Episode9-C あなたは私のお母さん

「公子(きみこ)? 私、芙由美(ふゆみ)だけど、こんな夜分に電話しちゃって、ごめんなさい。今、少しだけ時間いいかしら?」


「もちろん、それは構わないわ。でも、芙由美からの私への電話なんて珍しいからびっくりしちゃった」


「ごめんなさい、びっくりさせちゃって。私、本当は公子に手紙を書こうと思っていたのよ。でも、その手紙を書いている時間も、もうなくて……」


「芙由美、やっぱり、あなたには主婦と会社員の両立は無理なのよ。この間、私があなたの家にお邪魔した時にいただいた夕飯だって、正直、少し手抜き感があったわよ。娘の古都美(ことみ)ちゃんだって、中学1年生っていう多感な時期だし、家にいてあげた方がいいんじゃないかしら?」


「………そうね。その古都美のことなんだけど……あの子、ここ1週間ぐらい学校に行っていないの。いいえ、学校に行けなくなっちゃったのよ」


「え? どうして? 古都美ちゃん、学校でいじめでにもあってしまったの? ほら、だから、母親がちゃんと家にいてあげた方が古都美ちゃんのためににも良かったのよ。芙由美も母親として、考えた方がいいと思うわ。今は旦那さんや親友の私のフォローで何とかなっているけど、本来のあなたは頼りないんだから。しっかりしなきゃ。中学校に直談判に行くっていうなら、私も一緒に行ってあげるわ。古都美ちゃんは独身で子供のいない私にとっての娘でもあるんだから」


「……………………公子、古都美が学校に行けなくなってしまった原因を作ったのは、私なのよ。私が”早く逃げださなかったせいで”、古都美は同級生だけじゃなくて上級生たちからも『人殺しの娘』と陰口を叩かれるようになってしまったの……」


「どういうことなの? ”逃げださなかった”とか『人殺しの娘』とか、話が全く分からないんだけど。芙由美が実際に人を殺したってことではないわよね? そうだったら、とっくに警察に捕まっているものね。ねえ、もっと詳しく話して」


「ええ、今から全て話すわ。”全て”をね……ねえ、公子……人間関係には、それこそ人の数だけいろいろな種類の問題が生じるものよね。私の場合は『嫌いな人に一方的に好かれて、この人(私)なら自分のことを何でも受け入れてくれるはず! と勝手に”その人の世界における役割”を認定されて付き纏われること』から、ずっと逃れることができなかったの」


「芙由美は優柔不断で、はっきり言いたいことを言えないタイプだもの。芙由美の性格は、私はちゃんと分かってる。私たち、いつの間にか38才にもなっちゃったわけど……幼稚園の時から、かれこれ30年以上の付き合いの親友だもの。ずっと一緒に成長してきたもの。2本の木が青空に向かってすくすく育っていくみたいにね……でも、そんなことより早く話して。ねえ、話してよ」


「………………………………………」


「どうかしたの? 芙由美、泣いているの?」


「……そうよ。もう涙が止まらないわ。次から次へと溢れてきて……っ……」


「相当深刻な事態になっているようね。でも、話して。私がちゃんと聞いてあげるから。私はあなたの親友……いいえ、30年以上の付き合いの大親友なのよ」


「………………”今回のこと”の始まりは、今年の4月よ。私が勤めていた会社にね、佐神沙雪(さがみさゆき)という名前の18才の女の子が入社してきたの。彼女はちょっとおっちょこちょいで天然だけど、ごく普通の女の子っていうのが当初の印象だった……でも、1日でも早く仕事を覚えようと必死だったし、雑用だって嫌がらずに何にでも一生懸命で……だから、私も彼女が会社の空気に馴染んで働くことができるようにフォローをしていたし、お昼だって誘って一緒に食べていたわ。私は彼女に対して、会社の先輩としてのボーダーラインを越えた接し方をしていたわけでなかったことは天に誓えるわ。けれどもね……佐神沙雪は、入社して1か月もしないうちに私のことを『お母さん』なんて呼び始めたわ。最初は私の聞き間違いかと思ったんだけど、そうじゃなかったの。同僚の前でも、上司の前でも、取引先の人の前でも、お客様の前でも『お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん』…………」


