第七章
第七章
「あたしは、今まで何をしていたのだろう?」
茉莉花の頭の中を、この疑問が渦巻いた。
本当に、今まで何をしていたのか。息子の何をみていたのか。
答えはただひとつ、何もなかったのである。
今まで私は息子たちに、人生をなめるなと、しっかり教えてきたつもりなのに、それが、全部台無しになってしまった。
由紀夫ときたら、私が用意してあげた安全路線を放棄して、わざわざ危険な人生に突入してしまっている。学歴は何よりも大事だと、教え込んだはずが、それを拒否したのである。
それとも、自分の失敗劇が、ちゃんと伝わっていなかったのかな?
もう一度、うるさいくらい話て聞かせた、失敗劇を振り返ってみた。茉莉花は、子供のころから音楽は好きだったが、何か特定の楽器に秀でていたわけではない。それでは歌ならどうだろう、と考えて、声楽家を目指すことにした。彼女の両親は反対した。それよりも、安定した職業について、安定した収入を得ることがなによりも大切だと説いた。でも、どうしても、歌を歌いたかった彼女は、音楽学校へ行く、という意思を曲げなかった。それで父親が、女であれば、旦那さんにくわせてもらえるから、別にいいか、と折れてくれて、音楽学校へ行くことが許可されたのである。
しかし、父親は、音楽学校に行くにあたって、ひとつ条件を付けた。それは、お前のために、名の知れている学校に行くように、ということであった。茉莉花は、当初、入れるのならどこでもいい、くらいしか考えていなかったが、父のその条件をのむために、桐朋音楽大学を志望校にしたのだった。もちろん、桐朋は大変だというのは理解できた。でも、何とかして入ってみると、教授方もほかの学生も、真剣さが感じられて、桐朋は居心地のいい世界だったと思う。
忘れられないのは、ほかの大学との交流会のようなものがあり、先輩たちと連れ立って、そこへ行ってみたことだ。そこで桐朋の学生と、ほかの大学の学生は、明らかに、演奏技術に落差があることがわかった。ここでも、茉莉花は桐朋でよかったと思った。そして、今の教育体制の中では、こういう名の知れたところ、トップクラスのところへ行かないと、質の良い十分な教育は受けさせてもらえないのだということも知った。そのためには、多少、プライドが高くなってもいい。むしろ、よい学校に行っていることを、自慢することは悪いことではない。
それを、息子たちにもぜひ味合わせてやりたかった。それが一番の願いだった。
なので、長男の由紀夫には、富士市内で一番高級な高校と言われている、富士高校へ進学させたし、次男の曽良夫にも、そうさせるつもりでいた。それなのにあの二人ときたら、、、。
考えてもはらわたが煮えくり返りそうなほどだった。ああいう、私を裏切るような態度をとるなんて。
そして、もう一つ決定打となったことがある。
昨日、由紀夫に言われたことだ。お母さんがお父さんを追い出したということである。私が、追い出したなんて、そんな覚えはない。私は、あの人と一緒に暮らしていたら、あの二人がだめになってしまうと思ったから別れただけ。だって、あの人が別の女を作ったなんてどう見ても、おかしなことだもの。
別の女というのは実はすぐ近くにいた、中年の女性だった。特に何も特技のない、一般的な女性。確か、花屋で働いていたという。本当は、その女に詳しく話を聞いてみたかったが、彼女も、この世にはいなかったことを思い出した。彼女の葬儀は元夫がした。私も、その葬儀に付き合わされて大変だったっけ。あの時、元夫は本当に嘆き悲しんでいた。私には絶対そういう顔はしないだろうなと言いたげな顔だった。
その彼女の菩提寺も家のすぐ近くにあった。本当に何から何まで近すぎる。なんであの人は、そういう女性と不倫なんかしたんだろうか。理由は全く分からない。
でも、昨日、息子の由紀夫には、こういう事を言われてしまった。
「お父さんが由利さんと付き合ったのは、仕方ないと思うよ。だって、お母さんはいつも窮屈なんだもん。そんなお母さんといたら、息抜きくらいしたくなるさ。それに由利さんだって、お父さんと付き合って、やっと幸せを手に入れたようなもんだろう?だったら、もう仕方ないんじゃないか?由利さんは、お父さんと付き合い始めて、やっとお酒をやめることができたし、自分が、子供のころに暴力を振るわれて育った過去から、やっと脱出できたんだ。それは、お父さんと出会わなければできなかった。お母さんが由利さんを、下層市民と言ってバカにすることがなかったら、由利さんはお父さんの友達として、今でも明るく楽しく暮らせたかもしれない!」
「由紀夫、何を言っているの!あんな女のことは忘れろと、お母さんは何回も言ったはずよ。そして、悪いことをしたお父さんも、いけないってはっきり自分の中で線引きをして、決着をつけなさい!」
