第143話 観音寺騒動改
意味のわからぬ事が起きた。
希美の元に、六角承禎の訃報が二回届いたのだ。
一回目は、観音寺城の六角義定から。
『六角承禎が突然倒れ、その夜の内に亡くなった』というものだ。
そして、死の直前、『義治を廃嫡し、その弟の義定を新たに当主に据える』という遺言を遺したという。
二回目は、観音寺城の知らせとは入れ違いに、近江日野城の蒲生定秀から使者が来た。
この使者、承禎の小姓だった若侍を連れていた。
この若侍によると、その日承禎が風呂に入る際、例の戒めの鎖を預かり一旦下がった。その後、就寝前に鎖を承禎に持っていこうと部屋を訪れたが、中に六角義定と後藤賢豊が入っていたため、近くで待機した。
すると中で争うような物音がし、その内に静かになった。
そして返り血を浴びた義定が刀を持って出てきたという。
ちらと見えた室内には、厳しい表情の後藤賢豊の傍で、血塗れで倒れている承禎の姿があった。
これは夜、承禎の自室での出来事だったので、目撃者も少なかった。
すぐに情報統制が敷かれたのと、家中の者達の信望も厚い重臣の後藤賢豊が遺言を聞き、病死と発表したため、一握りの者以外は皆承禎の病死を疑っていないようだ。
この小姓は、すぐに観音寺城から脱出し、『何かあれば蒲生を頼れ』と承禎から言われていたため、日野城に駆け込んだ。
それを聞いた時の六角義治の顔は、筆舌に尽くしがたい。
一度目の知らせでショックを受けている所へ、さらに度しがたい真相があったという追い打ちだ。
悲壮感と憤怒と衝撃と、それらがない交ぜとなった凄まじい表情で拳を握りしめていた。
希美とて他人事ではない。
承禎は何かと希美を緊縛しようとする困ったおじさんではあったが、憎めぬかわいい信者であった。
若侍の話を聞き終わった希美は、怒りに任せて立ち上がった。
共に話を聞いていた輝虎が、希美を止めた。
「待て、ゴンさん。どこへ行く気だ」
「知れた事。六角義定のクソをぶん殴りに行く」
「いくら何でも、無謀じゃ!それに、誰よりもその資格があるのは、ゴンさんじゃない」
そう言って、輝虎は義治に目を向けた。
希美もそれに気付き、渋々座った。
それを見計らってか、蒲生の使者が「これを」と希美に書簡を渡す。
その書簡を開けて読み進めた希美は、声を呑んだ。
蒲生の使者が告げた。
「御屋形様(承禎)は、蒲生の大殿とは懇意で御座った。『己れに何かあればこの書簡を柴田様に届けよ』と、書簡を蒲生家に預けられたそうで御座る」
希美は、問うた。
「この中身を、蒲生殿はご存じか?」
微かに声が震えている。
使者は、
「は。そう問われたら、『蒲生家は、書簡の内容を受け入れる』、そう伝えよと主より申しつかって御座る」
と答え、目を伏せた。
恐らく、この使者も粗方の内容を知らされているのだろう。
「そうか……」と返した希美に、義治は詰め寄った。
「そこには何が書かれておるのです?!」
希美は少し言い辛そうにした後、意を決した様子で義治を見据えた。
「承禎さんは、何か事が起きるだろうと見越していた。だから、その時には、まずは四郎は生き延びて、六角の血を残すように。勝てぬ戦をするな、と」
「わしに、落ち延びよ、と?!無理じゃ!わしは、必ず父の仇を討つ!弔い合戦じゃ!!」
義治が吠えた。
希美は苦笑して言った。
「やっぱりか。承禎さんは、四郎がそう言うのも見越しているよ。ここに、どうしても合戦をするならば、勝って生き延びる戦をせよ、と書いてある。そのためには、織田に臣従して力を借りろ、と」
義治は目を見張った。
「まさか、父がそんな事を……」
「私は近江の詳しい事情はわからないけど、前に承禎さんが言っていた。野良田で敗けてから、六角を侮る国人が増えてるって。それに、裏で三好と一向宗が動いてる。今回の事、たぶん奴らが関わってるはずだ」
希美の言葉に、義治がはっとした様子で呟いた。
「三好……、後゛藤゛……。えろ大明神様、まさか松永殿の和歌は……」
「和歌……?ああ、えろ本の巻末のやつか?確か、『池深きはちすに落つる藤の花かたぶく山に御吉野の月』……。みよしの……まさか!」
義治は頷いた。
「『御吉野』は三好、『はちす』は、六角を指す。『落つる藤』は後藤じゃ。『かたぶく山』は家を傾けると捉えれば……」
「後藤が六角に反旗を翻し、六角が滅ぼうとしている。その時に三好が出てくる、というわけか!なんで、気付かなかったんだ、私の大バカ!!」
