第八章

第八章

数日後。

「こんにちは。」

いつも通り、杉ちゃんが曽良夫の世話をしにやってきた。最近は、由紀夫が自宅で勉強をしているので、曽良夫は、杉ちゃんと公園に散歩に行ったり、買い物をするようになっている。曽良夫は、だいぶ楽しそうで、かなり嬉しそうだ。以前、病院で、そうなるのはかなり難しいといわれていたが、最近はテレビを見て笑うようにもなってきていた。

しかしその日。

「こんにちは。」

今日また別の声がした。杉ちゃんの豪快そのものというより、もっと繊細で、壊れそうな印象を与える、細い声だった。

あれれ、だれだろう?と思って由紀夫が玄関先に行ってみると、そこに、信じられないほど綺麗な人が立っていた。その人は、母が、以前ごますりに行っていた人物だ。そこは間違いなかった。

「こんにちは。」

再度その人は言った。

「水穂さん、大丈夫?まあ、ここから製鉄所まで数分でいける距離だが、水穂さんにとっては、富士山上ったようなもんだな。」

杉ちゃんに言われて、その人は、

「そうだね。」

と、細い声で言った。

「よし、上がらしてもらおうぜ。」

杉ちゃんがそういった。ああ、名前を水穂さんか。日本は昔みずほの国とかそういうことを言われていたなあ。顔によくあう、きれいな名前だった。

「このおじちゃんは?」

小さな曽良夫君がそう聞いてきたので、

「ああ、ずっと布団で寝ているのも退屈だろうなと思ったので、連れてきてしまった。以前は結構寝たままで過ごしていたが、最近は、比較的落ち着いてきて、かなり楽になってきているみたいだよ。」

と、説明する杉三。

「そうですか。」

由紀夫は、この人物を冷静に観察する。冷静といっても、なんだか母を盗った人物という気がして、本当にそうなのか言いがたい。

「おい、しっかりしてくれよ!しっかり!」

と、彼はふらふらと玄関先に座り込んでしまった。頭でも打ってしまうのではないかと、由紀夫は急いで手を出したが、水穂の肩をつかむと、そのげっそりとした痩せぶりに、大変に驚いてしまったのである。

「ごめん。ちょっと、頭がふらふらと。」

「少しだけでも中に入ったほうがよさそうだね。よし、中に入ろう。少し、座らせてもらおうね。立てるかい?」

杉ちゃんが、彼に対して何も抵抗感なくそう発言できることが、由紀夫にとっては驚きだった。由紀夫は、杉ちゃんに代わって、彼の肩を貸して、中に入らせた。

「ちょっと、そこの椅子に座らせてもらえや。お茶でも飲ましてもらえ。てか、そうしないと、体も持たんよ。」

由紀夫は杉ちゃんに言われたとおりにお茶を出した。

「あ、すみません。本当に申し訳ないですね。」

静かな口調で言う彼は、決してわるい人というわけではなさそうだ。綺麗な人って、よい人はいないのだって、母からいわれたことがある。確かに、そうかもしれないが、また別のような気がしてきた。

お茶といっても、本当に疲れたお茶で、昨日から、新しいお茶の葉に変えていないお茶だったから、本当に薄かった。でも、それについて、非難したりすることは何もしなかった。みずほは静かにお茶をのんだ。

「あ、お菓子でも、出しましょうか。」

「いえ、結構です。お菓子のほとんどは食べられないので。」

断る水穂に、何か不思議な気持ちになった。お菓子を口にしないって、どういうことだろうか。甘いものが嫌いだからというわけではなさそうである。

「でも、何か出しましょうか。でないと、」

「でないと?」

その顔は、二度と続きは言わないでいいと言いたげな顔だった。

「わかりました。」

とりあえずそれだけいった。

「杉ちゃん、今日は買い物行かないの?」

曽良夫は、いつも通り杉三に買いものに行こうと促す。

「お?あ、そうか。冷蔵庫何もないもんな。よし、買いに行こうな。」

「あの、ショッピングモール行っていい?」

「おう。あのショッピングモールは面白いもんな。ただし、ガチャガチャのしすぎはだめたよ。」

いつのまに、曽良夫がガチャガチャをやるようになったとは、少し驚きだ。もともと、曽良夫は、そのような遊びを軽視していることは知っていた。でも、それでは、年齢に相応しない、子供らしくないという診断も下されていた。よかった。曽良夫が、そうやってガチャガチャをしてくれるようになったとは。

