[2-58] ジジイインパクト
聖女を象ったステンドグラスが見下ろす礼拝堂で、侃々諤々の議論が巻き起こっていた。
「抜け道を通って逃げるべきではありませんの?」
「しかし逃げた先でどうするのだ。魔物に見つかったら意味が無いぞ」
「このままここに居るのも危険じゃないだろうか」
「侯爵様の兵が負けるとでもおっしゃるの!?」
「そんなことは言っていないだろう!」
「おかあさまぁ……こわいよぅ……」
「逃げたいもんは逃げたらええ」
「おい、抜け道を開けたら逆に侵入されるかも知れないんだぞ」
「だから……逃げるもんが逃げたらまた閉じればいいんだ」
「そ、そんなことをしたら危険な目に遭った時、戻って来られないではありませんか!」
「だったらここに居ればいいだろう!」
地位も名誉もあろうという人々が、危機感の炎に煽られるままにツバを飛ばし合う。
礼拝堂に避難している使用人たちはそれを見て、口も挟めず狼狽えるばかりだ。
堅牢な城壁と屈強な兵たちに守られた城の中。アンデッドが忌避する聖なる場所。そしていざという時の抜け道。
城内の礼拝堂に避難した者たちは(若干一名を除いて)、不安でありながらも『ここに居ればどうにかして助かるだろう』と頭のどこかで楽観していた。
しかしなんだか妙に近くから戦いの音が聞こえるようになり、大きなものが崩れるような音も聞こえ、皆がだんだんと不安の色を濃くしていった。
逃げるべきか、逃げざるべきか。
指示も誘導も無い。
先程まで時折聖水を取りに訪れていた騎士たちも姿を見せなくなっていた。
そんな言い争いをキャサリンは、礼拝堂の隅からぼうっと見ていた。
危機が迫っているのかも知れないという考えはキャサリンにもあったが、自分が自分でなくなってしまったように感じて、命の危機という感覚が遠い。
それよりもキャサリンは先程の奇妙な出来事を頭の中で反芻するのに夢中だった。
あれは幻か何かだったのだろうか?
そんなはずはない。
ルネはここに現れた。そして、キャサリンに
あの瞬間キャサリンが見たのは、ルネの心だったのだろうか。きっとそうだ。どうしてそんなことになってしまったかは分からないが、キャサリンは確かにルネの心を見た。
人の身には抱えきれないほどの怨嗟と悲しみを、己のものであるかのようにキャサリンは抱き留めてしまった。
黒い炎が燃えさかる悪夢の中をさまよっているような気分だった。胸がざわめき、締め付けられる。あんなものを、あんな気持ちを。
「ええい、わかった、わかったぞ。ならこれでどうだ!」
永遠に続くかのように思われた話し合いがブレイクし、目覚めながら悪夢の中をさまよっていたキャサリンはほんの少し、目の前の出来事に興味を持った。
業を煮やしたように、初老くらいの紳士が動き出していた。
富裕な商人か一線を退いた騎士かという出で立ちだ。夜会服でバッチリ決めた彼は、茹で卵の血族であると疑われる見事な頭をしていた。
「従僕ども、こっちへ来い」
偉そうに命じた彼に言われるまま、避難中の男性使用人数人がどこかへ出て行く。
そして彼らはすぐに戻って来た。壺やら瓶やら、とにかく水が入ったものを色々と持ってきて、茹で卵頭の男の指図に従い礼拝堂前方の祭壇上に並べ始める。引きずるほどに大きな瓶まで持ちだし始めた。
――誰も止めない……? なら、良いのかしら?