希美は畳を拳で打ち付けた。
表面のござに拳がめり込む。
松永久秀は、そもそも三好の重臣だ。
三好と一向宗が六角の重臣に働きかけているのを知っていたのだろう。いや、もしやすると、中心になって動いていたのかもしれない。
ならば何故、こんなヒントを送ってきたのか。
久秀の心境はわからないが、結局見抜けぬまま事は起こってしまった。
だが、ようやく事態の全容が見えてきた。
義治は、ここにきてまだ過去の栄光に囚われている様子を見せた。
「織田と同盟を結び、協力を仰ぎまする。六角は名門。えろ大明神様ならともかく、織田に臣従など……」
希美は厳しい声を出した。
「阿呆。私の主が織田なんだから、逆だわ。それに、何をもって態々織田が懐を痛めるような同盟を申し出る気だ?」
「そ、それは、名門六角の対等な同盟者として……」
「うちの殿は、家柄など歯牙にもかけぬぞ。いいか?まず後藤某ってのは、六角の筆頭家老みたいな人なんだろ?国人衆の人望も厚い。それに比べて、野良田で失敗した承禎とお主の求心力は落ちている。後藤の推す義定とお主と、国人衆等はどちらを支持するか、お主ならわかるはずだ」
義治は蒼白になってプルプル震えている。
義治を取り巻く状況は絶望的で屈辱的だ。
希美は同情を禁じ得なかったが、正確に事態を理解しないと正しい判断が出来ない。若かろうが嵌められようが、義治は六角家当主なのだ。
だからこそ希美は、耳に痛い現実を伝えた。
「こうなると、お主が立てば、六角家中は二分されよう。お主の支持率低そうだから、下手すれば優勢は向こうよ。しかも、向こうは三好・一向宗連合軍という奥の手がある。そんな吹けば飛ぶようなお主に、うちの殿が見返り無く味方するか?戦国大名だぞ?」
「ぐ……、それは……」
「いや、うちだけじゃない。どこの大名とて、同じよ。お主の取るべき道は限られている。戦をせずに、我こそが近江の六角本家と主張しながらどこかの大名に庇護されて暮らすか、近江を餌にどこかの大名をもってして仇を取るか。承禎さんは、万が一の時はこういう事になるのがわかってたんだ。だから、一番勢いのある織田を選んで私にお主を託し、蒲生さんと話を詰めていた」
義治は何も答えずふらりと立ち上がると、部屋から出ていった。
「追わずともよいのか?」
輝虎の問いかけに、希美は首を横に振った。
「六角の当主はあいつだ。六角の行く末はあいつが決めるんだ。私じゃない」
「後免」と義治を追って、承禎の小姓が部屋を出る。
希美は小姓に目配せをして、その後を追わせた。
(まあ大丈夫だとは思うけど、あの若侍が義治を狙う刺客だとしたらヤバイからな)
世知辛い時代なのだ。
希美は蒲生の使者に目を向けた。
「此度は、遠い所をよくぞ知らせてくれた。礼を言うぞ」
そう言って、頭を下げる。
使者は「なんの」と返し、希美に問うた。
「若殿が織田を頼ったとして、はたして織田様は動いてくれましょうや?」
「動くさ」
希美は断じた。
「織田にとって、これは好機だ。近江を手に入れれば、京が見えるからな」
「やはり、織田は京を目指しておいでか」
希美は答えず、ふふ、と笑った。
「まあ、もし殿が動かなかったとしても、私が一人であの義定バカをぶん殴りに行くから。それは決定な」
使者はキョトンとして希美を見た。
「殴るだけで御座るか?討たないので?」
「ああ、殴るだけさ」
希美は、承禎から託された書簡を見やった。
そこには、最後にこう書かれてあった。
『近江に次郎義定を残しおり候。お頼み申す』
希美は一つため息を吐いて、気持ちを切り替えると使者に話しかけた。
「さて、お疲れで御座ろう。湯漬けと茶を用意したので、そちらに案内させよう」
「おお、それはかたじけない」
「おい、誰か!」
呼び立てられてやって来た近習に連れられて、使者は部屋を出ていった。
輝虎が呟いた。
「次は近江攻めか」
「今度は織田主体の戦だ。また、人がたくさん死ぬな」
「合戦とは、そういうものじゃ。ゴンさんの戦が異常なのじゃ」
輝虎が呆れた眼で、希美を見ている。
その時、遠くで、使者の叫びが聞こえた。
「うわああああ!!女中が髭ぇ!!!」
ひげぇ……
げぇぇ………
ぇぇぇ……………
戦の日々が、また始まろうとしている。
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