12

柘榴♢月長

紅玉があの日から少し変わった。他の人は恐らく気がついていないけど。

森の中にある水が溜まった場所。その辺りに紅玉は穴を掘っていた。大きめの石を探して、穴の中を殴るように掘る。彼の顔は無表情だ。そこへ月長が来た。私はそっと身を隠す。

「なにしてるの?」

ちょっぴり怯えた声で紅玉に近づく。紅玉は優しい顔を彼に向けた。

「実験だよ。仲間が痛めつけられていたら、もう一方はどんな反応をするのかなって」

「えっ……」

月長は穴を覗き込んで絶句した。そこには虫が二匹。一匹は羽を毟られ、もう一匹は上から石を置かれていた。羽を必死に動かしているが、重くて飛べないようだ。

「……どうしてこんなこと」

「助けようとしてるのかな、それとも早く逃げたいのかな。どっちだと思う?」

可哀想な月長。優しい彼はその可愛い顔を、今にも泣きそうに歪ませている。紅玉は初めから答えなんて聞く気もなかったようで、立ち上がると二匹いっぺんに踏み潰した。靴が汚れるのが嫌なのか、石を乗せた上で。

「……飽きちゃった。もっと面白いものを探しに行こうかな。君は?」

青ざめた月長は反射的に首を横に振った。私は紅玉がいなくなったのを見計らって、そっと今来たように近寄る。驚かせてしまったけど、次にはまた悲しそうな顔に戻った。

「どうしたの、月長」

頭を撫でて、流れ始めた涙を拭ってあげる。

「……紅玉は、優しい人だった。僕が捕まえられなかった蝶を捕まえてくれて。虫かごも用意して、綺麗だねって言ってくれた。死んじゃった時には一緒にお墓も作ってくれたのに……なんでこんなこと、したのかな」

肩を抱いて、胸に顔を近づけさせた。そこにしがみついて泣いている彼の頭を撫で続ける。

「僕、怖くなっちゃったんだ。僕も紅玉にいらないって言われちゃうのかな。僕何にもできなくて、君にも迷惑かけてばかりで。弱いから……」

「月長……。紅玉はちょっと……悲しいことがあって。紅玉自身も辛いのかもしれない。でも大丈夫。月長のことを嫌いになるなんてことはないよ。月長は優しいから、小さな命でも平等に扱ってしまうんだね。もちろん虫たちにも寿命はある。私達より早く、脆く。でもその代わりサイクルも早い。私達は頑丈な分、長い。そのどちらが幸せなのか、それは分からない。彼らの幸せがどちらかは分からないんだよ。まぁ痛めつけるのは良くないと思うけど。紅玉はきっとこれからも……守るべきものの為なら、弱い犠牲は仕方ないとすることもあるかもしれない。虫が可哀想だから、あの頃のように一緒にお墓を作ろうと言ってあげることは簡単だよ。でもね、月長。私達は成長している。いちいち死に逝く全ての命を弔う訳にはいかない。死を一つ一つ憐れんでも、その魂が救われるかなんて私達が知る術はないから」

一息ついて、顔を上げた彼に向き合う。服は既に濡れていたけど、ハンカチを差し出した。

「私はこれ以上、月長の心を痛めるものを増やしたくない。傷つくのを見たくない。そんなに優しくならないで。時に優しすぎるのは罪になるよ。私がいないとき、守れなくなったときのことを思ったら……怖い。でも月長、貴方のその性格を私は愛している。分かりにくい言い方でごめんね。今は、そうだな……小さな命を大事にする前に、自分を大事にして。傷を増やさないで。苦手なことがあれば私がやるから。……私は絶対に月長を傷つけることはしない。何があっても味方でいるから。私のことは信じていて……私が守るから。それを受け入れて、当たり前だと思ってくれていいんだよ」

「柘榴……っ」

暖かい。それがとても安心できた。私にとって月長は、私が私を信じられる唯一だ。綺麗な月長が私の側にいてくれる限りは、私はまだ綺麗でいられる。利用するとは、どこまでをいうのだろうか。私は彼に私を利用してほしい。私はとても彼を利用してしまっているから。愛? 罪悪感? そんな名前は必要なのか。私が彼を求めることに理由が必要なのか。どうしてそんなことを考えないといけない。これは私の脳なのに。誰かに染められた、汚された考えばかりがぎゅうぎゅうに詰まっている。私も綺麗だったら、月長みたいに透き通っていたら良かったのに。

「涙は止まった? 泣き続けるのも苦しいでしょ」

涙が止まるように、虫たちのことも過去になる。いつか忘れる、だから気にするなとは言い出せなかった。良い言葉ではないと分かっているからだ。誰にとっての正解かは知らないが、少なくとも今の月長に伝える相応しい言葉ではない。

「帰ろっか。ココアを作ってあげるね。それからあの本を一緒に読もう」

月長のお気に入りの本は、彼そのものだった。今の私達にとっては少々幼稚な内容かもしれない。でも最初から最後まで優しい物語は、この数ページの絵本の中にしかなかった。厚い本の中身は醜い人間の感情が渦巻き、月長は心を痛めてしまいそうだ。本の中の動物や生き物たちはみんな仲良く、一緒の森で暮らしている。誰かがお腹を空かせていたら、当たり前のように自分が持っていた果物を相手にあげて、渡され方はまた、誰かが困っていたら助けてあげる。どの生き物もにこにこの笑顔だった。読み終わった時にどうしてみんな笑っていないの? と月長が聞いてきた。もしこの世界の物がもっと少なかったら、争うことはなかったのだろうか。物の数は関係なくて、思いやりの心があればにっこりしていたのだろうか。いくら考えても世界の全員が笑っている場面など想像できなかった。私達の世界ではこうならない。どうして? 難しいから。どうして難しいの? 問題が沢山ありすぎるから。誰かが助けてくれないの? みんな自分だけで精一杯なんだって。その数秒後、黙ってから頷いた。

