鹿せんべい売りは異世界で通用するのか

安佐ゆう

前編 霧の向こうの……

 仕事からの帰りに、暗い山道を一時間以上も歩くのは、京子にとってはごくあたり前のことだった。

 京子は公園で、観光客相手に鹿せんべいを売っている。周りには観光客の数より多いかもしれない鹿、鹿、鹿。大人しいとはいえ、鹿は野生動物である。餌を狙ってくる彼らと一日中対峙するには、そうとうの精神力と体力を使う。日々の通勤は、その両方を鍛えるのに最適な修行となっていた。


 この日山道は濃い霧に覆われていた。暗いはずの視界が白く明るく感じる。しかし前は全く見えない。もちろん霧が出ているからといって、京子が歩きなれた道を間違うことはない。

 そのはずだったのだが……。


 今、京子の目の前には、今までに見たこともないような大きなイノシシが、二本足で立っている。

 身長差は五十センチ以上もありそうな巨体だが、鎖帷子のような服を着せられた姿は、ある意味滑稽でもある。毛むくじゃらな手には何やら剣のようなものを持っているが、顔はイノシシそのもので、口からは大きな牙がはみ出していた。


「イノシシ……って、立ち上がると大きいのね」

「待て」

「ん?変な鳴き声ね」

「人族がたった一人で、魔王城へと向かうとは愚かな。俺様が相手をしてやろう」

「……イノシシが喋ってる?」


 あっけに取られている京子に対して、イノシシ男は持っていた剣を振り上げた。

 だがしかし、イノシシ男はそのまま硬直して、剣を振り下ろすことができずにいた。

 京子はといえば、さっきまでのあっけにとられた様子はもう微塵も感じられず、眼光鋭くイノシシ男を見つめている。


「ど、どうして体が動かぬ……」

「鹿せんべい売り心眼流秘儀、威圧。私に向かってくるなど、十年早いわね」


 鹿せんべい売り心眼流秘儀、威圧。それは毎日鹿せんべいを売る者たちにとって、最初に学ばねばならない課題である。何十匹の鹿に囲まれようとも、視線ひとつで威圧し、近寄らせない。京子のそれは今では、師匠にも匹敵する圧力で、鹿たちを押さえつけることができた。しかも京子の威圧は、観光客に悟られることのないよう、薄く笑みを浮かべてさえいる。

 動けないイノシシ男の横を、悠然と通り抜ける京子。一歩も動けないイノシシ男の前でふと足を止め、バッグから一枚の鹿せんべいを取り出した。


「上手に『待て』が出来たわね。偉いわ」


 硬直したイノシシ男の手から剣を取り上げ、代りに鹿せんべいを持たせる。未だ動くことができないイノシシ男ににっこり笑いかけ、そのまま京子は霧の中へと歩を進めた。


 ◆◆◆


 山道をしばらく歩くと、目の前に大きな門が現れた。


「こんな所に、大きなお屋敷なんてあったかしら……」


 首をかしげていると、門が開き、中からさっきのイノシシ男よりももっと大きな、真っ黒い毛むくじゃらの熊男が出てきた。よく見れば頭に二本の角が生えている。


「人族か。オークは倒してきたようだが、奴は四天王の中でも最弱。調子に乗るなよ」

「まあ、熊さんの言うことも理解できるなんて!ついに私も、鹿せんべい売り心眼流秘儀、言の葉ことのはを会得したのね」


 鹿せんべい売り心眼流秘儀、言の葉。それは心眼流を極めたものが至る究極の秘儀。動物の心を、まるで人が話しているように聞き取れると伝えられている。師匠ですらたどり着けなかったその境地に、今、京子は大きく一歩踏み込んだのだ。


「何をごちゃごちゃと。四天王最強である、このオーガの王が……うっ、なんだ、この威圧感……もしや……お前は勇者か」


 硬直する身体を必死に動かし、どうにか京子と対峙する熊男、いや、オーガと言ったか。


「なるほど、さすが熊ね。でもまだまだよ。修行が足りないわ、オーガノーガ」

「名前が違うっ!くそっ、そんなひょろい体、一発当てれば。ぐおおおおっ!」


 爪をむき出しにして、腕を振り上げるオーガ。対する京子は、肩の力を抜いて、手にした杖を一瞬、持ち直した。


「鹿せんべい売り心眼流秘儀、神速」

「ぐはっ」


 オーガと向かい合っている京子は全く動いた様子もないが、熊男は鼻を押さえて転げまわっている。

 鹿せんべい売り心眼流秘儀、神速。それは、手に持った杖で鹿の鼻を叩く技だ。叩く強さはさほどでもない。だが周りにいる観光客に気付かれないように、残像すら見えない速さで杖を繰り出す。そして敏感な鼻を軽く突くことによって、鹿のやる気を削ぐのだ。


