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「ねぇ紅玉、ここから出よう。新しいところに行こうよ。私も貴方も、みんな一緒に幸せになれるの」

「そんなの……どこに行くっていうの」

「この鍵で三番目の引き出しを開けてみて」

素直に従った紅玉は、中を見て驚いていた。彼にも見覚えがあるはずだ。

「あそこを出る前に取っておいたの。これがあればしばらくは満足に暮らせるはずだよ」

紅玉は、彼の母がかつて付けていた指輪を手に取った。珍しいデザインだから間違えようがない。その他にも沢山の宝石類が入っている。

「もぬけの殻になった家にある方が勿体無いでしょ。多分今はボロボロの廃墟だろうし」

ぼうっとしていた紅玉だったけど、こちらを見てからゆっくり目を逸らした。その動きに先生は気がついたみたいで、私をそうっと離す。立ち上がって、その中を覗いた。

「君達の家族は……」

「きっともういない。いたとしても、互いに他人の関係だ。学校に寄付した父の金がいつまであるのか、あとどのくらい残っているのか知らないけど、それが尽きたら校長はどうするつもりなのかってずっと考えていた。資金が尽きたってもう連絡はつかないだろうし。僕たちは静かに死を待つだけだ。ここは学校なんかじゃなくて、お墓なんだよ。柘榴……皆って、どこまでの皆?」

「校長は、骨を埋めるならここだと言っていた。でもあの人にはもっと景色がいい暖かい場所で……風の中を自由に泳がせてあげたいな。まぁ彼の望みは神のもとなんだろうけど。あとはシェフ? あの人はどこでも平気なんじゃないかな。それと、みんなは家に帰れる。あの子達の家族は生きているからね。家族がいなくても、迎えてくれる仲間がいるでしょ。だから、私達だけだよ」

「そうか……あの子達は帰れるのか、良かった」

先生がそう呟くと、控えめに扉が開いた。腕を押さえる蘭晶とそれを支える月長だ。

「ちょうど良かった。君達にも伝えたいことが……」

「やっぱり……そうなんだね、先生。僕は、選ばないよね」

先生は困った顔を浮かべながら、二人に近づいた。

「蘭晶、大丈夫? 月長、待って。紅玉の話を聞いてほしい。私も同じ気持ちだから。それに私は……優劣なんてつけられない。皆大切な人なんだ。私の人生はもう君達以外に染められることはない。ここから死ぬまで、ずっと一緒だ」

「先生……っ」

小さな手が先生の背中に回った。二人の肩に触れている姿は、頼もしく見える。先生は自分を情けないと言っていたけど、そんなことはない。

頭を撫でて、閉じ込めて、安心できるのは自分だった。そうやって大事なものは手放さなければ、側に置いておけると思っていたから。私の手から離れても、届かない距離にいても、心はそれほど乱れていない。彼を信じているから。今まで見た先生は、私がいない時も皆に優しかった。それが私にも向けられると分かっているから、平気なんだ。

「皆も来たんだ。ちょうど良かった、入って」

自分だけ服が中途半端なのが恥ずかしくなって、整えた。その間に全員が私の部屋に集まる。

紅玉が中心となって話していたことは、まるでおとぎ話みたいだった。冒険に出て、力を合わせて生きていく。みんながはしゃいで、それぞれにやりたいことを書き出していく。めちゃくちゃな意見もあったし、真面目な意見もあった。こんな未来に辿り着くなんて、誰も想像していなかっただろう。みんなどこかで、ここが死に場所だと考えていたから。

「お部屋の中は黒とピンクが良いわぁ。素敵でしょ」

「そんな部屋、目がチカチカすんだろ。瑠璃にはでっかい部屋作ってやるからなー。あ、なあなあ雲って自分達で作れないの?」

「なんだその荒唐無稽な案は……まぁそれに近いものならできるかも」

「できるのか!」

「な、なんだよ蛇紋まで……珍しいな。でも雲なんだからすぐに消えるぞ」

「俺が乗れるサイズじゃないと意味ないんだけど」

「そんなのできるわけないだろ」

「くもみたいな、ソファーがあるよ。絵本で見たの」

「そっかー、じゃあそれでいいな。先生に読んでもらった本か?」

「こらこら、部屋のインテリアまで話していたらキリがないだろう。まずはこれからどうするか決めなくちゃ」

前の方で騒いでいるところを見つめて、呟いた。

「……なんかこういうのも良いな」

「黒曜がそんなこと言うなんて、珍しいね」

彼が私に本当の笑みを見せてくれたのは、きっと今が初めてだったんだろう。

「月長、これあげる」

「な、なに……これ」

「洗濯機」

「え、なんで今? なんで洗濯機なんか描いたの……っていうか、なんで僕に渡すの」

「……ふふ」

「こ、琥珀が何考えてるか全然分からないよ!」

「今までのことは水に流して、心機一転して頑張ってほしいってメッセージじゃないかな」

「そんな深いことまで考えてないって絶対!」

先生にまでからかわれると思っていなかったのか、月長の頰が真っ赤に染まっている。月長は考えていることが分かりやすいから、本当は彼の気持ちにも気づいていた。私に対して複雑な思いを抱えていることも。そんなのも含めて可愛い子だった。