何をしているかは概ね分かるが、仮にキャサリンの推測が正しいのなら、これは一種の危険な賭けだ。
「あの、何をしていらっしゃるのですか?」
指図している男に、キャサリンは思いきって聞いてみた。
「ああ? 聖水だよ、聖水を作っているんだ。祭壇に捧げた水は神様のご加護によって聖水になる。
これを掛ければアンデッドは倒れるんだ。聖水があれば逃げてもいくらか安全だろう」
「一度に……こんなに、たくさん?」
「そりゃ、そうだよ。どれだけあっても足りない。騎士たちもまた聖水を取りに来るかも知れないしな」
祭壇の上は雑貨屋でも開いたような賑やかな有様だった。
男が全く何も考えていないらしいと察し、キャサリンは血の気が引いた。ぼんやりとルネのことを考えていたキャサリンは急激に現実に引き戻された。
「いけませんわ、おやめになって!」
「なんだと?
おい、失礼だぞ。お前はどこのガキだ!」
「そんなことは関係ないではありませんの!」
茹で卵じみた頭の男は、キャサリンに静止されると急に不機嫌そうに顔を真っ赤に染めた。卵のみならずタコの血筋をも感じさせる。
「年長の男性に対する口の利き方、というものを知らないようだな! お里が知れるというものだ!」
言葉で殴りつけるような怒鳴り声で男は言った。
近くで様子を見ていた小さな男の子が泣き出すほどの大声だ。
しかしキャサリンは自分でも驚くほどに動じなかった。先だっては本当に恐ろしい戦いの最中に放り込まれたし、ついさっきは思い出したくないほどおぞましい何かを見てしまったのだから。
「れ、礼儀の話などしている場合ではありませんわ!」
「関係あるとも、そこへ直れ! まともな乳母を付けられなかったようだな! 代わりにこの私がこの国の未来のために若い者へ教育を……」
茹で卵男(もしくはタコ男)は尚も高圧的に何か言おうとしたが、彼の怒鳴り声は強制的に中断させられた。
礼拝堂の扉が蹴り開けられる騒々しい音によって。
兵の出入りが容易であるよう、扉は塞がれていなかった。
腐った夜風が吹き込んでくる。
闇の中にいくつもいくつも、赤い光が並んで浮かんでいた。
「聖水は聖気を集めて作るものだから……一度に作りすぎると周りの聖気が弱まるのだと……お姉様がおっしゃってましたわ……」
青白く干からびたような身体、赤く輝くうつろな目。
明らかにアンデッドと分かる群衆が、そこに。
祭壇はこの礼拝堂の
内部に漂う聖気の流れが結ばれる場所であり、そこに水を置くだけでも聖気を吸って聖水になる。
だがそれは、水に聖気を溶かした分だけ礼拝堂内の聖気が薄れるということであり。
ここでアンデッドが現れたりしたら、聖気による忌避効果が思うように働かず、環境からの
その、最悪のタイミングでの襲撃だった。
聖気がちょっと薄くなったところで平時であれば問題無いし問題にされないだろうが、今ここで聖気を薄れさせることは盾を投げ捨てて鎧を脱ぐに等しい。
多くの神官と人々の祈りを集める街の神殿と違い、ここは城主のための礼拝堂。集まる聖気の量はただでさえ少ないのだ。
「い、いやあああああああ!!」
「な、なんでこんなところに魔物がいるんだ!?」
悲鳴が上がり、辺りは蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
アンデッドは怒濤の如き勢いで流れ込み、手近な者から順に飛びつき、床に組み伏せていく。
「ぎゃああああああ!!」
倒れた者の全身を貪るように数体のアンデッドが飛びつき、所構わず牙を立てる。
おぞましい叫びを上げて死んだ犠牲者は……やがて、よろめきながらも立ち上がった。他のアンデッドたちと同じように赤く目を光らせ、青白く干からびた顔色で。
「吸血鬼……!」
血を吸って仲間を増やす、忌むべき闇の眷属。非常に有名なアンデッドモンスターだ。