「じゃあ、すまんな。曽良夫と二人で、買い物に出かけてくるよ。そんなに長くはいないけど、まあ水穂さんは、由紀夫君と仲良くな。」

「はいよ。わかったよ。じゃああ、よろしく頼むね。」

杉三が、曽良夫と一緒に出かけていくと、水穂は、椅子に座ったまま、それを見送った。二人の姿が見えなくなると、事実上、部屋には由紀夫と水穂二人きりになった。

暫くは、水穂も椅子にすわったままで、由紀夫は自室で勉強をつづけた。時折、水穂のいるテーブルから、咳き込む声が聞こえてきた。思わず我慢できなくなって、由紀夫は食堂に行ってみる。

「だ、大丈夫ですか?」

返答は、咳で返ってきた。その手の平に、赤いものが見えたので、由紀夫は急いで、近くのテレビ台の上に置いてあった、ティッシュペーパーを取り出して、水穂に渡した。

「あ、どうもすみません。」

水穂は、ての平についたものをそれでふき取った。ついたものは何なのか、由紀夫にもわかった。同時に、由紀夫の手も、水穂の目に見られてしまった。

「ずいぶんやっているんですか?」

一言、水穂さんにそう聞かれた。

「水穂さん、、、。」

今まで、隠してきた秘密を全部言われてしまった気がして、由紀夫は、思わず声をなくしてしまったような気がした。

「いいんですよ。理由があるんでしょうし、むやみにやってはいけないと倫理観を押し付けるようなことはしません。だけど、僕の個人的な意見として、やっては、ほしくありません。」

「なんで、、、ですか?」

由紀夫の右手首には、無数の傷があった。そんなところ、故意に傷つけなければできないところである。きっと、大多数の大人であれば、声を上げてやめさせる。そして、大人は正義感だと思っている。

でも、本人にしてみれば、大事な心のよりどころを取り上げられた気がして、嫌な思いをするだけである。

「どうして、やってはいけないでしょうか。それしか僕も、何もないし、そうしなければ、嫌なことがあっても、忘れられないんですよ。」

「忘れるなんて、できはしないんです。そういうものですよ。でも、それで、解決には至らないんですよ。だから、」

「だから?」

だから、の後を聞いてみたかったが、全部は言えず、咳き込んでしまうのだった。

「ごめんなさい。僕自身がだめなのを忘れてしまっていて、申し訳ありません。」

本当のことを、話してみたいと思う気になった。こういう人であれば、変に偉ぶって、変なことを言う危険はなさそうである。きっと、学校に相談した時のように、この学校の中にバカがいるから、すぐに出ていくように、とか、そういう返事は来る心配はないだろうと思われる。

「初めは、ほんとうに単純なことだったんです。試験の成績が、それまでの順位から、どんどん落ちていって、ついに100番も落としてしまって。」

「それで、どうなりました?」

よかった。そこで責めたりされることもない。それだけの事でも、なんて親不孝なとか、周りの大人は絶対に発言する。どうなりました、だけで済むのなら、まずスタートは成功した。

「はい。すぐに勉強しなおして、順位は取り戻すことはできました。でも、それからは、僕に対する、周りの人の態度が変わってしまって。一度、100番落としているんだから、もう一回頑張れよとか、そういう風に、まるで前科者みたいに僕の事見るんです。それで、僕は、すべてを否定されたようになりました。でも、大人の人たちは、それで普通だという。そして、普通の人よりすごいところに行ったのに、わがままをいうなとか、そういう悪いやつのように僕のことを見ます。それでもう、やるせなくなっちゃって。でも、むしゃくしゃしたからって、他人に当たるわけにはいきません。それはいけないのは、前々から知っています。だから、周りに当たることはできなくて、自分の腕を包丁で切りました。何もできないダメな奴。ダメな奴だって思いました。ダメな奴には罰が要るんだって、思いました。バカは、もう、罰するしかないからって、それを繰り返すと、どんどんはまっていって、なんだか快楽のようなものを覚えるまでいってしまって、、、。」

