Episode12-C 嗚呼!哀しき聖夜~ノエルの場合~

 ただ今の時刻は、午後10時前。

 退社前にメイク直しはしたとはいえ、電車の窓に映った自身の顔に疲れがありあり浮かんでいることを認識したノエルは、思わず溜息をついてしまった。

 思い返せば、繁忙期のため休日出勤をせざるを得なかった昨年――平成最後のクリスマスイブも、今年の令和最初のクリスマスイブも、同じ理由で溜息をついていたような気がする。


 まだ20代のノエルには、1年前の顔と今の顔とでは明確な老いの兆候は見られない。

 だが、本当に1年なんてあっという間だ。

 ノエルは大人になってからというもの、体感時間が妙に速く感られていた。

 人生なんて、こうしていつの間にか過ぎていくものなのかもしれない。

 ”肉体”という船に乗り、”時間”という止めることのできない川の流れに流されるままに……


 この聖夜までのノエルの人生は、格別にドラマチックなことは何も起こらず、かといってこれといった災難にも見舞われず、両親とそこそこの数の友人と時々できる彼氏に恵まれた平凡で平穏なものであった。

 

 けれども、ここ数年のクリスマスイブは仕事を終えて、そのまま帰宅というパターンが続いていたノエル。

 寂しくて寂しくてどうにかなりそうというほどではなかったが、今年もどこか物足りなさを感じるクリスマスイブだ。



 不意に、電車が揺れた。

 突然の揺れに、ガクンとよろけてしまったノエル。

 彼女は、隣で吊革を掴んでいた男性の肩へとぶつかったうえ、彼のスーツに退社前のメイク直しで塗り直していたファンデーションをつけてしまった。


「す、すみませんっ!!!」

 

 慌てて頭を下げるノエル。

 ノエルはこの男性の名前こそ知らないも、顔だけは知っていた。

 毎朝、同じ電車の同じ車両に乗るし、帰りの電車だって時々同じになるのだから。

 そのうえ、彼は程よい長身で、程よいイケメンで、相当な清潔感に溢れたノエル好みの男性だったのだから。


 彼は、必死で謝るノエルにも、スーツについたファンデーションにも、嫌な顔をすることはなかった。

 それどころか、「いいえ、そんなに気にしないでください」と穏やかに言ってくれた。


 ノエルは、ホッと胸を撫で下ろした。

 相手が酔っ払いとか、もしくは裏社会の香りを漂わせた人だったら、こうはいかなかったろう。

 しかし、彼に迷惑をかけてしまったことには変わりない。

 お財布から取り出したクリーニング代を渡そうとしたノエルに彼は首を横に振った。


「いえ、いいんです。それより……この後、お時間ありますか?」


「え?」


「いや、前から綺麗な人だなあって思っていて、もしよろしければ駅前のカフェでコーヒーでも……」


 彼の顔はほんの少しばかり赤くなっていた。

 彼と同様に、ノエルの顔も赤くなってしまった。

 ”綺麗な人”というのはもちろんお世辞だろう、とノエルは理解していた。

 だが、自分が彼のことを密かに「いいな」と思っていたと同じく、彼も自分のことを密かに「いいな」と思ってくれていたということだ。


 驚きとうれしさで咄嗟に言葉に出てこなかったノエルに、彼が不安そうに尋ねる。


「あ……もしかして、ご結婚されてます?」


「い、いいえ」


 即、首を横に振るノエル。

 彼からのこの誘いは、言わば公然の場でのナンパだ。

 だが、ノエルは不快さを微塵も感じなかった。

 やっぱり相手のルックスならびに清潔感は大きい。

 それに、ほぼ毎朝といっていいほど、彼とは顔を合わせているため、妙な”顔見知り感”も互いに生まれていたのかもしれない。


 だが、ノエルは抜け目なく、吊革を掴んだままの彼の左手薬指に目をサッと走らせる。

 彼自身が既婚者の可能性だってあるのだから。

 いくらうれしいお誘いとはいえ、既婚者のそれに乗るつもりはない。

 20年以上生きてきたなら、それぐらいの自制心は働く。

 ちょっとした火遊び、もしくは本気であっても、既婚者の男と交際してしまった女がどんな社会的ペナルティを負うかぐらいは、友達のそのまた友達の話などで充分に知っている。

 そんな修羅場に自ら足を踏み入れたりなんて、愚かな真似はしない。自衛できるところは、きちんと自衛するのだ。


 ノエルの視線の先――彼の左手薬指には結婚指輪もなければ、指輪をはめていたと思われる形跡もなかった。


 


 よって、彼とともに最寄り駅前のカフェへと入ったノエル。

 クリスマスイブだが、クリスマスソングではなくジャズが流れていた。ケーキはとうに売り切れているかと思っていたが、幾つか残っていた。

 聖夜ならではの特別感がない、いつもの日常と同じだろうカフェの空気が、ノエルにはなぜか心地よく感じられた。


 