吸血を目撃してしまった貴婦人が衝撃のあまり貧血を起こしたように卒倒し、そしてそのまま吸血鬼の群れの餌食になった。
流れ作業のように犠牲者が増え続ける中、皆が少しでも礼拝堂の入り口から離れようと祭壇の方に殺到する。
その狂騒に反比例するように、キャサリンは凍てつく湖面のように心が静まり冷静になっていくのを感じていた。
「抜け道! 抜け道から逃げるんだ!」
祭壇の周りに集まった人々は、勢いそのまますがりつくように最奥の神像に手を掛ける。
この神像を動かした裏側に抜け道があるのだ。
主に女・子ども・老人という腕力に不安のある面子ではあったが、力のある男性使用人たちが総掛かりで力仕事に取りかかった。
しかし、神像の動きは重い。
「早く、早く道を開けなさい!」
「動かな……これっ! 錆び付いているんじゃないか!?」
動かすためのミゾと車輪が付いている様子なのだが、ミゾも車輪も錆び付いていた。抜け道はあってもまともに使ったことがなく、整備もおざなりだったようだ。
これなら仮に抜け道が発見されても簡単には侵入されなかっただろうが、自分たちが使うとなれば絶望でしかない。
神像が動くより早く、じわりじわりとアンデッドたちは詰め寄ってくる。
「来てるぞ、来てるぞ!」
「この聖水で追い払えば……」
「無理だ、敵が多すぎる!」
「ええい、くそっ!」
と、神像の周りで押し合いへし合いしている中から茹で卵頭の男が飛び出した。
彼は祭壇の前に跪くと、大きな水瓶に手を掛ける。
そして、水瓶を自分の方に倒した。
どうどうと流れ落ちる水が禿げ頭に注がれ、夜会服をびしょ濡れにして床の上に広がった。
「これで大丈夫だ!」
やり遂げた表情で宣言する男に、一瞬、その場の全員があっけにとられた。
「な、なんて事をしてくれたんだ!! 貴重な聖水を!」
腰の曲がった老人が杖を振り上げ食ってかかる。
「これではどうせ全員は助からん! 助かるべき者だけでも助かるべきだ! だいたいこれは私が作った……」
傲然と言い放った濡れ鼠の男だったが、しかし。
キャサリンは見た。濡れて輝く茹で卵頭目がけて振り下ろされる物体を。
「ぎっ!?」
頭部を殴られた茹で卵頭の男はよろめき倒れ込む。
どうにかこうにか起き上がるものの、頭から真っ赤な血が流れ出していた。
いかにも『
しかし、それならそれで道具を使うという知性が彼らにはあった。
吸血鬼の集団の中には火かき棒だの細長い角材だの、あり合わせの武器を持った個体が数体だけ混じっていた。そいつらが前に出て、聖水漬けの男を
「やめ、待て! 武器を使うなんて反則ぶびらっ!? ぎゃ、あぐふぅっ!!」
滅多打ちにされる男の断末魔が断続的に響き、やがて静かになってもアンデッドたちは殴り続けている。
どうやら確実にトドメを刺す気でいるようだ。
聖水漬けの男に近寄りたくないらしく、腰は引けていて、腕を伸ばして獲物の先っちょでぶん殴るような有様だったが。
「こいつめっ!」
右腕を肘辺りで失っている若い男が祭壇に駆け寄り、それを思いっきり蹴り上げた。
上に載せていた物ごと祭壇がひっくり返った。騒々しく鳴り響きながら、残った聖水の容器がぶちまけられる。
それは必然的に、祭壇前で血まみれになっている男と、それを囲んで殴っている武器持ちアンデッドたちに降りかかる。
「ア……アァ……」
「アアアアア…………」
絡繰りの軋みみたいな声を上げながらアンデッドたちが倒れた。
聖水がかかった部分は白茶けて崩れ、直撃を受けた個体は完全に湿った白い灰の山と化す。
周囲の吸血鬼たちが後ずさった。
「倒した、けど……聖水が……」
隻腕の男は食いしばった歯の間から苦い声を吐く。
聖水が撒き散らされたことで吸血鬼どもは後退したが、いつまでもこうしているとは思えない。
実際、退いた吸血鬼たちは隊列を組み直し、中央に撒かれた聖水を迂回するかのように壁際へと集まり始めていた。
「早く抜け道を!」
「重いぞ!」