「大きいから少し目測を誤ったようね。強く叩きすぎたかしら」

「うぐぐぐ」


 転げまわるオーガを気の毒そうに眺める京子。おもむろにバッグから一枚、鹿せんべいを取り出し、オーガのそばに置いた。


「落ち着いたらこれを食べなさい」


 そして、家に帰る道を尋ねようと、そのまま門をくぐって中に入っていった。


 ◆◆◆


 城といっても過言ではない、大きなドアが目の前にあった。

 古風なノッカーに手をかけようとした京子だったが、はっと後ろに跳び退る。


「鹿せんべい売り心眼流秘儀、心眼」

「ほう。私の攻撃を見切るとは」


 目の前に立ったのは、鷲の上半身に獅子の下半身を持った奇妙な生き物だった。その背中には大きな鷲の羽がついている。


「鹿せんべい売り心眼流とは、心眼を持つ者のみに許された流派。あなたのスピードは師匠の神速に比べれば、遅すぎる。そして私は師匠の神速を見切る心眼を持っているわ」

「何を言っているか分かりませんが、あなたはオークとオーガを倒したようですね。まったく口ほどにもない奴らです。四天王の一人であるサキュバスは……、今は留守にしているので仕方がありません。四天王を束ねる、この幻獣グリフォンがお相手しましょう」

「なるほど、鹿せんべい売り心眼流秘儀、威圧が効かないとは、なかなかのものね」


 京子はここに来て初めて、手に持った杖をしっかりと正眼に構えた。


 ◆◆◆


 鹿せんべい売り心眼流秘儀、心眼。それは京子が鹿せんべい売りを目指すきっかけとなった能力だ。

 京子が初めて鹿せんべい売りの師匠を見たのは、中学生の修学旅行の時。隙あらば鹿せんべいを食べようと周りを囲む鹿たちに対して、目にもとまらぬ早業で杖を繰り出す師匠。周りにいる観光客は全く気付いていない。

 鹿も、痛がってる様子はなく、ただ驚いてその場を立ち去った。

 凄い。

 師匠の神速の杖だけが、京子の心を占めた。

 大学を卒業してすぐに、京子は師匠のところへ行き、弟子入りの志願をした。


「お前さんが?ははん、無理だろう。大学なんぞに行ってる甘っちょろいガキが、心眼流を極められるはずがないわさ」

「けれど私は、師匠のあの技が忘れられないのです。杖を目にもとまらぬ速さで繰り出した、あの技が!」

「……お前さん、見えたのか?私の神速が。……そうか。ならばついて来るがよい」

「はいっ」

「修行は厳しいぞ」

「はいっ」


 あれからもう二十年、今では京子の技は、師匠に匹敵するものとなっていた。

 それは京子の精神を強く支え、こんな奇妙な生き物を目の前にしても動じることはない。


 ◆◆◆


「かかってこないなら、こちらから行きますよ」

「鹿せんべい売り心眼流秘儀、心眼。あなたの攻撃は見切ったわ」

「くっ。けれど空からの攻撃には耐えられないでしょう。空を制する者は戦いを制するのですから」


 グリフォンは大きく羽ばたき、舞い上がった。

 鷲の上半身は、前足まで鷲のもので、鋭い爪が刃物のように輝いている。

 しかし、京子は動かない。いや、まるで動いていないように見える。


「ぐはっ」


 空中から、今まさに京子の上に舞い降りようとしたグリフォンだったが、突然体勢を崩して離れた場所に落ちてしまう。


「鹿せんべい売り心眼流秘儀、秘投ひとう


 そうつぶやく京子の左手には、ほんの小さな石礫いしつぶてが数個握られていた。

 鹿せんべいを買った観光客が、鹿に囲まれて身動きが取れなくなる場合がある。そんな時も、鹿せんべい売りは席を外すことができない。そこで、目にもとまらぬ早業で左手に持った石礫を鹿のおしりに投げ当てるのだ。もちろん、ケガをしないように手加減をして。

 今は手加減せずに、それをグリフォンの翼に当てた。

 小さいとはいえ、超高速で飛んでくる石礫は、グリフォンの羽を貫き、バランスを崩す。


 羽を傷つけられたグリフォンは、地上に降りたってもどうにもバランスがとりにくいらしく、ふらふらとしている。


「手加減できず、すまなかったわね」

「ぐぬぬ」

「そのくらいの傷なら、羽は数日で飛べるようになるでしょう。その間はこれでも食べておいて。少ししかなくて、悪いけど」


 京子はカバンから鹿せんべいを一束取り出して、グリフォンのそばに置いた。


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