何年も、何十年もここにいるのだと思っていた。脆くも学校という制度の中で、生徒として生きていくつもりだった。石の壁は重く、永遠に私達を閉じ込める。だから私達は可哀想で、俗世から離れた希少な存在になっていた。あれだけ遠かった空が、今は近くに感じる。私はもう箱の中で育てられた人形じゃなくなった。

あれから先生は、白と緑の生徒の行き先を必死に探していた。数名連絡の取れない子もいたようだけど、そういう子はまとめて育ててくれるという大きな家へ預けることができた。校長は誘ったけど、この場所で生きると決めていたようだ。そして彼も、校長を看取るまでここにいると言っていた。玻璃や他の子達もここに眠ることになる。灰蓮は連れて行きたがっていたけど、棺は持っていけない。玻璃の持ち物はまだ残っていたので、それを鞄に詰めていた。

もうここが開いた時のことなんて忘れてしまった。登るにも、手が引っかかるところがない。そんな壁が動いている。充分に通れる高さまで上がった先にあるのは、穏やかな風が吹いている森だった。奥地にあるのでじめじめとはしているけど、今日は爽やかな場所に感じられた。不思議な、夢を見ているかのような中で、一歩足を進めた。それだけで、鉄壁な世界から私は解放される。後ろを振り向いたそこには、それなりに思い出も愛着もある。これからどうなるか、確かに不安だ。でも、一人でないからなんとかなりそう。

伸び放題の雑草の中をなんとか進んで、森を抜けた。ずっと考えていた先の世界は、畑が広がっていて人がいない。もし何か工夫を凝らしてあの場所から出たとしても、迷子になっていただろうなとここを見て思う。家らしきものがないので、助けを求めるにも途方に暮れるだろう。しばらく歩いていると、馬車が二台用意されていた。初めてではないのだろうが、私の記憶では乗った覚えがない。馬は重さに耐えられるのかと思いつつ、隣にいる先生を見上げた。


「そうだ……こんな道を通って、あそこへ着いたんだ」

じわりと目元が滲んだ。なぜだろう、悲しくなんてないはずなのに。理由を誰かに教えてほしい。でもそれはきっと、様々なのだろう。もう二度と乗るはずのなかった馬車に、確かに私は乗っている。帰ってくることを考えていなかった。あの場所が私の死に場所だった。そんな覚悟で過ごしても、こんな結末になるなんて。つくづく人間とは勝手なものだ。自分がこんなに救われていいのかと問いたいが、私にはもう私を恨む人間すらいない。

穏やかな景色が続く中で、右腕は柘榴の暖かい体温に包まれていた。その柘榴には月長が寄りかかって目を閉じている。私と膝がくっつきそうな紅玉は、窓に顔を近づけて遠くを眺めていていた。隣の黒曜は深く座り込んで、外を見つめている。まだ街までは時間がかかるだろう。過去を懐かしむにはまだ早いが、彼らの初対面からこんな風になるとは想像していなかった。これが夢なら夢のままでいてほしい。そしてそのまま起きることなく、終わることを望む。


ぼんやりとした火を、広いベッドの上から眺める。夜はわざと電気を消し、ロウソクに変えていた。ゴシックな部屋に相応しい装飾品だとは思うが、私はこの吸血鬼でも住んでそうな荘厳な屋敷には、馴染めそうになかった。

しかし彼らには似合っている。ネグリジェの延長なのか、ドレスのような布に身を包んだ彼らは、性別を超えた美しさに染まっていた。やっと慣れてきたバスローブを脱いで、寝巻きに着替える。

立ち上がって窓の外を見た。ここは下に森が広がっている。今度もまた、人里離れた場所だった。手入れはされていなかったが、まだ使えそうな洋館。庭に食物を幾つか育てているが、あまり日が当たらないので、その環境に耐えられる物しか作れそうにない。なので他の食材は買ってくることになる。偶然辿り着けはしない場所だが、こちらから街へ行くことは難しくはないので、月に何度か通っていた。今はまだ全員が充分に暮らせそうだ。自分達で先に墓を作っておいたので、死後の心配もない。そのせいか生活は堕落し始めていた。贅沢に、無駄に楽を求めて、苦しいことは考えず、世間とは切り離して。

十個の宝石を腕に抱えて眠る。月明かりに照らされた彼らは、この世の何よりも美しい。きっと私は彼らの毒にやられたのだろう。身体の中を巡回して、細胞の隅々まで浸透してほしい。その時見る景色はきっと、この世で一番暖かく幸せな光景だろう。

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箱庭の宝石 膕館啻 @yoru_hiiragi

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