 席についたノエルと彼は、まずは互いに名刺とL〇NEの交換をした。

 彼――長船(おさふね)さんは、大手企業の社員であり、ルックスだけでなく年収もなかなかだと推測される。

 いや、彼の魅力はルックスやスペックとかいう目に見えるものだけではない。

 なんというか、ノエルが彼とこうして向かい合っているだけでも、良き夫ならびに良き父親になりそうな優しい落ち着きと力強い安定感が伝わってきた。


 ノエル自身は婚活に血眼になっているわけではないが、彼は何としてでも結婚相手を見つけたい女性にとっては、まさに”優良物件”だ。


 そして、今宵、ノエルと彼の話の一部は以下となる。


 自分はノエルという名前であるため、名簿などでこの名前だけを見た人にはハーフやクォーターだと先入観を抱かれてしまう。けれども、この名前は待望の子供がやっと生まれて、しかもクリスマスがある12月に生まれたため、ついついフィーバーしてしまった母親が名付けてしまった、というノエルの話。


 自分には一つ下の弟がいて、弟は結婚も早かったため、すでに子供が2人いる。弟の奥さんがしょっちゅう、甥と姪を連れて、(彼らにとっては祖父母がいる)自分の家へと遊びに来てくれるも、子供の元気さにはいつも圧倒されてしまう。先日、遊びに来た時には、買っておいたクリスマスプレゼントも渡してとても喜んでくれた、という長船さんの話。


 言葉によってお互いの”さわり”を知ったこの後は、もちろんホテルですべてをさらけ出し、深く熱くまさぐり合い……なんて展開になるわけがない。

 日々じっくり育まれていたがためについに繋がったこの縁は、これからじっくりと結んでいけばいい。


 聖夜である今宵、互いに気になっていたも、昨日までは素通りするしかなかった男女の”扉”の鍵が少しだけ開いた。

 でも、扉の中がほんの少しだけ見えただけだ。足を踏み入れていくのは、まだまだ時間が必要だ。

 そう、明日の朝も平日であり、明日の朝も変わらずに電車で顔を合わすのは確実なのだから。


「じゃあ、また明日」

「ええ、また明日」


 そう言って、ノエルと長船さんはカフェ前で別れた。

 スーツを汚したこともあり、長船さんの分のコーヒーとケーキの代金も支払おうとしたノエルであったが、彼は「いいから。今夜は僕が誘ったんだし、ここは僕が払います」と全て奢ってもくれていた。



 人通りもそこそこで、イルミネーションで華やぐ夜道をルンルンと歩くノエル。

 仕事の疲れなど、もはや夜空の星の彼方だ。

 お酒など一滴も飲んでいないのに、彼女の足取りは軽く夢心地だった。


 

 久しぶりの彼氏候補……かな? 昔は不良っぽい人に魅かれたこともあったけど、この歳になったら穏やかで堅実な人が一番だよね。本当に、今日はいろんな意味でメイク直しをしていてよかった(笑) もし今度、本格的なデートに誘われたら、ミニスカート履いていこうか? 正直、私の顔はメイクでちょっとだけ底上げしているけど、脚だけは本当に文句なしで綺麗だもんね。学生の時からよく褒められていたし……でも、あんまり露出の高い恰好をしていったら、長船さんに引かれちゃうかも。ミニスカートで勝負できるギリギリの年齢と言えばそうだし、やっぱり10代の頃とは違うもんね。自分を客観的にみて、攻めていかなきゃ。


 

 ノエルの体内でここしばらく眠っていた女性ホルモンがみるみるうちに活性化し始めていたその時――彼女の背中の方角より幾人もの悲鳴と、車の爆走音が聞こえてきた。


 ハッと振り返ったノエルの目に映ったのは、暴走車だ!

 悲鳴をあげ続ける通行人たちは、その暴走車をきちんと認識していたからこそ、いち早く避けるならびに逃げることが出来ていた。


 だが、ノエルのわずか10数メートル後ろをほろ酔い加減で歩いていた満月のような頭頂部をした中年男性が、ノエルの目の前でその暴走車の餌食となってしまった。


「ぎゃおぉ!! ぐぅうあああああぁぁぁぁぁ―――!!!」


 獣の雄叫びのごとき断末魔は、聖夜の夜空をも震わせた。

 惨たらしい末期の声。

 前輪に男性を巻き込んだ暴走車は、彼をボロ雑巾のように引きずったまま、ノエルの方へと――!

 何らスピードを緩めることなく、いや、さらに加速して――!