と、彼はここまでのことを一気に話した。

もちろん、こういう症状を出した場合、突き放せという人も少なくないけど、やっぱり本当に欲しいものが一度手に入らないと、人間は変わっていけないような気がする。

「そうですか。つまり、前科者のような態度で自分を見ないでということですか。それなら、僕みたいな人に、ある意味近いかもしれないですね。僕も、実はにたようなところがあるんですよ。いつになっても、必ず取れないレッテルが。それのせいで、望んでいたことが全部なくなってしまうことも、本当によくありました。だから、もう、ここにいてもしょうがないなと思っているのです。だって、仕方ないことだから。」

本当に、きれいな人で、そういう人生についてとか、そういうことは、何も悩まないのではないかと、

思われるような人が、なぜそういう発言するんだろうかと、一瞬面食らってしまった。

「きっと、そういうことがあるんなら、もう逃げてしまったほうがいいと思います。誰かが、反対することもあると思うけど、将来的に言って、そうしたほうがよかったということは、いっぱいあります。それはね、誰かのせいではなくて、自分を守るためだから、何も悪いことではないです。ただ、非合法的なところでなければ、それだけの話です。」

水穂さんは、そういった。それは何か、どこかうらやましいと言いたげな発言であった。自分には、そういうことはできないんだよと伝えたいきもちが、含まれているような気がした。

「水穂さん、どうして、そういう発言できるんですか?」

「あれ、言ってほしくないですか?」

水穂さんは、そう笑った。

「いや、そういうわけではないです。でも、長く言われていると、悪いセリフのほうが慣れてしまって、いいこと言ってくれると、なんだか怖いなっていう気がしてしまうんですが、、、。」

「あ、僕もそうでした。周りの人が、助けてくれようとするそぶりを見せてくれたんですが、それ以上にひどい拷問されたりしたことはざらにありましたよ。」

水穂さんは、彼を責めなかった。責めることも、変に擁護するようなこともない。ただ、事実を淡々と述べているだけで、何もしないような感じである。

「僕も、結局利用されるだけなんです。個人としての人間とは認めてくれるはずがありません。そういう、身分だったからです。日本の身分制度というのは、そういうものがあったから。」

そういうことか、、、。具体的になんというかは忘れてしまったけれど、確か過去にそういう身分の人がいたということは聞いている。当時は、可愛そうな人だくらいしか思わなかったけど、そういう人って、本人はどんな気分で生活していたのかは、想像したことがない。

「でも、そういうことがあっても、僕は僕で、水穂さんとは事情が違います。でも、やってはいけないというのですか?」

また、変な個人主義が横行しているような気がした。そういう個人主義と、伝統的な全体主義が、ごちゃまぜになっているのが今の日本である。

「そうだね。確かに、君と僕とでは、立場が違います。でも、僕は、君と違って、自由も何もありません。でも、君には、ひとつだけできることがある。逃げること、そして、やめること。それを恥だと思わなくてもよいこと。」

「そうですか、、、。でも、こないだ、母と話したときに、母に叱られてしまいました。人生の安全をくれる切符を、全部なくしてしまったと。母は、僕が富士高校に行っていたのをすごく自慢したし、それを、母が心のよりどころにしていたのも確かでした。父は、学歴よりも、実践をすごく重視する人で、あまり、そういうことは気にしないで、生徒さんの面倒を見ていました。母は、それが嫌いだったようです。父は、レベルの高い大学なんて行かなくていい、それよりも、自分が納得できる人生を歩んでいけば、それでいいんだって言って、有名な大学でなくても、本当にその生徒さんが納得できるところへ行かせたりしてました。時には、家の中に生徒さんを連れ込んで、勉強教えたりして。母も、声楽教えてたから、それと一緒だって、父は言っていました。それが母にはさらに、つらかったようです。」

「でも、お母さんと、由紀夫さんは、違うんですよ。それは、お母さんと同じような人生でなくてもいいと思います。要は、自分が納得することができるということだから。たぶんきっと、お母さんは、苦労してほしくないから、そういったんだと思うんですよ。だから、苦労をしないように対策をしっかり打ち出しておけばいいと思うんですよ。」

そういう水穂さんは、苦労をしないということが、いろんな人が考える、幸せの間違いなんだよって、語りかけているようであった。

「高校、富士高校を中退したら、どうしたらいいのか、考えているの?」

「はい。とりあえず、焼き肉屋さんで働かせてもらいながら、通信制の高校で勉強させてもらおうと思っているんです。なんだか、あの高校にいるよりも、焼き肉屋さんにいさせてもらうほうが、そのほうが、よほど楽しいし。」

