[1-7] スイス銀行一括振り込み

 ミリアムが親の借金のカタとして身売りすることになったのは13の夏だった。


 父はもともと貧しい小作農であったが、その父が流行病にかかって身体を壊してからというもの、家計は坂道を転がり落ちるように苦しくなっていった。

 そこに、ある年の凶作がトドメを刺した。膨らみきった借金は利子さえも返しきれなくなり、とうとうミリアムの身売りと引き替えに借金を清算することになった。

 両親はミリアムに泣いて詫びたが、ミリアムは気丈に振る舞い、後に残る弟妹たちのことを頼むとだけ言った。自分ひとりと引き替えに家族みんなが助かるならそれでいいと、自分を納得させた。


 借金のカタに取られた娘がするような『仕事』と言えばひとつ。娼婦だ。

 どうしようもないほどの嫌悪感があったが、ミリアムは必死に堪えた。反抗などできるはずもない。どんな恐ろしい奴が自分の飼い主なのか分かっていたから。


 シエル=テイラの夜の世界を牛耳る者たち……『ナイトパイソン』。父が金を借りていたのもナイトパイソンの息が掛かった金貸しだ。

 金のためならどれほどえげつないことも平然とやる連中だと聞いた。賄賂と脅迫で役人を操り、騎士団さえ手を出せないのだという。

 もしミリアムが逃げたとしたら世界の果てまででも追いかけてきて殺すだろう。そういう恐怖で娼婦たちを縛っているのだ。


 数年も経つ頃には、ミリアムはいっぱしの娼婦になっていた。

 吐き気のするような『仕事』さえ、やがては『日常』となり、なんとも思わなくなっていた。


 だが、ある時期を境に、ミリアムは厄介な客ばかりを回されるようになった。

 人を傷つけることで興奮する奴。妙な薬をミリアムに盛る奴。払いが渋いくせに独占欲が強く他の客を取ることを許さない奴。

 最初は偶然かと思ったが、違う。娼館がそういう客をミリアムに押しつけていたのだ。


 その理由がミリアムには分かってしまった。ミリアムを抱える娼館で最も価値の低い商品がミリアムだったからだ。

 十人並みの容姿であるミリアムにとって、売りにできるのは若さだけ。容姿が同じくらいなら若いほど価値が高いのだ。媚の売り方や愛想の振りまき方を必死で覚えたが、それだって『できて当然』のレベルに留まっていた。

 他の娼婦を消耗させないため、比較的価値が低いミリアムに被害を集中させたのだ。


 ミリアムは怪我をすることが増えた。それで店に出れない日があると稼ぎが減り、親方から殴られた。

 精神的にも追い詰められた。食事が取れなくなり、やせ衰えた。客はさらに減った。

 それでも堪え続けたが、ある日ミリアムは、親方が自分を二束三文で売る話をしているのを聞いてしまう。

 売り渡す先は、同じくナイトパイソンの息が掛かった麻薬工房だった。新しい薬を開発するための実験動物はいつでも不足している。つまりはそれがミリアムの次の……そして最後の役目だった。ミリアムは娼婦として見切りを付けられたのだ。


 簡単に盗み聞きできるような部屋でそんな話をしていたのは、何ができるものかとあなどっての事だろう。だがミリアムの行動は早かった。

 客が寝ている隙に財布を抜き取り、それを路銀にミリアムは逃げた。あれからずっと連絡も取れなかった家族の所へ。

 もしかしたら自分の行動は家族を危険にさらしてしまうのかも知れないと思った。だが、それでもミリアムは死ぬのが怖かった。家族と共に他国へ逃げようと思っていた。


 服を地味な安物に替え、髪を切り、フード付きの外套で顔を隠して、ミリアムは乗合馬車を乗り継いだ。次に乗り込んでくる客がナイトパイソンの追っ手ではありませんようにと祈りながら。

 祈りが通じたのかどうかは知らないが、ミリアムは国のほとんど反対側にある故郷の村まで、無事帰り着くことができた。


 そして数年ぶりに帰った家でミリアムを出迎えたのは、土間のテーブルに並んだふたつのしゃれこうべだった。


「え……?」


 どうしてここにこんなものが、とミリアムは思った。

 家の中には人の気配が無かった。

 あらっぽく物色したような跡はあったが、その上に厚く埃が積もり、人の出入りすら何年も起こっていなかったのだと物語る。


 父は、母は、弟は、妹は、どこへ行ってしまったのか。

 ミリアムは村の人々に事情を聞こうとした。


 久しぶりに会う村の人々はミリアムを見て皆驚き、しかしどこかよそよそしく、何を聞いても口を開こうとはしなかった。


 仲が良かった近所のおばさんが『私が喋ったと絶対に言わないでくれ』と念入りに前置きして言ったことには、ミリアムの家の借金は帳消しになっていなかったのだ。


 そんな馬鹿なと思ったが、なんでもその時の契約書には、借金を帳消しにするためのいくつかの条件が記されていた。そのうちのひとつが、働き始めて1年間でミリアムによる店への利益が一定額に達することだったというのだ。