「!!!」

 ”牙を剥きだしにした車”の運転席にいたのは、髪を振り乱し般若の形相をした女だ。

 その”見知らぬ女”からの殺意が、ノエルを直撃した。


 宙を舞い、地面に叩きつけられたノエル。

 だが、殺意はなおも、彼女へと向かってきた。

 ”左脚により強く生じた”この世の地獄のごとき激痛に彼女の意識はついに砕け散った。 


 悲鳴と怒号、救急車のサイレンが飛び交う聖夜の夜空には、新月へと近づきつつある月が輝いていた。

 その細い月は、この聖夜の災難に巻き込まれた者たちの命や幸福の”バッテリー”を示しているかのようであった。




※※※



 いつもの朝は、ノエルにはやってこなかった。

 朝の電車で”いつものように”長船さんと顔を合わせ、聖夜の楽しいひと時のお礼を言うこともできなかった。

 しかし、彼女の人生自体が、あの聖夜で断ち切られたわけではなかった。

 


 ノエルが病室で目を開けた時、すでに年は明けていた。

 全身ボロボロの状態で眠り続けてきた一人娘が意識を取り戻したことに、ずっと側についていてくれたらしい母親は号泣し、仕事先から急いで駆けつけてきた父親も目を赤くしていた。


 母親が止まらぬ涙とともに言う。

 本当に助かって良かった。あんたの前に轢かれた人は亡くなってしまったからね。これからリハビリも一緒に頑張ろうね。お母さんもお父さんも、ずっとノエルの側にいて、ずっとノエルを支えていくから、と。


 ノエルは知った。

 事実を――ボロボロにされた自分の肉体の状態を突き付けられた。

 ”時間”という止めることのできない川の流れに乗り流れゆく、”肉体”という船の状態を……


 全身傷だらけの痣だらけで、体の至るところの骨が折れていた。

 それだけでも若い娘には、いや若い娘でなくても相当に残酷なことであるのに、ノエルの左脚は膝から下がなくなっていた。

 左脚切断。

 損傷が激しかったのと、感染症を防ぐために切断を余儀なくされたのだと……

 

 あの暴走車は、ノエルを撥ね飛ばした後、さらにノエルを轢こうと――完全に轢き殺して息の根を止めようとした。その車のタイヤが彼女の左脚に乗り上げたのだ。


 ノエルは自慢の美脚を失ってしまったばかりか、歩いて走ってという今まで通りの生活すら、あの聖夜を境として永久に失ってしまった。


 何ら落ち度のないノエルが、このような目に遭わされた理由。

 そして、単にたまたまそこにいて巻き添えをくらっただけの通行人男性が、命までをも奪われてしまった理由。


 それはやはり、ノエルが長船さんからの誘いに乗ってしまったことであった。

 しかし、結論から言えば、長船さんにも何ら非はなかった。


 ノエルと中年男性を轢いた加害者――般若の形相の女は、長船さんの弟の妻だった。

 しかし、その弟は長船さんと顔や声こそ、ほぼ一卵性双生児レベルで似ていたも、とりたてて優しくもなければ穏やかでもなく、さらに言うなら育児にも協力的ではなく、独身仲間としょっちゅう遊び歩いていた。

 子供2人を抱えた苦しくて寂しい生活の中、弟の妻が、”良き夫ならびに良き父親になりそうな優しい落ち着きと力強い安定感が伝わってくる”義兄の長船さんに惹かれてしまうのは、もはや時間の問題であった。

 だから、彼女は子供たちにかこつけて、長船さんが父母と暮らす家に遊びに行かせていたのだ。


 あの聖夜だって、家庭を一切に顧みずに、独身仲間とキャバクラでのクリスマスパーティーに行ってしまった夫を待つのではなく、彼女は子供たちを連れて義兄に会いにいったのだ。

 だが、義兄はなかなか家に帰ってこない。

 子供たちももう、遊び疲れて寝入ってしまった。

 せっかく、令和になって初めてのクリスマスイブだというのに。


 子供たちを義両親に託した彼女は、義兄に会いたい一心で、彼の最寄り駅前まで車を走らせた。

 すると、なんということだろう!

 ”私のお義兄さん”が知らない若い女とカフェから出てきた。

 

 あの女は、お義兄さんとどのような関係なのか?

 いや、そんなことはどうでもいい!

 あの女が”私のお義兄さん”を誘惑し……

 轢いてやる! 殺してやる!!

 途中、ちんたら歩いていた邪魔な満月ハゲ親父も巻き込んでしまったが、構うものか!!!



 以上が、犯行理由であり聖夜の惨劇の真相であった。

 さらに言うなら、犯行当時の彼女はいわゆる心神喪失状態であった疑いが高いとのことで……

 そのことが、加害者の量刑ならび賠償にどのように影響するかは、ノエルや彼女の家族だけでなく、この日本で暮らしている大半の大人には予測がつくであろう。




―――完―――

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