短いのあれこれ

側近

朱い灯の照らすしあわせ【秋の愛】



 私には悩み事に苛まれる度に意味もなく街をふらふらと彷徨う悪癖があった。悩みの内容は様々で、時には人付き合いであったり、仕事のミスであったり、もっと些末な日常のあれやこれやであったりした。それはもうほとんど趣味の領域で、だから、私はその日の日暮れもふらふらと当て所もなく街を歩き回っていた。

 散歩の行く先は大抵は同じで、書店か、喫茶店、或いは街なかに言い訳がましく整備された並木道の続く公園へと辿り着くのが常だった。

 その日、どんな悩みに鬱々と苦しめられていたのか、今となってはよく思い出せない。ただ並木の葉っぱが目の覚めるような朱色に染まり、風が少しずつ肌寒くなっていたのだけはどうしてか鮮明に記憶に残っている。

 靴のつま先を見つめ、ぼんやりと並木道を歩いていた私は、傍目にはよほど気落ちして見えたのかもしれない。それこそお人好しにどうしようもない善人にとって看過し得ないほど落胆して見えたのだろう。私の事だから間違いなく大した理由ではなかったけれど。しかし、普段は改善したいと願っているこの悪癖にも、この日に関してだけは感謝してもいいと思っている。

「地面ばっかり見ていても紅葉は見えませんよ」

 ちょうど池の前のベンチを通り過ぎようとしていたところだった。私は当然のようにその声が私ではない誰か別人に対してのものだと思い、右から左にしていた。

 こん、と私の見つめる先、靴のつま先に、小石が当たった。

 はっと顔を上げる。まっすぐに伸びた道の左右には照明に照らされて不自然に浮き彫りになった見慣れた木が立ち並び、一年という時間ですっかりと忘れてしまっていた季節の絵の具で綺麗に塗り替えられていた。灼けるような、或いは燃えるような、自動化されていた意識に爽快な一撃をくれる風景。

 思わず足を止めた。すると、先ほどの声が笑いを含んで、なぜか我が意を得たりとでも言わんばかりに自慢げに言った。

「せっかくこんないい場所を歩いているのに、俯いているなんて馬鹿の所業ですよ」

 流行りのコートにタイトなジーパン、傍らにはコンビニのビニール袋。右を向くと見慣れぬ女性がベンチに座っていて、こちらに向かってニヤニヤ笑いを浮かべていた。悪戯な猫か、子供のような、何とも憎めない笑みだった。

「今にも溜息を吐きそう。そう辛気臭いと幸せも逃すかも」

「……幸せ?」

 馬鹿のように鸚鵡返しする私に、彼女は迷わず自分の頬を自分で突っついた。なるほど。顔を上げたから自分と出逢えた、それこそが幸せだ、と。素晴らしい自信だ。

 昨今、奇矯な振る舞いをする人間は後を絶たないが、一方で見ず知らずの他人との無為な接触を避ける自衛手段は周知されて久しい。ちょっとした切っ掛けから声を掛け、厄介事に巻き込まれて損をしたなんて話はそれこそネットを漁れば枚挙に暇がない。つまり、如何にそれが美人であれ、この時の私が目の前の彼女から感じ取った第一印象は警戒と怪訝だった。なんだこの女は、馴れ馴れしいな、と。

 そんな事をふと思い出して隣を歩く彼女に話したところ、彼女は暫くこちらを見上げ、そういえばそんな事もあったっけねえと私との馴れ初めなど全く覚えていなかった口振りだった。気のない素振りで風景を眺めるように向こうを向いてしまう。

「でもあの時、顔を上げてよかったでしょ」

 こちらを振り向きもせぬ確信を込めた言葉に私は短く応え、日の光を浴びる彼女の耳から前方へと視線を戻した。

 一年前のあの日と同じように夕焼けに染められた並木道がより一層鮮烈に色づいてまっすぐに伸びている。

 相変わらず趣味の散歩を止められていない私は、隣から今晩は何が食べたいのかと問い掛けられ、いつかと同じようにうじうじと悩み続けていた。

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