「へえ……不気味な娘ねえ。母親の愛情に飢えているのかしら? それとも、よく聞く”サイコ”ってやつかしら? けれども、上司や同僚たちは、その佐神沙雪って娘にちゃんと注意はしたんでしょ?」


「もちろん、していたわ。『ここは会社だぞ。けじめをつけろ』ってね。それに、私自身もちゃんと注意していたのよ。給湯室で2人きりになった時にね。でも『お母さんをお母さんって呼んではいけないんですか? どうしてですか?』って、不思議そうにしているの。それを聞いた時、私、佐神沙雪が人間の形をした得体のしれない不気味な生き物としか思えなかった。誰が何といって諭しても、佐神沙雪にとって私はお母さんでしかないの。”私のお母さん以外の何者でもないお母さん”として、あの娘に認定されてしまっていたのよ」


「怖いわね。相当に怖いわ。普通に話をすることができない人、人の気持ちを……嫌悪や恐怖を分かろうとしない人がこの世で一番怖くて、厄介だわ」


「………………ええ、公子の言う通りよ。佐神沙雪の場合は、私を『お母さん』って、呼び続けるだけじゃなかった。私がお客様にお茶を出すように上司に頼まれた時は給湯室までついてきて『お母さんがお茶を淹れるから、私はそれを見に来たの』って周りをウロチョロしたり、私がお昼に食べようと思って買ってきたプリンに横から勝手にスプーンを入れて半分こ、ううん、カップの中でプリンをグチャグチャにして『はい、お母さん、美味しいプリンは”半分こ”しようね』って渡してきたり、私の通勤鞄の中の文庫本を勝手に取り出して、『お母さんって、こんな若い人向けの恋愛小説読んだりするんだね』と私の私物を好き勝手に触るようになって……」


「芙由美……そこまで好き放題させるなんて、あなたもあなたで甘すぎるわよ。あなたはやっぱりトロいし、弱すぎるのよ。『いい加減にして!』って、怒鳴りつけてやれば良かったのに」


「……私自身、後悔してるわ。なんでもっと最初の段階ではっきり言わなかったのかしら? 私自身の手に負えない相手だと感じたら、なぜ、もっと早くに逃げ出さなかったのかしら? ってね。逃げることは決して負けではないのに。むしろ被害を被っているこっちが逃げることでしか、”佐神沙雪みたいな人たち”との縁をきっぱり断ち切ることはできないのよ。そして……ついに佐神沙雪は事件を起こしたの」


「まさか、芙由美の”本当の子供”に……古都美ちゃんに危害を加えようとしたの?」


「いいえ、その事件というのは、佐神沙雪が人事課で『お母さんの住んでいるところを教えて! お母さん、私に秘密にして教えてくれないんだもの!』って、人事課に保管してある私の履歴書を何がなんでも見ようと暴れたことよ。それを止めようとした妊娠中の社員が、佐神沙雪に突き飛ばされて尻餅をついたの」


「……もしかして、佐神沙雪はその社員を流産させてしまった?」


「お腹の中の赤ちゃんも母体も大丈夫だったみたい。先月、元気なお子さんを産んだって聞いているわ。本当によかった……」


「赤ちゃんの命は無事だったとはいえ、そんな事件を起こした佐神沙雪は当然、解雇になったわよね?」


「ええ、3か月の試用期間もあと1か月弱残っていたけど、即解雇となったわ。『嫌だ、嫌だ、お母さんと一緒に働きたい』って大泣きしていたけどね。佐神沙雪が会社からいなくなって数日後に、佐神沙雪のご両親が会社に菓子折りを持ってお詫びに来たのよ」


「両親? 佐神沙雪には、ちゃんと母親がいたの?」


「そう、私もてっきり母親がいない家庭で育って、その寂しさの空白を埋める代償と元来の精神的幼さで私を母親認定したものだと思っていたわ。でも、違ったのよ。そのことがより一層、不気味で気持ち悪かった。私より少し上の年代ぐらいのご両親が涙を流しながら、私に頭を下げ続けたわ。ご両親からよくよく話を聞くと、佐神沙雪は昔から、同性の先生や先輩に『お母さん』なんて付き纏って問題になったことは一度や二度じゃなかったって…………」


