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息を整えたけど、まだ呼吸は不安定なままだった。それでも柘榴の部屋を開ける。彼はベッドの上で頬杖をついたまま、こちらを見て微笑んでいた。
「柘榴、こっちに来て」
「んー先生がこっちに来て?」
そこから動くつもりはないらしい。私は彼に対して、苛ついていた。どうしてそんなに余裕がある顔で笑っていられるのか、理解できない。
「柘榴立って」
「どうして? 先生も一緒に寝ようよ」
私は彼に近づいて、服に手をかける。一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた笑った。
「ふふ、くすぐったいよ」
「これは……」
「あー、それは別に危険な薬じゃないよ。ただの睡眠薬」
服の中から出てきた小瓶、他に危険物がないかを確認する。彼が寝転んでいたのはこれを隠す為だったのか、単に面倒だったのかは分からない。隠していたとしたら、これはやはりただの睡眠薬ではないのだろうか。
彼にシーツを投げ、身を隠すように手で指示した。私は背中を向けて腰を下ろす。
「薬は飲んだの、それとも持ち歩いているだけか」
「先生どうしたの? こっち向いてよ、怒ってるの?」
「眠くなったら寝てもいい。それまで、話を聞かせてくれないか」
くすくす笑う柘榴の手がこちらに伸びる。腰元に腕が巻きついたが、反応をしないようにした。
「お話? 何を話そっか。あ、そう今日ね、凄く良い夢を見られたの。ずっと頭で考えてたんだけど、それを上手く夢で見られて気分が良いんだ。礼拝堂でね、私と先生がいるの。みんなの前で先生は私を抱きしめる。みんなはびっくりした顔になって、それはどうしてかっていうと、私のお腹が赤く染まってるんだ。剣が刺さってたの。先生の体を貫通して、その剣がそのまま私の体に刺さってる。ううん、刺してくれたんだ。二人の血が混ざって、それは凄く暖かくて、この世で一番幸せなんじゃないかと思うほど満たされてる。そんな光景が頭から離れなくて、焦がれてるんだ。素敵でしょう? 私はそれを現実で見たいの」
「……もっと素敵な光景はあるよ」
柘榴も被害者なのかもしれない、そう思ったら怒りは鎮まってきた。私が冷静にならなくてはいけない。後ろを振り向いて顔を眺める。やっぱりそこにあるのは、残酷なほど無邪気な笑みだ。
「そうかなあ?」
「ああ」
「例えば……こういうこと?」
そっとシーツを捲った。柘榴の白い肌が目に入る。それをそっと止めさせると、つまらなそうに口を尖らす。
「はぁ……私もね、時々不安になるの。あの子達の願いを叶えてあげたのは後悔していない。でも現実の世界なら捕まるのは私なんだよね。ここに警察が来たら凄く面倒なことになる。今は守られているけど、ここから出たら冷たい牢獄にずっといることになるのかな。そんなことになるぐらいだったら、死んでしまいたくもなるでしょ。すっごく退屈でくだらなそう。さっきの夢の通り、映画のラストシーンのように死ぬことができたら、私はそれ以上のピークなんて起こりっこないって思うけどね」
彼らの親が作った学校もどきの建物で、そんな不祥事を消すことぐらい簡単だろう。まず警察がここまで来られない。
「ここにいる間なら、私はずっと先生の生徒でいられるのかな……ここから出たら、私はどうなるの?」
私は答えられなかった。一度愛してしまった体温を振りほどくこともできず、それを受ける。抗えないのだと、自分は無力なのだと悟った。柘榴は聖母のように私を撫でる。優しい口調で。
「ふふ、ごめんね。正解なんて分からないよね。私もね、分からなかったの。何度探しても何を考えても、何も見つけられなかった。だから、私はいつ死んでも良かった。ほら、あの時窓から落ちようとしてたでしょ。自分じゃ決められないから、決めてもらおうとしていたの。手が滑ったりして勝手に落ちても、それはそれで一つの正解だから。あの時に私を助けた先生のことを、信じてみることにした。それが正解でも不正解でも暇潰しにはなるだろうって。暇潰しにしては……居心地が良すぎたけどね」
思考が塗りつぶされて、頭の中で何も考えられなくなった。今までどのようにして話していたか、呼吸していたのか、それさえも分からない。しかしどうでも良かった。体に触れている体温は心地良くて、これだけが唯一確かめられるものだった。
私が彼に愛してると伝えたところで、彼は喜ぶのだろうか。私が思い描いている愛を相手にぶつけたところで、そこには誤魔化せないズレが生じてくる。今まで歩んだ人生が違うからだ。相手が思い描いている愛を私が知らなかったら、理解できなかったら、それは愛にはならないのではないか。理解できなくても、隙間やヒビが入っていても、押し通すのが愛なのだろうか。愛を訴えている人間は、それを正解とするのか。答えが出ないからこそ崇高なのだろうか。
