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白だと答えた時、どこか満足そうな表情を浮かべた。その後にふっと影が落ちる。こんな顔もできたのだと、去っていく背中を見つめていた。
何かのきっかけがあればサナギから蝶になるように、大きな変化が起こるのかもしれない。今の月長の顔は……柘榴にそっくりだった。顔の構造が似ているという意味ではない。雰囲気や視線の動かし方が、だ。
それにしてもマグカップの色とは、そんなに重要な問題なのだろうか。月長の飲み終わった黄色のカップを眺めて、手に取ってみる。無意識のうちに、彼らに合う色を選んでいたようだ。そう思うと自分のイメージカラーのようなもの、相手にどう見えているのかという、結構重要な要素に繋がるものだったのかもしれない。
月長に黄色を渡したことはそのまますぎて浅はかだったかもしれないと、少し気恥ずかしくなった。かといってそれほど種類がある訳でもないし、わざわざ意識して渡すようなものではない。一応それぞれの分は用意しているけど、それなら色も統一すればよかった。柘榴のマグカップは、彼には全然関係のないMの文字が彫られたものだ。形もバラバラで、その辺にあったのを適当に持ってきた。
全員分のカップを洗い直して戸棚にしまう。ここも私の物だけでなく、皆の物が増えていくのだろう。自分一人では持て余していたスペースが埋まると、心の隙間も埋められていくようだと、それを見て思う。誰かの為の食器、招く人を想って飾り付けた部屋。それぞれが持ってきたクッションや小物が、使っている人物を思い出して暖かな気分になった。
薄紫色のガラスの中にあるロウソクの火を消す。他にも同じ形の青や黄色のガラスに色をつけたものがあるが、部屋の電気を消してそれらを点けると、幻想的な雰囲気になった。
窓の外の真っ黒な空を見つめる。部屋の中の仄かな明かりは、一人で見るにはどこか物足りない。その気持ちが心の中にもじわりと広がる。いつだって茫漠とした不安が消えることはない。
本当にこのまま過ごしていけるのか、私はいつまであの子達といられるのか、嫌われないだろうか。私はいつまで生きて、あの子達はいつ死ぬのだろう。校長やあの人がいなくなってしまったら、私達は生きられない。ここから出る方法を今のうちに聞いておいた方がいいだろうか。そうしたらあの人に勘違いされるかもしれない。出口を知ってしまったら、私は……私だけでなく、出たいと思っていた生徒にそのことがバレた時に、私はきっと協力してしまうだろう。願いを叶えてあげたいと思ってしまう。外の世界は縋ってはいけない。この場所以外は消えたんだ。知ったら何かが変わってしまう。
私はただ信じることしかできない。ただそれは神などという曖昧なものではなく、目に見える存在なだけ、まだマシなのかもしれない。
前の椅子に座っている黒曜はどこか居心地が悪そうだった。柘榴は気にせず私に話しかけている。
先ほど突然来た二人を(柘榴に連れられたようだが)案内すると、柘榴は得意げに笑った。
「大丈夫だよ黒曜、先生は優しいからね。なんでも話してみて」
「……っ」
「いいよ無理に話そうとしなくても。でもここに来てくれて嬉しいな。良かったらゆっくりしていってね」
すっかり得意になった作業に取り掛かろうとすると、ぱたぱたと柘榴が駆け寄って来た。
「私もお手伝いする」
手伝うことなど無いほど簡単なものだが、せっかく申し出てくれたのに断るのも良くない。黒曜の後ろ姿を確認してから、鍋を取り出す。するとすかさず柘榴が砂糖をこちらに向けてきた。
「黒曜は甘いのが好きだから、結構入れて平気だよ。私も今日は甘いのがいいなあ。オヤツを持ってこなかったから、その代わりにも」
「分かった。じゃあそうしようか」
はしゃいでいるようにも見える柘榴が、落ち着きなくキッチンを動き回る。なんとなくその理由を聞けないまま、暖かなミルクティーを注いだ。柘榴のお気に入りでもある、ロイヤルな奴だ。
それを入れてから月長のことを思い出した。黒曜に用意したのは柘榴の物に近い、特に変哲のない白のカップだ。
「結構甘くしたけど、足りなかったらこれを入れてね」
「最初熱いから気づかないけど、冷めたら凄く甘いなんてことあるよね。でもこれは黒曜に丁度いいと思うよ」
特に肯定も否定もせず、こくこくと喉を動かしていた。
「黒曜は先生のことを知りたいんだって。聞きたいことあるんでしょ、聞いてみたら」
口を離して、机に置いた。しかしそこから視線は動かない。なんだかどこかで見た光景だと思いつつも、じっと待ってみる。沈黙の空間は居心地が悪いかもしれないと、私から何か言おうとした時だ。
「俺は……っ、やっぱり、いい」
他の子に比べると、彼の声はやや低めでしっかりとしていた。発言には迷いがあるけど。
聞き返す前に柘榴がこちらを向いた。
「んん? 黒曜は先生に、ここで良かったのかって聞きたかったんじゃないの」
「どういうこと?」
