[1-2] 雪客

 灯りもまばらになり始めた夜景がオフィスの窓から見える。

 大量の事務机とパソコンが並んだオフィスに、人と呼べる存在はひとり。

 いや、『人だったもの』と呼ぶべきかも知れない。深夜のオフィスでただひとり残業をしていた佐藤長次朗は、今し方死んだのだから。

 背中を丸めて机に突っ伏した遺体は、やつれた雰囲気を醸し出す中肉中背。床屋に行く暇が無くて伸びてはバリカンで刈っていたぼさぼさ頭を、スポットライトのように一カ所だけの照明が照らす。パソコンのディスプレイには作りかけのプレゼン資料。


 その背後に、長次朗は立っていた。


 状況が掴みきれなかった。自分は確かに立っているが、ここに座ってもいる。


『……幽体離脱ってやつ? じゃなくて俺、死んだの?』

『そうだとも』


 間近から声が響いた。


 ふと気が付けば、長次朗の傍らに立つ者がある。

 身長2mはあろうかという筋骨隆々たる長身の老人だ。古代ローマのトーガみたいな服を着て、荒縄のような髭を生やしている。それは、いかにも『The 神』としか言いようのない存在だった。

 あんまりにもテンプレ的な造形の上、立っている場所が深夜のオフィスでは特に荘厳には思えなかったが。こういうのは白亜の神殿の一番奥で玉座にふんぞり返ってるからこそ神らしいのであると長次朗は思った。


『不法侵入だな……警備会社何やってんだ』

『驚いておらぬか。見所のある奴よ』


 推定・神の鋭い目が長次朗を見て、ほんの少しだけ笑った。


『あんた誰だ。まさか神様ってやつ?』

『左様。なれど我は地球の神に非ず。地球とほど近い異界を統べる者なり』


 この言葉で推定・神は、自称・神にランクアップした。


『そなたの命は既に尽きている。だがそなたさえ望むなら、我はそなたを我が世界へと転生させ、二度目の人生を与えることができる』

『なるほど。それは俺にどんな得があって、あなたにはどんな得があるんです?』


 いくら神様だろうが無償で善行なんかするわけないというのが長次朗の考えだ。

 まして、自称・神の言う通りこいつが他所の世界から来たのだとしたら、地球人類には義理も縁も無い。


 自称・神は長次朗のその言葉を予想していたかのように頷いてから応える。


『我は力を求めている。闇の軍勢と戦う勇士の魂を求めている。

 地球から呼び寄せた魂は、人の身に余るほどの強い加護を乗せることもできる故、大きな力となるのだ。

 そなたには神の加護を受けし戦士としての栄誉が約束されよう』

『チートとかそういうの貰えるんですか?』

『まずは人生に幸多かれと『幸運』の加護を授ける。戦うべき時が来るまでは穏やかな生を謳歌するが良い。

 その上で必要に応じてさらなる加護を降す。神の加護を受けた、人智を超越した英雄としての生が待っている。そなたは人々の希望となり、富と名誉を手に入れる事であろう』

『なるほど』


 悪くない話という気がした。

 自慢じゃないが長次朗はついてない人生一直線。もし神様自ら幸運を授けてくれるというなら、こんな深夜のオフィスで残業して過労死するようなつまらない死に方はしないだろう。

 そして場合によってはチートな加護を更に貰って、英雄として生きる事になるのかも知れない。戦うのはそりゃあ怖いが、まあ神様自ら加護をくれるというなら何とかなるだろう。無理ゲーな戦いからは逃げれば言い。


 この話を断ったらどうなるのか。信じてもいない宗教の天国に行くのか、それともまた暗黒の地球に転生するのか、無に還るのか……

 いずれにしても、地球にはカケラも未練など無かった。


『その話、承けます』


 答えるなり、長次朗の視界は光に包まれた。


 * * *


「これのどこが幸運だよ……!」


 記憶が急激に蘇ったためか、ルネとして受けた生き地獄の責め苦も、長次朗としての過労死も、両方がつい昨日のことであるように感じられた。

 自分を転生に誘った神に対して少女の声で悪態をついた長次朗……あるいはルネ。

 言ってしまってから、声を出せるのは変だと気がついた。

 今のルネは胴体と首が切り離されて、とっくに死んでいるはずなのだから。


 ふと気がつけば、辺りは時間が止まっていた。

 本当に時間が止まっているのかは分からないがそうとしか表現できない。一切の音が聞こえず、人々は無理のある姿勢で硬直しており、降ってくる途中の雪や飛び跳ねた子どもまで空中で静止している。


 ――なんだ、これ……?