「それって、ターゲットを決めては同じことを繰り返しているってことよね。ほんと狂っているわ」


「そうね、でも、佐神沙雪は解雇となったし、彼女にはもう私の目の前に現れないと思っていたの。いえ、心からそう願わずにはいられなかった。けれども、先日……古都美の中学校の2学期が始まって間もない日曜日にね、家のチャイムが鳴ったの。私は何の疑いもせずに玄関を開けたのよ。そこに立っていたのは、案の定、佐神沙雪だったの……どうやって、佐神沙雪が私の家を調べたのかは今でも分からないけど、佐神沙雪はニヤニヤしながら自分のお腹を撫で回していた。そして、私にこう言ったの。『お母さん、私、妊娠しちゃった。行きずりの男の人の誰かの子だと思うけど。でも、お母さん、この子の面倒を見てね。私のお母さんだもんね。お母さんがこの子の面倒を見てくれるって約束してくれなきゃ、私、この子を産むことができないなあ』って………………………佐神沙雪のお腹はまだ目立つほどの大きさじゃなかった。でも、妊娠しているのは明らかだったわ。佐神沙雪は、さらに続けたの。『お母さんが面倒みてくれるってちゃんと約束してくれなきゃ、私、この子を死神の鎌の前に差し出さなきゃならなくなっちゃうよ』って………………………その時、私ははっきりと分かったわ。佐神沙雪は私に”母”を求めていたんじゃない。単に自分に服従させる相手を探していたんだと。自分自身の家庭ではなく”外の世界”にいる私に『家族ごっこ』という身勝手なおままごとにおける役割を勝手に与えて、胎児の命を盾に私を脅迫し、服従させて自分の思い通りに動かそうとしているんだってね! そもそも、会社で私が『お母さん』と呼ばれて困惑していた時も、こいつは心の中で楽しんでいたんじゃないかって……その時、私の中で何かがブチンと切れたわ。『ふざけないで! あなたのお母さんはちゃんといるでしょう!! そもそも、子供は親に面倒を見てもらうこと前提で作るもんじゃないわ! ”孫疲れ”が今、問題になっているの知らないの?! ううん、そんなことよりも、私はあなたのお母さんじゃないわ! 私をお母さんって呼んでいいのは、私の娘だけよ! あなたは性質の悪い脅迫者よ! ただの異常者よ! 二度と私の前に現れないで! 気持ち悪い!!』って怒鳴って玄関をバタンと閉めたわ。佐神沙雪はしばらく玄関の前にいたみたいだったけど、しばらくしたらいなくなっていた。そうはいっても、やっぱりお腹の子のことが気がかりで、なぜか私が罪悪感を抱いてしまったけど、私は”本当に”あの娘のお母さんでも何でもないんだし、もう絶対に関わり合いになりたくなかった…………………………でも……逆上したらしい佐神沙雪は…………古都美が通っている中学校の前で待ち伏せして、誰彼構わず声をかけて『お母さんが子供の面倒を見るのが嫌だって言うから、私は赤ちゃんを死神の鎌の前に差し出すことを選択しなきゃなかったの。ひどいお母さんでしょ。私のお腹の中の赤ちゃんを間接的に殺したのはお母さんよ。そんなひどいお母さんの血を引く娘がこの中学校に通っているのよ。名前は古都美ちゃんっていって……』なんて言いふらしたのよ」


「それで、古都美ちゃんが中学校で『人殺しの娘』としてと陰口を叩かれるようになってしまったってわけね」


「ええ、もう……悔しいやら悲しいやら……今も気が狂いそうだわ。私が間接的な『人殺し』と後ろ指を指されてヒソヒソされるだけならまだしも、何の罪もない大事な古都美にまで癒えない傷を残してしまうことになったんだもの……それに、このことは夫の会社にまで伝わってしまって……なぜか夫がまだ二十歳にもなっていない女の子を愛人にして弄んで、そのことに激怒した妻(私)が無理やりに中絶させたなんて根も葉もない噂にまで発展して、どんどん広がっていっているのよ…………だからね、私たちは”今から”この町を出て行くつもりよ。古都美も転校させてね」