「黒曜も先生のことは良い人だって思ってるみたい。でもそんな良い先生がこんな場所で、自分達の為に生きていていいのかって。まぁそんな重い感じじゃあないんだけど。単純に不思議みたいよ、先生がここにいるのが。ね、黒曜」
黙り込んでしまった彼は、発言する気がないようだ。
「今は普通の人間に見えるかもしれないけど、私はここ以外では生きられないんだ。犯罪を起こしたとかそういう訳ではないけれど……もうあっちの世界では何もしたくなくて……何もできなくて。私はここで皆に会えた今が一番幸せで、君達の為なら何でもしようと思う。感謝しているんだ。もちろん黒曜、君にもね」
一瞬歪めた黒曜の表情は明るいものではなかった。あまり深く知りもせず、耳馴染みの良い言葉を使ったのが、軽く聞こえてしまっただろうか。
「……ね、信じられそうでしょ先生のこと。伝えてごらん。もう一個言ってたこと」
楽しそうな柘榴に対して、彼の顔は晴れないままだ。止めた方がいいのかと様子を見ていたら、数秒だけ目が合った。
「……俺は、どう……です、か」
無理やり絞ったような声で言ったのはこんなことだった。皆は思っていたよりも、個人評価を気にしているのだろうか。
成績表みたいなものがあった方がモチベーションが上がるというなら、検討してみてもいいかもしれない。
勉強の面だけでなく、日々の生活での評価も……いや、それは私がきちんと一人一人に伝えれば解決するだろう。良かったところや頑張ったところは、もっと伝えにいくべきかもしれない。ただやりすぎたら逆効果だろうか。私が鬱陶しくなるかもしれない。
いや、今はそんなことを考えるよりも、黒曜の顔が晴れない理由を探すべきだ。評価が不安なだけ、なのだろうか。
「黒曜は忘れないようにって、沢山練習してくれているよね。手が痛くなっていないか心配だけど、そういう頑張り屋なところはとても凄いと思っているよ。勉強面以外だったら……そうだな。話しづらいことがあったら手紙か何かをくれると嬉しいかな。黒曜の気持ちを教えてほしい」
「分かり……まし、た」
そこで話は終わりだと立ち上がった黒曜を、柘榴は特に止めなかった。まだ椅子に座ったまま、カップを撫でている。
彼が一人で去ってしまった後も、そこに残っていた。一緒に帰らなくていいのかと、思わず彼を見つめる。
「ふふ……先生は優しいなぁ。みんなに……優しいなあ」
「……そう、かな」
「自信がないの? 大丈夫だよ。優しい人だって認めてないと、黒曜は声を出すことすらしないから。久しぶりに私達以外と話すのを聞いたよ」
そっかと思わず素で答えると、くすっと笑った。それから先ほどまで黒曜のいた椅子、私の対面に移動した。ぶらりと動かした足の先が僅かに当たる。それに気がつくと、靴を脱いで更に足を動かした。戯れるように当たるだけで、痛くはないが意味がよく分からなくて、そのまま動けないでいた。意味なんてないのかもしれないけど。
「……先生の足は、どれぐらい?」
遠回しに、こちらにも脱げと言っているようだ。こんな場面想像もしていなかった。何となく気恥ずかしいが、別に断らなくてはいけない理由もない。オリーブ色の靴下の横に、白い靴下が並ぶ。こうして見ると、彼の小ささがよく分かった。
「まだまだ追いつけないけど……私はあんまり大きくなりたくないなぁ」
「そうなの?」
柘榴はこのまま美しく育っていくだろう。髪を伸ばし続けるのかは分からないが、もしそのままなら誰をも魅了するプリンセスのように、少女が憧れるような存在になりそうだ。髪を短くしてもきっと似合う。
その頃は誰かと、柘榴に似合うような少女と手を取り合ったりするのだろうか。ふと想像して、イメージが途絶えた。具体的にそれは何年後だ? 彼らはここから出て、普通の生活に戻るのか? では自分はそのとき……? 成長した姿はなんとなく思い描けるのに、何をやっているのかという未来が見えないのは、自分自身の問題だろう。置いていかれる前に、消えれば幸せかもしれない。その美しい手で殺してくれたら、それが理想かもしれない。
ただの暇を持て余した行為だ。柘榴は何も考えていないはずで、私が仄暗い未来を想像しているなんて、ちっとも思ってはいないだろう。そんなものは自分勝手だったと、彼の目を見つめる。今はただ目の前のものだけを考えていよう。
ぞわりと背筋がなぞられるような感覚が走った。下を見ると、柘榴のつま先が足に触れていた。そのまま重なってから、軽く滑らせる。くすぐったいような、妙な感覚だ。彼がこちらを見たのをなんとなく感じたが、視線を上には戻せなかった。
「じゃあ私もそろそろ帰ろうかなぁ。ごちそうさま」
コツコツと彼の足音が聞こえなくなるまで耳を立てていたことに気がついて、誰かに言い訳をするように立ち上がった。こんなほんの少しの戯れに意識を削がれて、自分を保てなくなるなんて。
この場所がそうさせるのか、元々そうなのかは分からない。分かるのは、私は彼らに染まり始めているということだ。体の細胞全てが染め尽くされた、その時の私はどんな色だろう。
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