 何が起こったのかと思っていると、唐突に声が掛けられる。


「ご機嫌麗しゅう、転生者さん」


 何の前振りも無くルネの隣に何かが居た。

 艶めいた女の声だった。そいつは処刑台の縁に腰掛けていて、振り返るようにして転がったルネの首を覗き込んでくる。


 結い上げた髪は濡れ羽色の黒、黒縁眼鏡に黒のストライプスーツ、タイトなスカートに黒タイツ、ハイヒールまで真っ黒という、何故か世界観にそぐわないキャリアウーマン風の装いをした黒ずくめの女性だった。

 服装と対照的にその肌は生気を感じさせないほどに白く、その目は黒と言うよりも一切の光を吸い込むダークマターの色。


 姿は全く違うが、この登場の仕方には覚えがあった。


「お前、神の知り合いか何かか」

「神は神でも邪神という者です。以後お見知りおきを」

「……は?」


 あっさりと言われてルネはあっけにとられた。


 子どもでも教会で教えられて、神話の大枠は知っている。

 遙か昔、何も無い宇宙にただ独り存在したという『中庸の者』。

 彼(同時に彼女でもある)が自らを分かち、天と地、熱と冷気、生と死など相反する全ての存在を生み出した。

 そして『中庸の者』が最後に生み出したのが、大神と邪神の2柱だった。

 大神(みだりにその名を呼ぶべきでないとされる)は人間やエルフやドワーフなどの人族を生み出し、次いで鳥や獣、魚に植物と、この世界に生きる全てのものを作り出した。

 しかし邪神はそれを良しとしなかった。世界を脅かすため、大神が生みだした生き物を歪めて魔物を作り、死せる者はアンデッドとして手駒に変え、疫病や天災を引き連れて戦いを挑んだ。

 この世界では今も、大神と邪神が戦い続けているのだ……


 そして目の前のキャリアウーマンが、生きとし生ける人族の敵。邪神だという。


「邪神……? じゃあ俺がこんな目に遭ったのもあんたのせいなのか!?」

「ああ! 何でもかんでも悪いことが私のせいになるのは邪神として有り難いですがこういう時だけは面倒!」


 怒りではらわたが煮えくりかえっているルネは、その場に現れた自称・邪神を推定・黒幕としか思えなかった。

 しかし、射殺すような視線を受けて邪神は大げさに天を仰ぎ嘆く。


「と言うのは置いといて、正直そこまで突っ込んだ介入はできません。加護と神託を与えるとか天変地異を起こすくらいしかできないものでして。私も、あの腐れ野郎もね。

 魔王軍に神託で指示を出して工作させるみたいな事はできるんですが、そんな詳細な指示は出せませんし、だいいちこんな事をする余力が今の魔王軍には無いんですよ。

 なのでこれは私の全くあずかり知らぬ事。どうか冷静に話を聞いていただきたい」


 多少早口に弁明する自称・邪神。

 少なくとも口調は『邪神』という恐ろしげな響きにあるまじき真面目さで、ルネを怒らせず冷静に話をしたいという考えは感じられた。


「その……邪神さん? が、何のご用で……?」


 ひとまず目の前の女が邪神だと言うことは信じていた。

 その格好が格好なのもあって邪神らしさは控えめだが、この状況は何か人ならざる者の力が働いているとしか思えない。なにしろルネは首が胴体から離れたのに、普通に会話できているのだから。


「本日はあなたをスカウトしに参りました」


 邪神は一筋縄じゃいかなそうな営業スマイルで、そう言った。


 * * *


 ひとまずルネは転生までの経緯を(処刑台に転がった首だけというある意味シュールな状態で)説明することになったが、ルネの話を聞いた邪神は『まったくどうしようもない』とでも言うように肩をすくめた。