「いや、どうかな?由利さん、お父さんと一緒にいて、やっと本当の自分になれて嬉しそうな顔だった。どこにも、性的な関係のようなものは何もなかった。ただ、お父さんを尊敬していて、お父さんのそばにいたかっただけなんじゃないか!」
由利さんの過去を、茉莉花は調べたことがある。もともとは東京の生まれだそうだが、父の家庭内暴力に耐えかねて、母と二人して富士へ逃げてきたそうだ。そのまま富士市内の学校に通ったが、あまりに人が怖くて学校には碌にいっておらず、中卒で花屋で働き始めた。彼女と元夫が知り合ったのは、自分に誕生日の花を買うために、彼女の花屋を訪れたことがきっかけだった。教員をしていた元夫は、まず由利さんに、読み書きをしっかり教え、そこから、付き合いが始まったのである。元夫ときたら、由紀夫や幼かった曽良夫にも、由利さんを平気で見せびらかしていたから、由紀夫たちも由利さんと会話していたことも少なくなかった。それでは、教育的にも、子供の成長的にもよろしくないからやめて、と茉莉花がいっても、やめなかった。
でも、この愛想劇は突然終わった。由利さんは、花屋さんの上司に叱責されて、自殺したのだ。ものすごく丁寧な遺書を残して。その遺書の中には、由利さん特有の、誤字が目立ったが、飾らない言葉で感謝の言葉が記されていた。これを見て、茉莉花はさらに怒りが増した。
この、由利さんの自殺の後で、元夫は次第に鬱になり始めた。茉莉花は、まだ存命だった両親に相談して、元夫と別れることに決めたのである。
私は、正義のためにそういうことをやった。だって、不倫して不倫相手が亡くなって鬱になるというのは、ある意味当然のこと。うちの平穏をすべて持って行ったのだから、罰を受けることも当然のこと。だから、もう、二度とこういう生活はしない。そういうダメな男に騙されず、私が一人で、息子たちを育てようとおもったのに。それなのに、なぜこういう結果に!
思わず、ハンドルをたたきつけると、右手はクラクションに思いっきり当たって、けたたましい音がびびーとなった。その音で、茉莉花は正気に戻り、頭を仕事に切り替えて、クライエントがいる製鉄所に向かって車を走らせた。
製鉄所の入り口前車を止め、またインターフォンのない玄関の戸をガラガラと開け、
「ごめんください。」
と、ご挨拶すると、
「あ、はい。」
という声がして、恵子さんがやってきた。
「悪いけど、今日は帰っていただけないでしょうか。」
恵子さんは、申し訳なさそうにいった。
「でも、予約、入れてくれたはずではないですか?」
「ええ、そうだったと思うんですけど、彼はお話を聞いていられる状態ではありませんので。あなたと、先日外へ出て帰ってきた後、本当に何も食べなくなってしまって。まあ、私も、一生懸命言い聞かせているんですけど、一度、そうなると、やり直すのには根気がいりますから。しばらく、こっちには、来ないでください。」
「まあ、そういう時こそ、外部の人に頼るべきではありませんの?家族や身近な人たちでは、ぜんぜん役に立たない問題なんですよ。」
「そういうことは、治療される側の方は、よく言いますよね。でも、今回は、私は受け入れたくありません。また、倒れたり、ご飯を食べなかったりすると困りますから。それを作った方には、会わせたくありません。」
恵子さんは、しっかりといった。そうなると、彼女も、水穂さんに対して、ある程度愛情は持っているのだとわかった。初めのころは、水穂さんが、碌なものを食べていない、という扱いを受けているのかと思って、何とか彼をそこから救いだそうと思っていたけれど。
「私、影浦先生に電話しようと思っているんです。彼も、疲れ切っていますし、私も疲れてますもの。もう、外部の人にああだこうだされるのは、本人もすごい負担だと思います。あとで、そちらに電話しますから、暫く、この訪問は、休止させていただけますか?」
恵子さんにそういわれたら、おしまいだと茉莉花は思った。つまり、水穂さんにしばらく会えなくなってしまう。それは嫌だという感情がなぜか生じる。
「まあ、仕方ないですね。悪くなってしまったのなら、それは仕方ありませんわね。じゃあ、よくなったらまた訪問しますので、とりあえず今は。」
と、形式的にいったものの、頭の中では、ものすごくがっかりしているのだった。恵子さんは、もういいですか、とだけ言って、玄関の戸を閉めてしまった。
「もう私も、誰にも必要とされてないのね。」
車に戻って、茉莉花はないた。
曽良夫だって、最近は、杉三さんというオジサンが見ていてくれるし、由紀夫は自身で高校をやめるといってしまったし。もう、私なんて何をやってきたのだろう?
