朝が来る

 朝が来る。私たちの意思とは関係なく太陽は登り、私たちの意思とは関係なく太陽は沈み、私たちの意思とは関係なくいつの間にか夜を迎えている。

 朝は一日の始まりだと言うが、私にとっては(やっていることがやはりそれなので)一日の終わりのように感じられる。気だるくて、体の中に僅かながら残っている生々しい熱を消し去るように熱を熱で上書きするために熱いシャワーを浴びて、私は深海魚になる。いつも袖を通している制服に腕を通して、いつも通りに眼鏡をかけて、財布の中に隠していたお金を机の中の引き出しにしまっておく。私という自己が認められたという証拠のように、大切に。


 思えば普通の高校生だと思う。成績は平凡、運動もそこそこ出来て、両親からハラスメントを受けているわけでもない。普通の女子高生なのだと思う。だからこそ、普通じゃない何かを欲していたのかもしれないし、その承認欲求のはけ口がそれだっただけなのかもしれない。私はいつでも特別な何かになりたかった。


 学校に来ると、私は早速影の中へと潜る。日向の中は私にとって明るすぎて浅すぎてうるさすぎる。だからひっそりと、一人だけの影の中へと潜る。私は深海魚なのだ、暗くて静かで誰も近寄らないような私だけの影の中。私は影の中で息をすることを覚えた。

 しかしながら深海に住むクラゲもいる。

「キョウコ、おはよう。昨日、楽しかったね」

 私の隣の席でつい先ほど登校してきたリンがコロコロと笑いながらそう言ってきた。彼女の垂れた長髪を耳へと掛ける仕草と現れるうなじが一々艶めかしく写って、私は見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を覚えて目を背ける。

「何が楽しかったのさ」

 私がそう言うと彼女は少しびっくりしたような顔をして、すぐにまた笑う。ふわふわと優柔不断に表情を変えながら、笑いかける彼女は気持ち悪いほど綺麗で、綺麗なものにあまり耐性がない私は少しだけ彼女のことが嫌いになる。

 ふわりふわりと笑みを浮かべる彼女を見て、少しクラゲに似ているなと考えた。

「だって、隣の席に座っている根暗そうなクラスメートちゃんが夜になったらあんなにイケナイことをしているなんて楽しくて仕方がない」

 彼女の目が怪しげに光ったのは見間違いではないはずだ。多分。


 首に汗がつたうのを感じた。足元でドリルが通るような振動を覚える。振動が脳に直接語りかけるように振動し、共鳴するように歯がガタガタと震え、寒くもないのに筋肉が硬直し頬がピクピクと勝手に跳ねて、心臓が早鐘を打つように鳴り響くのを感じた。眼球が定まらない焦点を探しながらゆらゆらと蠢いて、リンを見つめているはずなのに背景がまるで乖離していくように遠ざかって見えた。


 そうだったよね。昨日、私はリンとシたんだよね。


 正直に言えば昨日のことは何も覚えていない。気がつけば家のベッドで寝ていて、体の表面をふわふわと焦がすような多幸感に近いものが包んでいるような気がした。ただ口の中が苦くて、今朝になって冷えたお茶と飲み比べてみるとなんら変わりないことに気がついて心底残念に思った覚えがある。

 彼女はどう思ったのだろうか。ふと思ったそれは心の中を侵食し、つい先ほどまでの恐怖を餌に肥え太り、私の承認欲求と男性に対する嫌悪感すらも凌駕して、私の心を満たしていた。

 私はあれほど幸せだった。あれほど苦かった。

 彼女はどうなのだろうか。

「本当に、楽しかった?」

 口が勝手に喋っていた。彼女は少し、いつもより目を開き、いつもよりも笑みを深めて笑っている。桜色をした唇から白い歯が見えた。


「ぜーんぜん、楽しくなかった」


 リンがそう言ってごめんなさいと付け加えた。その笑みが、相反するように突き放すような声音が耳に突き刺さるようにキンと鳴った。短い耳鳴りの後に失意がしっとりと滲んでいくのがわかった。

「だってやり方なんて全然わからなかったし、初めてやることだらけで緊張したりして全然楽しむ余裕なんてなかったし、キョウコもマグロだったしさ」


「でもね」と彼女は付け加える。彼女と初めて視線が交わった、気がした。もしかすると私がリンと喋っていた時、彼女は私の背景を見ていたのかもしれないなと思った。そのことにも少し、ネガティブに考えてしまう。

 彼女の頬が桃色に染まるのを見て、私の中で何かが疼くのを感じた。


「あなたといるとすごく安心するの」


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