「ああ、『幸運』ですか……

 あれはせいぜい馬車に轢かれそうになっても偶然逸れるとか宝くじが当たりやすくなるとか、そういう偶然を操作するお守りレベルの加護チートでして。

 大勢が全力で殺しに来てるような状況では大して機能しないんですよ」

「な、なんだそりゃーっ!」

「とは言え、生存率は多少向上します。低コストで手駒の保全を図るため、ひとまず全員に配布するというのは有効ではありますね」


 独り言めいた邪神の言葉に、何か奇妙な単語が混じっていた。


「……コスト?」

「そこから話した方が良さそうですね。邪神たる私自ら、神話の深淵をお教えしましょう」


 いつの間にか邪神の手には、教室に1本欲しい感じの指し棒が握られていた。

 黒いスーツはキャリアウーマン風に見えたが、小道具ひとつで女教師にも見えた。


「この世界で、大神とかいうのと私が戦い続けているのは知っていますね?

 ですが、始原たる『中庸の者』が作り出したこの世界は、相反する要素によってバランスを保つよう作られているのですよ。魔族が勝ちすぎれば人族の力は増す……そんな揺れる天秤の如き戦いシーソーゲームを、何かの弾みで決着が付くまで続けるのです。

 具体的に言いますと、大神は人族が追い込まれるほどに多くの強力な加護チートを降ろせるようになります。『状況次第でチートをやる』とあいつがほざいていたなら、つまりそういう事でしょうね。転生者を確保しておいて、加護チートを降ろせる状況になったら使う気だったんでしょう。

 今は人族がとても上手く行っていますので大神はろくに加護チートを出せないのです」

「上手く行ってる……? これが? こんなのが!?」


 邪神の言葉を聞いて、ルネは思わず叫んでいた。

 怒りと恐怖と嫌悪感が急によみがえってきて自分でも驚くほどの量の涙が噴き出し、既に身体と頭が離れているはずなのに吐き気すら覚えた。

 あのように人を冒涜しきった真似をして、こうして処刑ショーをする。そんな世界が上手くいっているとは全く思えなかった。


 そんなルネを見て、邪神はダークマター色の目をニヒルに細める。


「人族同士で殺し合えるほどに余裕があるのですよ」

「そんな……」


 ルネは絶句した。だとしたら神にとってこの惨状は『手が出せない』だけでなく『どのみち手を出す気すら無い』のだろうか。

 今この瞬間も神は『いやあ人間どもはよくやっておるのお』と、猫の喧嘩を見守る飼い主みたいな気持ちでご満悦なのだろうか。

 神託を下せるなら戦いを仲裁すればいい。天変地異を起こせるなら非道への怒りを示せばいい。それだけの気概が神にあれば、ルネはこれほどの苦痛を味わう必要は無かった。


 ――人間は過ちを犯し、屍を積み上げた果てに自ら学ぶべき……とでも言うのか? 冗談じゃない。神様みたいな絶対者が居る世界なら、ちゃんと人類を導けば犠牲はよっぽど減るはずだ。


 半ば八つ当たりではあったが、ルネは神を呪った。

 そもそも神は自ら長次朗を誘って転生させたというのに、適当なチートを渡しただけでアフターフォローも無い。半分騙されたような形になるルネには恨む権利があるはずだ。


 邪神は一旦立ち上がり、首だけのルネの前に足を揃えて座り直す。

 処刑台の上にもうっすら積もっている雪は、まるで邪神が幻であるかのように足跡一つ刻まなかった。


「……さて、先ほどはスカウトと言いましたが、そろそろ私の用件も察しが付いたのではないでしょうか。人族が優勢であるということは、私は強い加護チートを与えられるということ。

 あなたには私の手先としてこの世界を滅茶苦茶にしていただきたい。

 ちょうど魔王軍の幹部がふたりも討ち取られたところでしてね……いい加護チートが入ったんですよ」


 その言い方は怪しい商品を勧めるセールスマンのようでもあった。


「憎くありませんか? あなたを半ば騙すようにして転生させた神が」


 憎くないわけが無い。

 突っ込んで細部の説明を聞かなかった長次朗にも非はあるかも知れないが、あの時の神の説明はひどく不誠実であった。


「憎くありませんか? あなたを勝手な理由で死に追いやった人々が」


 憎くないわけが無い!