「…………引っ越してしまうのね。寂しくなっちゃうけど、それがいいわ。ううん、もう、佐神沙雪みたいな人間から逃げるにはそれしかないわね。落ち着いたら、また顔を見に行くから、私に転居先を教えてくれるかしら?」


「……………公子、私はあなたに転居先を教えるつもりはないわ」


「え? どうして? 新しい住所が私から漏れる心配はないわよ。私自身は佐神沙雪とは何の面識もないし。それに私たちは大親友でしょ」


「…………………………あなた、まだ分からないのね。まあ、分からないからこそ、あなたは30年以上も”勝手に私を大親友に認定して”今日という日まではっきり拒絶できなかった私に付き纏って、私の家庭にズカズカ入りこんできていたんだものね。あなたは私たちのことを”2本の木が青空に向かってすくすく育っていくみたい”なんて、比喩していたけど、実際のところ、青空へと伸びていきたかった私にあなたが蔦のように絡みついてきていただけよ」


「ふ、芙由美? 何、言って……?」


「あなたより佐神沙雪の方が数段強い毒を保有しているけど、あなたも充分に”佐神沙雪みたいな人たち”のカテゴリーに該当するのよ。私は『嫌いな人に一方的に好かれて、この人(私)なら自分のことを何でも受け入れてくれるはず! と勝手に”その人の世界における役割”を認定されて付き纏われる』星の元に生まれてしまったのかしら? …………私はあなたをずっと拒絶したかった。ずっとあなたから逃げたかった。それなのに、あなたは、私が結婚し出産した後も、私の家を頻繁に訪ねてきて………あなたは妻になったことも、母になったこともないのに、したり顔で私にダメ出ししてきて、私たちの暮らし方や働き方に口を出してきて、それに……一番許せなかったのは、古都美に『古都美ちゃん、お母さんの大親友である私のことは第2のお母さんだって思ってくれていいからね。古都美ちゃんは、私の娘でもあるのよ』なんて言ったことよ。それに、時々、1人で留守番をしていた古都美を強引に連れ出そうとしたこともあったわよね。あなたも”身勝手なおままごと”をしたいがために、私の家を土足で蹂躙してきたのよ」


「…………ひ、ひどい」


「公子ったら、何、涙声になってるの。私の本当の心を知ってショックだった? でも、私がこの30年以上もの間、あなたが原因で被ることになった精神的苦痛に比べたら軽いものだと思うわ。学生時代だって、空気が読めなくて嫌われ者のあなたが私の隣にいつも引っ付いてることで、他の友達だって離れていったりしていたよ。ほんと、迷惑だった。私もよくこれだけ長い間、我慢してきたものだわ。失うものは多かったけど、これでやっと、逃げることができる。”あなたたち”から……でもね、公子……餞別として、あなたの”身勝手なおままごと”の中での”古都美に代わる娘”は、きちんと見繕ってあげたわ。その娘は…………佐神沙雪よ」


「どういうことなの!?」


「私は佐神沙雪の家に手紙を送ったの。”娘”を求めているあなたのことを紹介したの。謝罪時に彼女の父親からいただいていた名刺が役にたったわ」


「ど、ど、どうやって、紹介したのかを私は聞いているんじゃないわ! どうして、そんなことをしたのかって聞いているのよ!?」


「佐神沙雪の執着の対象を、私からあなたに移しただけよ。ターゲットを決めては同じことを繰り返している、あの娘のことだもの。次なる”あなたは私のお母さん”は、公子、あなたかもしれないわね。それに”あなたの娘”も古都美から、”自分の家の外にお母さんを求めている”佐神沙雪に代わるのよ。互いにウィンウィンだし、うまくやっていけるんじゃないかしら?」


「何てことしてくれたのよ! え、ちょっ、ま、待って! 芙由美、電話を切らないで! もう一度、きちんと話しましょう! 謝るから! 今までのことはちゃんと謝るから! ねえ、お願い! お願いよ! …………芙由美? 芙由美!!」




――fin――



【参考文献】

・スーザン・フォワード『となりの脅迫者――家族・恋人・友人・上司の言いなりをやめる方法』パンローリング株式会社、2012年

・ゆうきゆう/ソウ『マンガで分かる心療内科⑩』株式会社少年画報社、2014年

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