第117話 すたこらさっさ!
決行は金曜日ーーかどうかは知らない。
一週間なんて感覚はこの時代に無いのだ。
ただ全ての準備が整った今、速やかに行動しなくてはならなかった。
仲良くなって、ちょっと絆されたからといって、顕如の方針が『えろ教徒弾圧』のままである限り、えろ教徒達は常に危険にさらされている。
顕如達が根っからの悪人ならば、こんな風に感傷に浸る事は無かっただろう。
そんな事を考えながら、希美は煙の出始めたたくさんの火桶を人の来ない庭に掘った穴の中にセットした。
穴は深めに掘ってある。
万が一、火の粉が飛んで本当に火事になったら危険だからだ。
そう。今日が、決行の日である。
煙がもうもうと立ち上る。
流石松の木は油が多いだけある。火桶の中で燃した松の木片は、なかなか大量の煙を吐き出し始めた。
既に寺内町から煙が見えているに違いない。
この煙は合図だ。
予定では沢彦が「火事だ、逃げろ!」と叫び、人々に大坂本願寺の縄張りから逃げるよう促す。
えろ教徒には事前に知らせてあるから、動きも速いだろう。
縄張りの外に向かうための門には下間頼宗が待機。
門を開けるよう門番に命じ、速やかに外に出た隠れえろを、河村久五郎率いる睡蓮屋の遊女達が腕に巻いた目印の布で確かめ船へと誘導。そのままピストン輸送で大坂脱出の流れである。
大坂本願寺や寺内町に住む人々は、火事の記憶がまだ新しい。
一度混乱状態になれば、煙が収まってもしばらくはえろ教徒達が逃げる時間を稼げるだろう。
「さてと、そろそろ人が集まってきそうだ。第二ポイントでまた煙を出さなくちゃ」
希美がその場を立ち去りかけた、その時である。
「筑前尼……」
よく知っている声に呼びかけられて、希美は体を固くした。
そして、ふっと息を吐くと、希美の名を呼んだ女、御裏方様の方へ振り向いた。
希美は御裏方様を黙って見つめた。
御裏方様は一人だ。
この状況を無かった事にする、安易で最適な考えが脳裏に浮かんだが、希美はそれを破却した。
御裏方様はいい人だ。できれば、長生きして欲しい。
「何か、そなたの様子がおかしい気がして……こっそりつけてきたの」
御裏方様は、瞳を揺らめかせながら希美に聞いた。
「そなた……、『えろ』なの?」
「はいな。私、『えろ』です」
希美は、素直に答えた。
御裏方様は震える声で希美に聞いた。
「どうして……」
「一向宗内のえろ教徒を助けるため」
今度は希美が御裏方に聞いた。
「えろ教徒って、何か悪事を働きましたか?」
御裏方様は戸惑いながら答えた。
「わからないわ……。でも、えろ教徒は仏道に混乱を生じさせると……。今越中が乱れ、加賀国が危険に晒されているのは、えろ大明神柴田権六のせいだと、顕如様が」
(まあ確かに!)