 はっと、ミリアムには思い当たる節があった。

 最初の1年、ミリアムの給料は嫌に良かった。まあいくら金を貰っても、客の気を引くための服や化粧品やアクセサリーに使わされた(特に服は将来の分まで買わされた)し、先輩娼婦に何かとたかられたので貯金さえろくにできなかった。

 あの当時は仕事を始めたばかりで、この給料が普通なのかと思っていたが、今にして思えばのではないか。


 ともあれ、残された家族は無情にも『帳消し不可能』との宣告を下され、やむなく夜逃げすることになった。

 村人の誰にも告げずに一家は姿を消し……数日後、父と母の生首だけが無言の帰還を果たした。


 借金を踏み倒そうとした報い、そして他の者らへの見せしめとして、ナイトパイソンはふたりを殺した。ミリアムの弟や妹たちの行方は知れないが、彼らには商品価値がある。きっと商品にされたのだろう。なんらかの形で。


 村人たちはナイトパイソンの怒りを買うことを恐れて、ふたりの生首を葬ることさえできなかった。いつしかそれはただの骨となって、今日、ミリアムを出迎えたのだ。


「そんな……」


 ミリアムは両親の成れの果てを前に崩れ落ちた。

 ショックの余り涙も出なかった。


 堪え忍んだ年月は何だったのだろう。両親は、弟妹たちは貧しいながらも助け合ってきっと幸せに暮らしていると思っていた。それだけがミリアムの心の支えだった。


 どれだけの時間そうしていたことか。

 背後に人の気配を感じ、ミリアムは振り返った。


 赤黒い残照を背負って、何者かが家の戸口に立っていた。

 ありふれた旅装をした若い男だ。一見するとどこにでも居そうな……それだけに違和感の塊である男。

 彼が何者なのかミリアムは分かってしまった。

 ナイトパイソンの放った刺客。娼館を逃げ出したミリアムを始末し、見せしめとするために現れた暗殺者だ。


「どうして……?」


 ミリアムのこぼした言葉に男の答えは無い。

 彼はぎらつくナイフを抜いて、ただ無造作にミリアムに向かって歩み寄る。


「どうして、お父さんとお母さんが死ななきゃいけなかったの?

 どうして、私の弟や妹たちはここに居ないの?

 どうして、私は死ななくちゃいけなかったの?」


 男は答えない。

 別に彼が両親を殺したとも限らないわけだが、ミリアムは問わずにいられなかった。


 父が、母が、ミリアムが何をしたというのだ。

 貧乏でも毎日を精一杯に生きていた。

 だというのに、悪い奴らが金儲けをするためだけに、全てを搾取されて滅茶苦茶にされてしまった。


「どうして? どうして!?」


 ミリアムは立ち上がった。

 不安のあまり、道中で護身用として買い求めていたナイフを抜いた。


「みんなを、返してっ!!」


 男に向かってミリアムはナイフを突き出す。

 そして、2本のナイフがミリアムの胸に突き刺さっていた。


「え……?」


 一拍遅れて、痛みがやってくる。

 何が起きたのかも分からなかった。

 ミリアムの手から消えたナイフが、男のナイフと一緒に胸に突き立っていた。一瞬で武器を奪われ利用されてしまったのだ。


「あ……う……」


 上手く息ができない。喉から血がせり上がってくる。身体に力が入らない。ミリアムは倒れた。


「かえし……て……」


 伸ばした手は届かず、ミリアムの意識は闇に沈んだ。


 * * *


 急に身体が軽くなったと思ったら、ミリアムは血の海に沈む自分を見下ろしていた。


 ――これは……?


 少しだけ宙に浮いていた。

 家の中にはまだ先ほどの暗殺者が居て家の中の様子を調べている。


 手を見ると、青白く透けて、反対側の景色が見える。


 ――魂だけの姿……


 そう、ミリアムは死んだのだ。

 埋め合わせようがない、飢え乾くような喪失感が心を苛む。


 死んだ者の魂は天より降る光に導かれて神の懐へと帰り、安寧を得るという。そしてやがてまたこの世に生まれ来るのだ。

 だがミリアムは、その導きを感じなかった。

 ミリアムは恨みの余り現世に囚われてしまったのだ。


『あ、あ、あ、あああああああ!!』


 どす黒い恨みの炎がミリアムの中で燃え上がった。


『どうしてっ! どうしてよっ!!』


 怒りのまま、ミリアムは暗殺者に殴りかかる。

 だがその拳は虚しく空を切っただけだ。


『お父さん……お母さん……』


 肉体が無くなった今になって涙が湧いてきた。床の上にうずくまってミリアムは吠えるように泣いた。

 泣いても泣いても悲しみと怒りと恨みが、後から後から湧き上がってきた。


 やがて暗殺者の男は引き上げていく。ミリアムが家の中に物を隠したりしていないか念のため調べていたようだ。

 自分を殺した暗殺者の背中を、ミリアムは射殺すような視線で睨み付けていた。

 だが実際に射殺すことはできない。話に聞くアンデッドモンスターのように、魔法で人を攻撃したりはできなかった。恨みのために神の理に逆らい、地上に囚われてしまった身の上だというのに、たったそれっぽっちのこともできないのだ。


 ――許せない……ナイトパイソン……!


