の廊下は、ホッとするほどに常識的な四角い空間だった。

 ミアランゼの前方だけが一直線におかしくなっている。

 そして、歪んだ空間の先からは、微かに光が差していた。


 ――壊れていると言うよりも……壊されている?

   何か、この『隠れ里』の法則からすら外れた何かが起きているかのような……


 奇妙な空間に向かって行くことを、ミアランゼは一瞬躊躇した。この先で何かしかの異変が発生していることは確実だからだ。

 しかし、この異界を脱出する手掛かりがあるとしたら……


 立ち止まってなどいられない。

 ミアランゼは走り出した。

 羊毛でも踏んづけているような奇妙な質感の廊下を駆け抜け、穴が空いた壁から遊戯室に飛び込んで飛び交う遊戯盤の下を潜り抜け、ねじくれてしまった鍵付き扉の隙間に身体を捻じ込んですり抜ける。

 シャンデリアの落ちたダンスホールを駆け抜けると、目も眩むほどに強い光が壁の穴から差し込んでいた。

 その先からは、遠く、何者かが話し込んでいるかのような声が……


 ◇


 大霊樹の麓、神聖な儀式である洞の中には、常に無いほどのエルフが詰めかけていた。


 気が遠くなるほど巨大な樹の根元に存在するそこは、ドーム状で半地下の広大な空間だった。

 壁も床も天井も、全てが複雑に絡み合った大霊樹の根でできていて、辺りには青白い光が飛び交っている。

 その中心に設えられた祭壇……は、蹴散らされ、床と天井から伸びる太い根のようなものが空中で結び合って何かを抱え込んでいた。

 獲物を絡めて包み込んだ蜘蛛糸のように、熊より大きな赤黒い宝石みたいなものを空中で縛り上げていた。


 巨大で禍々しい宝石のようにも見えるこれは、異界への門だった。

 本来であれば森に還った父祖が静かに眠る場所。ゲーゼンフォール大森林と重なり合って存在している『聖域』。

 だが、今、それは"怨獄の薔薇姫"を捕らえる檻として機能していた。


 内に強大な邪悪を抱え込んだ証とでもいうように異界への門は禍々しい色に染まり、普段は見ることも触れることもできないはずなのに今は実体化していた。

 それを大霊樹の力で、中のものが溢れ出ないよう封印しているのだ。


 異界への門を縛り上げる蔓の隙間からは、門に向かって剣や槍、矢が突き立てられていた。

 人智を越えた技巧により美しく装飾された武器ばかりだったが、それは急速に色褪せ、やがては砕けて砂となり、舞い散っていく。


「か、神より賜りし我らが重宝が……」


 ジバルマグザはその光景を見て愕然とする。

 突き立てられた武器はどれも、400年前の大戦で神々より賜った武器だ。部族の戦士たちは、あの武器を手に勇ましく戦い、億を数える魔族の軍勢を薙ぎ払った。

 その後、久しく使われることはなかったが、賜り物の武器は部族の象徴だった。

 それがあまりにもあっけなく壊れていた。


「かつての大戦で酷使され、さらに長い時間が流れたことで、宿した力は薄れていたのでしょう。

 ですが、問題ありません。よくやりました。邪悪を討つ武器は確かに、その役目を果たしましたよ」


 その光景を見ていたクルスサリナは、全く心動かされた様子も無く静かに言った。

 否、それがもうクルスサリナでないことは気配だけでも分かる。

 巫女は儀式の際に父祖の霊を身に降ろすことがある。だがこれはさらに一歩進んで、身体を完全に明け渡して傀儡となったような状態だ。

 即ち、偉大なる父祖の霊そのものの意志がクルスサリナを操っていた。


 クルスサリナの長い緑髪にも、緑色だったはずの目にも、神々しく輝かしい太陽のような光が宿っていた。その目で射すくめるように見られると、理解しがたいほど強大なものと向き合っているのだと本能的に感じさせられ、ジバルマグザは畏敬より恐怖に近い感情を抱いた。