「オヤツをあげたら喜ぶかなぁ。僕誰かが笑ってくれるなら、あげてもいいよ」

月長の頭を撫でて、首を振った。もし誰かに何かを分けたとしても、必ず笑顔が帰ってくるとは限らない。貰うのは当たり前だと、奪い取って走り去る人がいるかもしれない。笑顔で受け取っても、また貰う為に笑いかけているのかもしれない。馬鹿にしているのかと怒る人もいる。申し訳ないと畏る人もいる。実際に試したら、もっと酷い人もいるかもしれない。

「月長の言ってることは、多くの人ができなくなっちゃったことなんだ。本当は凄く難しいことなの。今は簡単に思えるかもしれないけど。例えばクッキーを初めて会う子供にあげたとする。その子がクッキーを食べたことのない子だったらどうなると思う? 最初は食べ物だって気づけないかもしれない。食べても甘いものが嫌いかもしれない。美味しいと食べても、実は甘いものを食べてはいけない子だったのかもしれない。……可能性がありすぎるの。世界の広さ以上に、そういう細かい可能性が一人一人に存在している。良いと思ったことが、必ず良い事とは限らなくなっちゃうんだ」

必死に言葉を理解しようとしてくれている小さな手を握る。柔らかな金髪を手で梳くと、落ち着くのは自分の方だった。

「その優しさは月長の素敵なところだよ。でも優しさを持っている人は少ない。だから狙いに来る。宝物は誰かに盗まれちゃうでしょ? これからは優しさを隠して守らなきゃ。私と一緒に悪い人に盗られないように、守っていこう」

ね? と呼びかけると、小さく頷いた。この時はまだ彼も強さを持っていて、正しいのはどちらか分かっていながらも、自分の意思を曲げなかった。

きっとそうするのだろうと思ったら案の定、彼はベッドから抜けてコソコソと外へ出て行った。ぼんやりとした火だけで、今にも泣きそうになりながら森の中を歩き出す。今度は遠目の場所から名前を呼んだ。彼が逃げ出す前に近づく。

「なんで……っ」

「月長がここに来ることは、なんとなく分かってたよ」

薄暗い中でも腕が土まみれなのが見えた。おそらくパジャマも汚れてしまっているだろう。

「お墓を作りに来たんだよね」

バツが悪そうに顔を背けた後、ごめんなさいと謝った。

「柘榴に言われたのに……僕、どうしても作ってあげなくちゃって」

はぁと小さなため息を吐いて腕を捲る。月長は驚いたようにこちらを見つめていた。

「二人でやった方が早いでしょ。ほら、少しここから離れた場所にしよう」

「どうして?」

「私は怒っているんじゃないよ。月長のことはよく知っている……だから忘れられないんだって分かってた。誰にも見つからないように夜に抜け出して行くんだって、そんなことはお見通し。あ、でもちょっと怒ってるかな」

また泣きそうな顔になったので笑ってしまった。どこまでも素直な子だ。

「まず一つ目、夜の森なんて危ないのにそんな小さなロウソク一本だけで来たこと。二つ目は私に相談しなかったこと、ついでに怒られると思って私にバレないようにしていたこと。そして三つ目」

泥だらけの手で、同じく汚れた手を握った。

「素手で掘ったら怪我しちゃうよ。ベッドから出ることに集中して、焦ってここに来てからのことを考えてなかったでしょ。はい、これからはどうするの?」

「……柘榴に、相談する」

「うん、約束だからね。分かった? 約束破ったら……寝るとき一人になっちゃうかもよ」

「や、やだっ」

小指を絡めて月明かりに照らされた顔を見合わせる。約束だと、もう一度念を押して言っておいた。

「さ、早くやっちゃおう。寝る時間がなくなるよ」

「……うん!」

恐らく紅玉には分からない場所に虫達は埋められた。やっぱりこの行為に意味があるとは思えないが、満足そうな月長を見ているだけで、その他はどうでも良かった。

シャワーと着替えを済ませてやっとベッドまで戻ると、安心したように横になった。疲れたのか、もう眠そうだ。

「おやすみ、月長」

「うん……ありがとう柘榴」

月長は今も、こんなに安堵した顔で眠れているだろうか。ふとそんな心配をして、眠れなくなる時がある。別に部屋を変えても大丈夫だろうけど、この荷物を隣の部屋に持っていく手間を考えるとなかなか大変だ。それに、今はこんな風に私を純粋な目で見てはくれない。いつからだろう。彼を追い詰めたのは。彼が誰かに優しくしようとし過ぎて、何もかもを考え過ぎて、極度の心配性になってしまったのは。吃るのも、相手を傷つける言葉を言わないようにと慎重になりすぎての事だ。主張をしなければ、誰かを不快にさせることもない。私のせい? 私が月長を追い詰めてしまったの?

あの時のように、二人で笑って過ごしたい。月長は間違いなく満点だ。優しすぎるところも含めて。減点なんてできない。私にとって一番大事で一番可愛い子。私を嫌いになっていなかったら……いいな。

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