「そうなんだね、苦労をしているように見えて、実は、楽しんでいることって、けっこうあるんですよね。」

水穂は、そうにこやかに言った。

「ええ、あんな氷の屋敷みたいな高校に閉じ込められているよりも、社会で何かしていたいんです。もしかしたら、そういうことは、発達障害とか、そういうものに当てはまるのではないかと、曾我理事長にいわれたことがありました。日本では、ちょっとでも違っているところがあると、すぐに障碍者と、くっつけてしまうそうです。でも、そうやって白黒はっきりつけてくれたほうが、楽な時もあるよって、ほかの従業員さんが言っていました。まあ、日本はいろんなところがあるけれど、僕は、一般的なルートが合わないということだけは確かですね。」

そう言って、由紀夫もにこやかに笑った。

「それでいいじゃないですか。少なくとも、一般的なルートで行ける人ばかりとは限らないですから。」

二人は、そう言って笑いあった。やっと、由紀夫は本当のことを話すことができた気がした。


「おう、帰ったぞう!」

ふいに、玄関のほうから、そんな声がする。

「兄ちゃん、今日もさ、ガチャガチャやってきた。ちゃんとやりすぎないように、ケーブルカーの模型だけとってきた!」

嬉しそうに言う、曽良夫君の声も聞こえてきた。

「よかったなあ。これからはちゃんとご飯を食べような。いつも言っているが、出来合いもインスタントも、何も役には立たないぞ。いくらそばであってもな、ゆでるところだけ、乾麺にして、それ以外はしっかり具材を作ろう。そうしないと、手作りの料理とは言えないぞ。」

杉ちゃんは、そういいながら、台所に入ってきた。

「おう、体調は大丈夫?」

「ああ、何も変わらないよ。」

水穂はそう答えたが、かなり疲れているようでもあった。

「よし、じゃあ、昼飯作ろうな。今日は、そばだぞ。そばは、栄養価のある麺の代表選手だ。今日買ってきたやつはな、蕎麦湯が取れるという十割そば。」

杉三は、お湯を沸かし始めた。

「よし、その間に具材を作ろうな。じゃ、まず卵を割って、目玉焼きを作ろう。」

お湯を沸かしながら、フライパンで目玉焼きを焼き始める杉三。その手際の良さは天才的だった。

そして、目玉焼きができたら、ほうれん草をゆで、ねぎを切り分ける。野菜を切るのも心地よい音で、どこかの打楽器でもたたいているように心地よかった。

「杉ちゃんって、本当に何でも作れるんだね。僕、大人になったら、お料理の学校に行きたいなあ。」

そんなことをいう曽良夫。今の言葉、お母さんが聞いたら、喜ぶだろうか。いや、そんなこと絶対ないな、と由紀夫は思った。

「つまり、二人とも、お母さんの望んでいる進路には望んでいないということですね。本音を隠していたら、間違いなく、将来、大変なことになってしまいますね。」

水穂は、そっと由紀夫に話した。由紀夫は、多少リスクを背負っても、やっぱり自分は、好きな道に行きたいなと思うのだった。

「僕、ちゃんと、お母さんに言いますよ。まず、安全路線と言ってくれたことはうれしいけど、僕にはやっぱり向かないから、申し訳ないけど富士高校はやめさせてもらう。そして、働きながら、自分のペースで勉強していく。二度と、それを曲げるようなことはしない。お母さんの用意してくれた、人生とはちょっと違うけれど、それで頑張ってみるって。」

「ええ、そうですね。しっかり伝えれば、きっとわかってくれるのではないですか?」

由紀夫がそういうと、水穂もにこやかに笑いかける。

「よし、そばができたぞ、食べような。このそばは、蕎麦湯も取れるから、喜んで食べてね。」

杉三が、そばの入ったどんぶりを、一人に取り分けた。

「いただきまあす!」

杉三が作ってくれた、月見そばはおいしかった。母がいつもご飯として作っていく出来合いのしょくひんより、ずっと。そういうことを知ってしまうと、なぜか、昔あった、古いとして軽蔑されている行為にこそ、本当に必要なものがあるのではないかという気がした。それは、もしかしたら、あの、ジンギスカアンで働いている女の人たちも、同じことを考えて、いるのかもしれない。そして、世の中で、どんどん軽視されていることなのかもしれない。


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