♢柘榴♢
私が薔薇に手を伸ばしても、母はそのまま眺めていた。自分が手を下すのは嫌だったが、私には事故でも何でもいいから、早く消えてほしかったのだろう。
こちらから見た母は、それ程恋に溺れている少女のようには見えなかった。どちらかというと大人しく、一人で黙々と作業するのが好きで、服装も地味だ。子供が嫌いで、人が多いところも苦手。笑っているところは数える程しか見たことがない。今思えば、母には父しかいなかったのだろう。私が生まれても父が母のことを大事にすれば、こんなことにはならなかったのに。
普通なら母親が色々な服を着せて楽しむことを、父がやっていた。私はずっと鏡の前で、着せ替えをさせられていた。髪は腰元に伸びるまで切らなかった。何歳になっても女の子に間違われ、男の子のような趣味を持たされることもなかった。私は特にそれを疑問に持たず、与えられたものをただこなした。笑わない、喋らない、それはお人形みたいで可愛いと褒められた。
父の膝の上で、色々な大人に見られていた。ちょうど同じ時期に生まれた紅玉のお嫁さんになればいいのにと、父は笑っていた。その頃には、もう母と会うことはほとんど無くなっていた。
ある時私は家の中で、知らない男に抱きかかえられた。見たことのない部屋に連れていかれて、服を脱がされる。体液で汚れた体は怖いというよりも、不快だった。この男の一件から、父達の隙を見て私を連れ出そうとする大人が現れ始めた。父はそのせいで段々と変わっていってしまった。私の居場所を常に見張り、少し触れただけでも、その人物には焼印を入れた。やがて私は子供達としかいられなくなった。勿論知り合いの子供だけだ。外にいる子供は出会ったことすらない。
暇になって本を読んでみても、どれも似たり寄ったりの内容だった。愛憎や悲恋の物語。子供向けは空想の世界ばかりで参考にならない。大人はもっと賢く、力があるのだと思っていた。体ばかり成長して、中身は変わらない。子供よりも馬鹿なことをする時もある。自分が年を重ねていっても周りは同じ子供で、大人を演じて生きていくだけ。なんて不毛だろう。こんな未来しかないのに、誰が希望を持って生きていけだなんて言うのだろう。
私が読むものは、図鑑ばかりになった。一応これには本当のことが書かれている。しかも周りは森で、植物は生え放題だ。毒性のある物もすぐに見つかった。虫や、その辺にいた動物に試してみる。この時に罪悪感はなかった。その内薬草を混ぜ合わせてみたり、濾過をして見た目が綺麗な液体を作り始めた。これがどのくらいの威力か分からず、実験をしたいと思っていた時だ。月長のことを追いかけ回した大きな犬がいた。家の方にまでは来なかったけど、まだ森にいるはず。穴を掘ったり、網を張ったり、何が決め手になるか分からなかったので、重労働にはなったが何とか犬を追い詰めることができた。上からかけたので皮膚から吸収したのか、飲み込んだのかは定かではないが、犬は大人しくなった。まぁどちらにせよ、これは人間にも効くはずだ。死に至らしめるまでいくかは分からないが、苦しめるには充分だろう。月長の不安要素も取り除けたので、満足だった。
先程まで涙が止まらなくて、私に引っ付いていた月長の様子を思い返す。いつまでも怖がっていて、とても可哀想だった。しかし優しい彼のことだ。こんな犬でも死んだとなれば心を痛めるかもしれない。クマでも何でも、勝手に食べてくれでもしたら楽なのに、ここにそんなのは来ない。小動物でも放っておいたら死体を啄んでくれるだろうか。そんなことを待っていたら月長にも見つかってしまう。
ゴミ袋に詰めて、なるべく端の方まで運んだ。穴を掘って埋めておいたけど、どこかの動物が掘り返して綺麗にしてくれるといい。誰もこんな方まで遊びに来ないから平気だろう。
久々に会った母は、誰だか分からないほどやつれていた。骨の形が分かる程に痩せてしまっている。いきなりこちらに来ると、肩を掴まれた。真っ白な指が肉にめり込んでいる。目は血走っていて、今すぐに誰かを殺しても可笑しくない様子だった。つまり、私を殺しに来たのだと思った。母は何かを持っている。香水の瓶だろうか。あまり量は入りそうにない。薄い紫色のガラスなので、中身の液体が何なのかは分からなかった。
「これは……毒……。貴方がこの世から逃れたい時、この世から誰かを消し去りたい時に、使って。一人分……だからっ」
息絶え絶えにそれだけ伝えると、瓶を押しつけてふらふらと揺れながら去っていった。どうして母がこれを持っているのか、私に渡したのか、考えても答えは出なさそうだ。とりあえず他の毒と共にしまっておいた。
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