桐朋時代は、一番楽しかった。声楽の勉強に費やしていたら、それなりの結果も出たし、それでよかった。卒業してすぐに、元夫と結婚して、声楽教室を近隣の部屋を借りて開講したが、その時も桐朋の出身者とうたい文句で出せば、みんな集まってくれた。学歴でお金を稼ぐことはすぐできた。でも、確かに、元夫の教員の収入に比べると少ないけれど、生活は充実していた。
でも、元夫が、由利さんと出会ってから変わってしまった。元夫は自分ではなく、由利さんのほうに目が行ってしまって、何も見てくれなかった。彼女の自殺後、茉莉花は、自身で息子を育てる決意をしたが、声楽教室では、まずやっていけなかった。そこで相談員の養成講座に通い始め、すぐに資格が取れるというもので資格を取り影浦医院に就職させてもらった。でも、ここにきて、確かに仕事はたくさんあり、収入にも困らないが、誰一人のクライエントを更生させていない。もちろん一度対話をすれば、ある程度の収入が得られるが、何か冷たいものをつかんでいるような、そんな生活だった。
私は、何がいけなかったんだろうな。
なんか、よかったのは学生時代のみで、後は全部悪かったような気がする。
もう、由紀夫たちも、ああして私に反抗する。だから、もう私なんて、不用品じゃない。もうあの子たちには必要ないの?
そんなことを思いながら、茉莉花は自宅マンションに帰った。
「ただいま、、、。」
部屋に戻ると、部屋の中では、何かカリカリと書いている音がする。
「由紀夫、何やっているの?」
「あ、お帰りお母さん。今ね、新しい高校を探していたんだよ。曾我さんの焼き肉屋さんで働いている人たちが、パンフレットをくれたんだ。」
と、明るく言う由紀夫だが、
「そうか。もう、富士高校は縁がないのね。」
茉莉花は、がっかりして答えた。
「うん、そんなものいらないよ。それで、いいじゃないか。新しい高校は、通信制でね。毎月送られてくるDVDで勉強して、そのレポートを郵便で送るようになるそうなんだ。だから、お母さん、少し大きなテレビを買ってね。」
そう、自分の高校について語る由紀夫は、実に生き生きして、これからの新しい人生に喜びを見出しているようだった。
「あ、曽良夫は杉ちゃんと一緒に病院に行っているよ。あいつもだいぶ安定してきて、倒れる確率も少なくなった。だから、うまくいけば学校へ行けるかもしれないって先生が言ってた。でも、曽良夫はまだ小学生だし、まだ傷つきやすい年齢でもあるから、うんと理解してくれる先生がいる小学校でないと、ダメだってさ。だから、一緒に探してやろうな。」
どうしてそんなに、明るくなったのか茉莉花には想像もつかない。
「由紀夫、いつからあんたはそういう風に、曽良夫の事とか自分のことを考えるようになったの?」
「決まってるじゃないか。お父さんが出て行ってからさ。お父さん、亡くなる前に、由利さんにそうういうことを相談したりしていたんだよ。」
「そう、由利さんね、、、。」
だったら、お母さんではなくて、由利さんのほうが、よほど母性があったといわざるを得なかった。
「お母さんは、働きすぎで疲れているからな。僕が何とかしなきゃ。お父さんが言ってたよ。あいつは、もともとそういうところには向いてないんだよって。」
そう言って由紀夫は、書類を書き始めた。ある通信制高校の、見学申し込み書だった。
「でも、集団で勉強するわけではないんだから、どうしたって怠けたりするだろうし、お友達もできないだろうし、、、。」
「いや、一人で勉強するわけじゃない。焼き肉屋で働いている人の中には、通信制に入っている人も、何人かいるよ。」
由紀夫は、もう外に自分の世界を見つけてしまったのだと、茉莉花はまたがっかりした。改めて、自分は不用品だと思った。
本当にもう必要ないのね、私なんて。そんな台詞が頭の中を渦巻くなか、部屋にいたくなくて、こっそり外へ出た。 外へ出て、あてもなく、道路をふらふらと歩く。どこへ行こうかなんて全く考えてはいない。
