/四月
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”幸福論”とは、言ってしまえば人間が生まれ持つ一生の台本。当人にとって極点の幸を掴める道を選び取りながら、畜生道に落ちる事もなく人として至極真っ当な生を全うするための、謂わば手順書のようなものです。
幸福論とは何ぞ。これはそう聞かれたときに答えようと心に決めている僕の定型文ですが、このままでは結局上辺だけの飾りに過ぎません。幸福論の本質は、少なくとも、僕のような人間が簡単に言葉で語れるようなものではありません。
まだ一般的な学び舎の元でおよそ強制的に生物学を学んだ折には、個別にシンボル化される前の精神コードから形成されるゲシュタルトモデルを元に計算された重複のうち、第二成長期に差し掛かる辺りまで要求の続く情報を優先的に選定した結果であり、イデア・ファイル(※二十一世紀後期に開発された計算能力を備えた人工細胞。内部情報のビット列をアクセスコードと呼ぶ)の産物である。だとかなんとか聞いたことがありますが、残念ながら理科学の方面へ通ずる幸福論は持ち合わせておらず、僕には理解ができませんでした。
幸福論に対して疑問を抱くことは、言えば己の存在に疑問を抱くようなもの。つまり時間の無駄であり、野暮な事ではないでしょうか。然し、それに関わるアレソレコレを専門とせん業種や学生たちの研究活動はまた別のお話です。
一度は考える事を確実に放棄した身分で、その“当たり前”に歯向かうような事をするのは大変億劫です。でも、僕こと神木幸村は、中々の勢いでこれを専門とせん彼らからの有難い教えを頂きたいですし、あわよくば今一度自分の幸福論を解体してみたい、と、心の底から思っている次第です。
はっきり言って自分のキャパシティを超える程の難易度の脳科学やら、物理学やら、生物学やら、そういったものはとても苦手です。よって今更、幸福論のなんたるかを説いて頂いたところで右から左でしょうし、記憶領域に残るのが其れを能弁と語る誰かさんの顔と仕草くらいになってしまうでしょう。これは大変失礼な事です。申し訳ございません。ですが、今僕は、自分自身の幸福論をこれほどまでに疑う他ない状況にあるのです。
幸福論とは、当人にとって極点の幸を掴める道を選び取りながら、畜生道に落ちる事もなく人として至極真っ当な生を全うするための、謂わば手順書のようなものである。えぇ、そうでしょう。そうでしょう。
しかし、僕の幸福論が提示した現状は僕が選び取ったものではありません。突然神様的な存在により台本が書き換えられ、一つの新しい完成された物語を、さぁお前の人生だ、と言わんばかりの笑顔で与えられたような気分ですらおります。
その瞬間と比べたら、時間の経った今でこそ妥協という形で大人の対応を図りましたが、未だ腑に落ちないのです。
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蛇のような鋭い瞳を向ける人間を、神木はこれまでに何人も見た事がある。勿論、実際にその目を持つわけではないが、彼らの眼は等しく人を拘束していた。その中でも彼を格別だと思う理由は、体感温度が氷点下のいまに対峙する相手としてはあまりにも悪すぎただけでなく、自身が組織の一員としてこの場所に立った初日であることも重なるのだろう。彼と会うのはこれで数度目になるのに、神木は初めて自分の背筋が必要以上に伸びたがるのを堪えられなくなっていた。
電脳庁観測局局長、東雲 龍二郎が、ただでさえ子を泣かせそうなほどの強面を極限まで強ばらせ、無遠慮に眉間へと眉を寄せる。
シンプルに価値を主張する調度品によって重圧という言葉が視覚的に展開されたような厳かな室内は完全に彼が支配していたが、前かがみで片肘を付く姿には、言いようのない哀愁が漂っていた。
「この件のお話は以上となります、東雲局長。ご説明が不足しておりましたら、ご報告申し上げる事はまだ山程御座いますが」
そう語尾をあげて言ったのは恐ろしく容姿の整った男性だった。大和男子というより西洋の雰囲気が勝る顔立ちの男は、柔らかな笑みを湛えながら、低くも良く通る声を響かせた。男と少し距離を置いてデスクに着き、男と向かい合った東雲はため息混じりに呻いた。
「要らん。お前の辯解は俺の脳ミソを引っ掻き回す。溶けて鼻から出そうだよ」
「おやおや、ちゃんと鼻をかんで下さいね。ちり紙をご用意致しましょうか?」
「いい加減にしてくれ柊。もう結構だ。残りは報告書で確認する。
すまんな神木指揮官、早々からこんな下らん説教に巻き込んでしまって」
東雲が右手で目元を覆い首を振る仕草を取ると、柊と呼ばれた男は身に漂う品をまるで台無しにして、片手を腰に当てて子供のような笑い声をあげる。
どちらの心情も汲めない神木は、身に付けた白茶色のネクタイへ視線を落とした。その際、神木が発した相槌は、自分でも驚くほど無心な声だった。
この瞬間を作り出したのは、そもそも昨晩遅くからこの日の深夜の間に遡る。神木は時間を辿った。
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