とは思ったが、希美は居直った。
「今の世は、どこも混乱してるでしょう?仏道だって、本来はもっと厳しい戒律があって、妻帯なんかもっての他だった。それを、親鸞上人が解放した。坊主が妻帯、肉食、そしてそれを許す宗派が立ち上がる。当時の仏教界からすれば、悪魔の所業だよ。でも、あなた達は親鸞上人を崇めている」
御裏方様は、黙って聞いている。
希美は、御裏方様に再度聞いた。
「ねえ、えろ教徒は、悪なの?どうして、えろ教徒が弾圧されないといけないの?」
御裏方様は首を振った。
希美は御裏方に背を向けて言った。
「私、もう行きますね。……御裏方様、私の事、気に入ってくれて嬉しかった。私も、御裏方様の事が大好きになってたから」
「筑前尼!!」
走り去ろうとする希美の袖を、御裏方様が掴んでいる。
「私も、連れていきなさい!」
振り返った希美は目を丸くした。
「連れていきなさいって、あなた……。顕如様はどうすんの?!」
「いいのよ!私は筑前尼といっしょに避難するだけ。そう誰かに伝えてもらえば、少しくらいそなたに付き合っても大丈夫よ!」
「ええー……もう、わかりましたよ。気がすんだら、ちゃんと帰って下さいね。御裏方様に何かあれば、顕如様が完全に闇落ちしちゃう」
えろ教徒弾圧しているから、今は半闇落ちといった所か。
希美は御裏方を抱えると、その場を走り去った。
そのまま、第二ポイントでも煙を炊く。
そして、第三ポイント、第四ポイントを回りつつ、途中で坊官に『御裏方様を連れて堺の天王寺屋に避難する』と伝えた。
そして、そのまま混乱に乗じて石山本願寺の縄張りから脱出したのである。
堺に向けて、淀川を船が行く。
船には、えろ教徒がぎっしりと乗っており、その中に揉まれるように、美しい着物を纏った女が乗っていた。
「御裏方様、寒くは無いですか?」
希美が尋ねると、女は「大丈夫」と答えた。
「あんた、偉い身分のお姫様やろうに、わし等みたいなんとくっつきあって、悪いなあ」
「心細かろう?なんもないけど、芋ならあるで。途中で小腹空いたら食お思うてん。分けよか?」
「お姫様がそんなん食うかいな!大体お前の腹のどこが小腹やねん!大腹やないかい!」
「やかましわ!」
(やだ、戦国版新喜劇?)
大阪は、いつの時代も大阪なようだ。
船内の人々は、弾圧から逃れられるとほっとしたのもあってか、明るく和やかな表情を見せた。
一方、御裏方様は微笑みながらも憂いを帯びた表情で、船内の人々を見ていた。
「皆、良い方達……」
「悪人だと思ってましたか?」
希美の問いに、御裏方様は「いいえ」と答えた。
「変態ばかりだと」
(ごめん、御裏方様。それはあながち間違ってはいない!)
今もそこら中の男が、バレないように、御裏方様をじっと見ている。完全に、修行中だ。
「まあ、確かにはたから見ると変態に見えるかもしれませんがね、彼らは欲望を昇華して高めるだけで、決して欲望を悪に向けないというのがえろ教の教えなんですよ」
「欲望を昇華……」
御裏方様が反芻するように呟いた。
「無理強い禁止ですから。考え方、性別、宗派は違えど互いを尊重し合うのがえろ教徒なのです」
「そんな事が可能なら、世は随分と穏やかになれそうね」
「可能ですよ。実際、宗派を越えた坊主達がえろ教徒脱出のために動いています。やる気になれば、可能なんです」
御裏方様は驚いた。
「別の宗派の方達まで?他派の門徒のために?」
「まあ、同じえろ教徒ですしね。えろ教徒に対する見方が変わりましたか?」
御裏方様は、少し悔やむような目でえろ教徒達を見た。
「……ええ。実際に目にしないとわからないものね。顕如様も見えていないのだわ」
希美は囁いた。
「実は私も、ここに来るまでは、顕如様の事を悪人だと思ってました」
御裏方様が目を見開いて希美を見た。
希美は苦笑した。
「でも、実際にお会いして、親しく話をして、わかったんです。悪を為したからといって、悪人とは限らない、と」
「顕如様のした事を許す、と?」
希美は肯定も否定もしなかった。
「私の祖母が言っていました。『罪を憎んで、人を憎まず』。実際に家族を殺された人は恨んで当然かもしれないし、私も顕如様も誰かを殺したという罪からは逃れられないけれど」
希美は、御裏方様を見て微笑んだ。
「えろ教徒弾圧を私は絶対許さない。それでも私は、顕如様という人は好きですよ」
御裏方様は、一瞬虚を突かれた様子を見せた後、ふうっと息を吐いた。
「やはりそなた、顕如様の側室にならないかしら?」
「それは、断固お断り致す!」
希美は、一瞬柴田勝家に戻ってしまった。
船は寒々しい海の上をするすると進んだ。
しかし、船の上で凍える者はいなかった。
人々は肩を寄せ合い、互いの熱で暖め合っていたからだ。
もうすぐ堺の港に入る。
希美は、作戦が上手くいった事にほっとしつつ、柴田勝家として顕如と対峙した時の事を考えて、少し胃が痛んだ気がした。
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