「討ったのですか……"怨獄の薔薇姫"を……」

「いいえ」


 あくまで確認のつもりだった一言を否定され、ジバルマグザは耳を疑った。

 長老衆も、周囲を固める精鋭の戦士たちもどよめく。


「何?」

「足止めとして充分な、大きな傷を負わせましたが、未だに"怨獄の薔薇姫"は滅んでおりません。奇跡の力が足りなかったのです。あなた方が神々より賜った奇跡より、邪神が"怨獄の薔薇姫"に授けた奇跡の方が強かった……

 ですがご安心ください。ケーニス帝国にも邪悪を討つべく志を立てた者は居り、そして私たちより多くの奇跡を保有していることでしょう。

 彼らにとっても"怨獄の薔薇姫"は敵です。彼らの力を借りるのです。さすれば銀の禍星を滅ぼすこと叶いましょう」


 蕩々とクルスサリナがそんなことを言うものだから、その場に居る全員が唖然となった。


「それでは、話が違う……! "怨獄の薔薇姫"を討ってその力を奪い、森を守る糧とするのではなかったのですか!?」

「それは私の力ではとても難しい。ですが、そうとでも言わなければあなた方は、私に協力しなかったでしょう?

 悪いのはあなた方です。私の言葉を聞こうとしなかったのですから」


 悪びれもせずクルスサリナは言い放つ。

 "怨獄の薔薇姫"を倒すことで利があるのだと説いて、彼女は部族の秘宝を持ち出させたのだ。

 だがそれは大嘘だった。


「もはや引き返すことは成りません。依然として聖域は外部から干渉を受けています……いつかは"怨獄の薔薇姫"が聖域を抜け出してしまうことでしょう。その時、その怒りは私たちにも、あなた方にも向かうことでしょう。

 邪悪なる者どもと手を組むことなど不可能。帝国と手を携え、"怨獄の薔薇姫"を消滅させるより他に無いのです」

「それでは、森はどうなるのです! 一歩でも踏み込ませれば帝国に奪われてしまう……!」

「今大切なのは、この世に仇為す邪神の徒を滅ぼすこと。森一つを何者が所有するかなど些事ではありませんか」


 誰からともなく、引きつった悲鳴のような声が上がる。

 取り返しの付かない過ちを犯したのだと悟ったのだ。


 ――これは、こんなものが、本当に父祖の方々の意志総体だと言うのか……!?


 ジバルマグザも、一切の感情を消し去ったような澄まし顔の巫女長を睨み付け、ぐらつく足下を辛うじて支えていた。

 この森を失ったらどこへ行けというのか。まともに生きていくことなどできはしない。

 森を守ること、部族を守ること、それは至上であったはず。

 だというのにクルスサリナは……彼女に宿った魂は、それをどうでもいいことのように言った。


 ジバルマグザは父祖の判断に疑問を持つことこそあれど、彼らが森と部族を愛していることだけは間違いようが無いと考えていた。何しろ彼らはかつて部族の一員であった者たちなのだから。

 しかし。しかし……


 どくん、と怖気を誘うような音がして、ジバルマグザははっと異界の門を仰ぎ見た。

 太い蔓に絡め取られている、グロテスクに赤い門が、脈動していた。


 直後、周囲に光が舞ったかと思うと、白々とした光で形成された人型の存在が大空洞の外縁を埋め尽くすほどの数で現れた。彼らはその手に、身体と一体化しているかのような光の弓を携えていた。


「『映し身』が……?」

「武器を取るのです、戦士たちよ! 邪悪なる者が、聖域の傷痕より抜け出そうとしています!

 先程の攻撃で聖域も傷ついております。修復が間に合わな――」


 クルスサリナが檄を飛ばし、何事かと訝しみながらも戦士たちが武器を構えた時だった。

 絡み合う蔓の間から滑り出すように、産み落とされる獣のように、黒いものが落ちてきた。


 清浄な光に満ちたこの空間で、その女は異質だった。

 人間が使う白と黒の給仕服姿。毛皮のような質感の艶やかな頭髪から突き出しているのは三角形の黒い耳。血の気が無く蒼白な肌と対照的な、血のように赤く光る目が怒りに燃える。

 皮膜の翼を広げる彼女の邪悪な気配は、清浄にして静謐であった空間を淀ませていく。


「……フゥウウウウウウウッ……!」


 彼女は背中を丸め、猫のように威嚇の声を上げた。

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