 ルネとは遠い世界で物事を動かしている者たちが、ささやかながら幸せだったはずの生活を奪い、母を奪い、散々に苦しめた末に命まで奪った。

 そんな残虐行為をショーとして喜んでいるような連中も糞食らえだ!


「あなたが復讐を望むなら、特別な加護を授けましょう」


 邪神は、ルネの怒りと恨みを祝福するように微笑んでそう言った。

 慈母の如き笑みだった。言っていることは邪神そのものだが。


「願ったり叶ったりですが……どうして、俺なんですか」


 ルネは慎重に問う。

 神に騙されたばかりなのだ。これで邪神にまで騙されたら目も当てられない。


「そうですね。私も地球へ行って魂をスカウトしてきたっていいんですが面倒ですし、なにしろ私は邪神ですので意地が悪いんです。

 あいつの手駒をぶんどって意趣返しするなんて、最高にゾクゾクするじゃあありませんか……」

「はあ、そうですか……」


 邪神は恍惚として溜息をついた。

 要するにそういう人、もとい神らしい。


「それにあなたはちょうど人族と戦ってくれそうな動機を持ってる転生者ですし……

 あと女の子ってのもポイント高いですね。いい加減、私の陣営でゴツい化け物ばっかり活躍してるのも飽きたので華が欲しいなと」


 中身はオッサンですがいいんですか、とは思ったがルネは言わなかった。

 ここで邪神の気が変わられても困る。


「で、具体的にどんなチートをくれるんですか」

「うーん……早い話があなたを最強のアンデッドとして蘇らせるのですけれど、その力の全てを説明で理解するのは難しいでしょう。ひとたびその身に宿せば理解できるはずですが……

 ここは地球流にクーリングオフ制度付きというのはいかがです? 30日後の深夜24時まででしたら、気に入らなければ加護チートを私にお返しください。あなたはアンデッドを辞めて安らかに眠れるでしょう。加護チートの回収にもコストが掛かりますので、これは出血大サービスですよ」

「そのチートに俺洗脳機能とか付いてなければそれで充分です」

「付いてませんって、そんなもの。……後はあなたの意思次第です。いかがです?」

「もちろん、やります」


 まだ多少疑う気持ちは残っていたが、知ったことか、ままよとばかりルネは清水ダイブした。

 身を焼くような恨みを抱えたまま死ぬ以上の苦痛などありはしない。


「この恨みを晴らせるなら、なんでも……!」

「よろしいでしょう。では、これにて交渉成立です」


 書類もサインもハンコもあったものではない。

 邪神の指から、どう見ても邪悪でしかない赤黒いが迸り、ルネの頭と身体に吸い込まれていった。


「つっ!!」


 ドクン、と心臓が熱く脈打った。

 いや心臓が脈打つというのもおかしい。とっくに頭と身体が離れていて、しかも死んでいるはずなのに。

 だがルネはそれを鼓動のように感じた。心臓がマグマのように熱い血を送り出したかのように。


「力の使い方は自然に分かるでしょうから、まあ適当に数十人ほど血祭りに上げてるうちに慣れると思います」


 邪神にふさわしい物言いをする邪神だったが、ルネはそれを咎める気も無かった。

 今の自分にはその程度容易いという実感があったし、人を殺すことに対する良心の呵責など既に感じなかったから。

 これは、復讐だ。無慈悲で徹底的な復讐だ。


「あとひとつ忠告しておきますと、それ魔王より強くなれますが、いきなり強い敵とは戦わないようにご注意ください。

 健闘を祈ります」


 言うことはもう全て言ったとばかり、余韻の欠片も残さずに邪神は姿を消した。

 その途端、時間が動き出した。

 ルネの耳に音が帰ってきた。自分の死を喜ぶ人々の歓声が。


 そう……とっくに死んでいるはずなのに、しっかりと物が見えて、音が聞こえたのだ。


 ルネは聞いたことがある。何故、シエル=テイラで銀髪銀目が忌み子とされているのか。

 シエル=テイラの建国間もない100年前、宮廷の占術師が予言したのだそうだ。

 『呪われし銀髪銀目の破壊者が国を滅ぼす』と……


 息絶えたはずのルネの身体が、ぴくりと動いた。

 処刑台にルネをつなぎ止めていた枷が、弾けた。

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