 だが許せないからと言って何もできはしない。

 ナイトパイソンは、どれほどの恨みと血と涙の上に立っているのだろう。ミリアムひとりが恨んだところで何も変わりはしない……


「ぐあっ……!」


 突然、野太い悲鳴が聞こえてミリアムは顔を上げた。

 戸口を出たところで暗殺者が倒れ伏している。何が起こったのかミリアムには分からなかった。


 ――死んだの……?


 だが、何故死んだ?


『ふ……ふふふふ……

 憎いんだね……恨めしいんだね……このまま死んでたまるもんかって、思うよね……』


 唐突に、どこからか含み笑いが響いた。

 幼く、そして、ぞっとするような凄みの籠もった少女の笑い声が。


『ならその恨み、晴らしてあげようか? もしそれが君の魂を差し出すに足る願いならね……!』


 ズン、と世界が震えた気がした。

 ミリアムの魂がチリチリと泡立ち歪みそうになるほどのプレッシャー。

 見上げれば、藍色の空に銀の月が出ていた。


 ――違う。月じゃない……

 

 天使の羽根のようにふわりと広がった銀の髪。見ていると吸い込まれてしまいそうな引力のある銀色の目。雪のように白い肌。白く繊細な装飾のドレス。

 白と銀で全身を統一した、美しく高貴な佇まいの少女がそこには居た。だが、彼女もまたミリアムと同じ……魂。死人であった。


 彼女が只者でないことはすぐに分かった。

 魂を磨り潰されそうな圧力を感じる。

 彼女は何か、ミリアムには思いも付かないような超常的存在なのだ。


『あなたが、この男を殺したの?』

『ああ、邪魔だったから。こっちの事は見えてなかったみたいだけど、話聞かれちゃ困るから念のためね』


 少女の霊は事も無げに言った。

 ミリアムとしては、なんで殺したかよりもどうやって殺したか、いやむしろ何故この男を殺す力があるのかが気になったのだが。


『あなたはいったい……』


 呆然と呟くと、少女は、どう名乗ろうか少し迷った様子だったが、やがて花弁のような口を開く。


『復讐者。……ルネ・“薔薇の如きローズィ”・ルヴィア・シエル=テイラ』

『シエル……って、まさか!』


 娼婦も客商売である。

 自分語りや噂話をする客も多く、仲間内での情報共有もあり、世間を騒がせているような話題はだいたい耳に入ってくる。

 非業の死を遂げた元王女の話も、彼女がアンデッドとして蘇って甚大な被害を出したという話もミリアムは聞いていた。


『処刑されてアンデッドとして蘇ったっていう……!』

『へえ? 結構噂になってるのか』


 まんざらでもない様子でルネは笑う。

 子どもらしい笑みではなく、それは皮肉めいた大人の笑い方だった。あどけない顔立ちでそんな表情をするのは、どこか狂気的で恐ろしい。


『さて、君にはあんまり時間が無いから単刀直入に言うよ。

 君はこのままだと怨霊と化して、やがては霊体系のアンデッドモンスターというのになる』

『……なれるんですか?』

『なりたいの?』


 ミリアムが問い返すと、ルネは首をかしげた。


『だって……そうすれば恨みを晴らせるかも知れないって……』


 ミリアムは魔物を直接見たことが無いが、冒険者だの、仕事中に魔物に遭う事が珍しくない旅の商人を客として取った事もある。そのため、ある程度は魔物の知識も聞きかじって持っている。

 アンデッドモンスターは肉体が有っても無くても恐ろしいと聞いていた。

 もし自分がそんな物になれるならナイトパイソンに復讐できるかも知れないと思ったのだが。


『無理無理。自縛ってる霊なんてすぐに正気失うよ。誰に恨みを晴らせばいいかも分からないまま暴れることになる。仮に上手いこと恨みの対象と戦えても……うん、まあ下級のアンデッドなんてその辺の冒険者でも倒せるからね』

『そんな……』


 ルネの解説は容赦が無かった。

 結局、ミリアムの恨みがナイトパイソンに届くことはないのだ。


『そこで、物は相談だ。ナイトパイソンってやつ、血祭りに上げてこようか? お代は君の魂でいい。

 ちょっと予算オーバーだけど、なに、開店セールでサービスしとくよ』


 ルネの微笑みは毒のように甘く思えた。

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