「あーあ。結果として、私、なんのためにいたのかしら。由紀夫も曽良夫にも、何一つやくに建つことしなかった。」
外は寒かった。
なにか、上着でも着ていないといられない ほど、寒かった。
薄着で出てきてしまった茉莉花に、ピーっと風が当たった。今更、家に戻って、着替えてくるわけにもいかないから、そのまま歩いていた。
一瞬ぶるんと震えた。
何となく、公園にたどり着いた。公園のなかを歩いていると、不良と思われる高校生たちが、タバコを吹かして歩いているのがみえた。
茉莉花は、こういう人たちこそこの世の中から消えてほしいとおもうのだが、今日はかれらに、何も優越感を思えなかった。もううちの子は、エリート学校から脱退してしまって、まったく彼らよりも優れている要素がなくなってしまったということだ。
「おう、そういえばよう。」
何の言語であるのか、わからない汚い言葉で、不良の一人がいった。
「俺が薬を売り付けた、あのエリート学生、どうしたのかなあ。一度だけ買ってくれたけどそのあと来ないなあ。連絡一つよこさないじゃないか。」
売り付けた。薬と言っていたが、何を売り付けたのか、気になるところだ。いわゆる違法薬物だろうか?茉莉花は、とっさにそばにあった大型ごみバケツの後ろに体を隠して、彼らの話を聞いた。
「ああ、もう捕まっちまったんじゃねえのか?エリートは意外に単純だからよ。隠れないように、使うってのは、ちょっと難しいと思うよエリートはね。」
別の不良が、そう答える。
「それかよ、使うこともなく捨てたとか。エリートは、教育の質もよいからなあ。すぐ、はまるような馬鹿は、意外にすくないかも。そういうことを子供の時から徹底的におしえてくれてさ、そういうことをしないという決意がはじめからできている。」
「それとも、使う必要がないんだよ。俺たちとちがって、ものにも家庭にも恵まれているんだから。強く生きることを、教えてくれた、お父様。優しく見守ってくれるお母様!」
その不良が、卒業式の演説をするようにいうと、ほかの不良たちは、バカ笑いをした。
「いいよなあ。俺たちにないもん、もっているんだからよ。そういうやつらはな。」
「親がいて、ほかの家族がいて、家があって、飯も食えて、勉強も運動もできて、いいことづくめだよなあ。いいなあ、そういうことが全部できているんだから。俺、ある意味うらやましいよ。」
「いいじゃん、おれたちは、そういうやつから金を取ればいいんだ、そうすれば、俺たちも平等になれる。おれたちは、エリートに、税金払ってやってんだから、きっと繋がっているさ。それでいいじゃないか。ああいうやつらはな、金ってもんがあるんだぜ。それを巻き上げて、金をとれば、俺たちのほうが強いって、はっきりわかってあげられるから、それを繰り返せばいいってことよ!」
「そうそう、俺たちの怒りどこへ向かうべきなのか!」
「本当だよな。みんな、エリートだけにしか目は向けないさ。俺たちの事なんて、ただのドブネズミしか、見てられないよ。そうしないと、誰も、成り立っていかないようにできているんだろうね。期待して損をしたというか、そういう風になっている。俺たちのことは、さっさとこの世の中から消えろ、それしか、考えてないってもんよ。エリートは。」
そういう気持ちがあるのなら、さらに恵まれない人のことを、考えてやってよ。と、茉莉花は、思いながら、不良たちが通りすぎるのをまった。同時に、自分たちは、ああいう姿にならなくて良かったと思い込んでいたが、いまは、それが、なくなっていて、だんだんこんな不良たちに近づいてしまうのではないかと、不安な気持ちにもなった。
もう、彼らの、救いというのはきっと、そういう金持ちから金を巻き上げるしか、ないんだろうなと思った。そういうことが、彼らの生きがいになっているんだろうなと思った。
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