「もっと力を入れろ!」
神像を動かす人々は(おそらく全員が抜け道のずさんな管理を呪いながら)ナメクジと良い勝負になりそうな速度でスライドさせていく。
間に合うかは、分からない。
「おい、誰か戦えないか!」
隻腕の男は、アンデッドが落とした武器の中でもなるべく長い角材を選び、それを床にこぼれた聖水の上に転がしていた。見た目は悪いが、これで聖なる武器が一丁上がりだ。
いかにも持ちにくそうに、彼は左手一本で長い棒を構える。
だが誰も彼の呼びかけには答えない。
女たちはそもそも自分が言われたとは思っていない。戦うのは男の仕事だ。使用人も貴婦人たちも、礼拝堂の奥の隅で一塊になって震えている。
子どもたちだって脅えているし、どう見てもキャサリンより年下の子ばかり。何ができるかも怪しい。
「魔物とのっ、戦い方なんてっ、知らないぞ!」
「それにっ、俺たちじゃなきゃっ、この抜け道っ、開けられないだろっ!」
もはや親の仇の如く神像を睨む男性使用人たちは、断固として戦闘を拒否。
彼らは武人ではないし魔物との戦闘経験も無い。武器を振り回すくらいはできるだろうが度胸が追いつくか怪しい。
それでもこの場で一番マシな戦力なのは間違いないが、しかし抜け道開通のための作業員が必要なのも確かだった。
「もうわしゃあ無理じゃ!」
「あ、あと十年、いや二十年若ければやれたが!」
かつて騎士として剣を振るっていただろう隠居の老人たちも首を振る。
迫る吸血鬼たちに相対するは、利き腕を失った騎士ひとり。
赤く光る無数の目がこちらを見据えている。
抜け道を開くまでにあと何分何秒必要なのか分からないが、持ちこたえられるはずがない。
とにかく、あの牙を遠ざけつつ戦えるような武器がこの場には無いのだ。
鎗の一本でも備え付けてあればかなり状況は変わったかも知れないが、護身用のナイフや吸血鬼が落とした火かき棒では危険過ぎる。棒きれのような角材が一番マシという有様で、あとは適当に物を投げつけるくらいだろうか。
いや。
キャサリンは弾かれたように飛び出した。
神聖角材を構える男の足下で、横たわる死体の上着を掴む。
「何を……」
キャサリンは皮でも剥ぐように、上着を男から奪い取った。だいぶ血が付いてしまっているが、頭から聖水を被っただけあって絞れそうなくらい聖水が染みている。
近くに転がっていた軽くて小さな金属製の釜を取り上げると、キャサリンはそれを上着で包む。
それからキャサリンは護符を装備するため服の上から着けていたベルトをほどくと、それをきつく締めて上着を巾着状に縛り上げた。兄から借りたベルトは長すぎて、キャサリンの腰を二巻き以上するほどだったが、しかし今その長さには意味があった。
「お兄様から借りて読んだ本の物語に……こういう話が、あったのですわ」
最前線に出て来て工作しているキャサリン目がけ、数匹の吸血鬼が突進してきた。
撒き散らされた聖水から立ち上る聖気で身体を灼かれながらも、吸血鬼たちは牙を剥いてキャサリンに襲いかかる。
何かおかしいと判断し、自らが聖気の中に足を踏み入れ倒れるのも厭わず、キャサリンを狙って来たのだ。
キャサリンは。
ベルトの片端を手に巻くように持って、巾着包みになった上着を振り回した。
中に入った釜は軽いが打撃のための形を作り、ぐっしょりと濡れた服はかなりの遠心力を発揮する。キャサリンは引っ張られそうになりながらも足を踏ん張って耐えた。
迫り来る吸血鬼たちが、まるで最初から灰の塊であったかのように上半身を白い灰として吹き飛ばされた。
「ろうやにつかまってしまった冒険者が、そこから逃げ出すために……
くつしたに石を詰めて、武器にしたって……!」
黒い炎の中に立つ自分を思い浮かべるだけで、キャサリンは戦う勇気が湧いてきた。
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