「あらぁ、おはよ先生」

昨日と比べて、空気は断然和やかだった。陽の光が教室内に入り、明るいということも関係しているのだろう。カーテンは全開になっていて、どんよりとした雲もどこかへ行っている。これなら大丈夫だ。安堵の息を吐き、プリントを取り出す。

「今日はまず各々がどこまで理解しているか、どのレベルまでの問題が解けるのかを知る為に、テストをしたいと思います。あくまで確認なので、解けない問題があれば飛ばしてもいいし、途中まで解いて次の問題にいっても構いません。その場合書いたものは消さないで、そのままにしておいてください。時間は一応、一時間程度にしておきます。終わった人から手を上げてください。残りは休憩時間にします」

教壇を降りて、一人一人に手渡していく。自然に配ったつもりだが、僅かに手元が震えていた。

「問題は全員違うので、解く時間も変わってくると思います。焦らないで、できそうなものだけで大丈夫です。何かあればその時も手を上げて呼んでください」

何人かは筆箱を持っていなかったので、筆記用具を用意するところからだったが、テストが始まると意外にも真面目に解き始めた。瑠璃には説明が必要そうだったので、小声で近寄る。目線を合わせて色鉛筆を手渡した。

「これをここに塗っていくんだけど、できそうかな?」

決められた色を花びらに塗っていくという問題だ。正直彼らの今までの成績は知らないので、もしかしたら読み書きができない段階の可能性もあった。特に反応は返さなかったが小さい手で色鉛筆を持つと、きちんと指定された場所に同じ色を塗ることができた。これは心配なさそうだと紙から目を上げた時、ばっちりと視線が合ってしまった。どこかうずうずしているように見えて、思わず頰が緩む。

「うん、正解。大丈夫そうだね。もし分からないものがあったら、いつでも呼んでいいよ」

今度はこくんと頷いた。それから興味を持ったのか、次々と色を塗っていく。つい微笑ましく見守ってしまうと、隣からくすくす笑う声が聞こえた。

「ふふ、親子みたい。良かったわねぇ瑠璃ちゃん」

少し恥ずかしくなったが、後ろを振り返ると灰蓮が声を出さずに『ありがとう』と口を動かしてくれた。不意に目頭が熱くなったがぐっと堪えて、頷きを返す。それから翠の落とした消しゴムを拾ったり、やたらと蘭晶に質問されたり、問題用紙が計算式でぐちゃぐちゃになっていた月長にメモ用紙を用意してあげたりと、そんな感じで特に大きな問題もなく終わった。あくまで出来る範囲を知るためのテストだったが、安堵のため息を漏らしている者もいれば、腕を伸ばして体をほぐす生徒もいた。思っていたより緊張させてしまったのかもしれない。そもそも彼らは、ここ数ヶ月まともに鉛筆を持つ環境ですらなかった。

お疲れ様と声をかけて、彼らの休憩時間をとった。一度教室から出て、外の空気を吸い込む。私は上手くやれただろうか。ふと先ほどの瑠璃や灰蓮の顔が浮かんだ。あれが演技だとしたら人間不信になってしまうほど自然だった気がするが……。彼らの真意を知られる日はまだ遠いだろうか。

振り返ると、また前の四人は固まって談笑を交わしている。テストの内容についてでも話しているのだろうか。こんな光景はいくつも見てきた。それは自分自身の学生時代でも、教師時代でも……。平和なクラス。普通のクラス。全員が仲良くなれるクラスなど存在するのだろうか。例えば行事で他のクラスに負けたとしても団結はしたままで、それなりに楽しく過ごせたと思える一年。そんなものはどうすれば与えることができたのだろう。笑い声や、こちらを見る瞳は意識せずともフラッシュバックした。彼らの前に立った時、自分は消滅してしまったのではないかと感じるほどの孤独感。私は彼らに見えていないのだろうか、私の声は消えてしまったのだろうか。届かない声を張り上げて、見えない壁で区切られた向こう側を見続けていたのに私は駄目だった。世界が壊れた。私を認識する者がいなくなった。

とんとんと肩を叩かれて正気に戻る。閉じ込めたい記憶なのに、やはりこの場所にいる以上それは難しいらしい。顔を意識して作ってから振り返ると、紅玉が立っていた。

「お疲れ様です先生。あれを作るのは結構な手間だったのではないですか」

軽やかで透き通っている、そんな声色だった。薄く微笑んだ顔は彼の一番得意な表情なのだろうか。昨日からこの顔しか見ていない気がする。単純に、私に隙を見せない為に気をつけているのか、それともこれが素なのか。どちらにしても、その皮膚の下の彼自身を知りたいという欲求が僅かに芽生えた。

「まぁ大変……ではあったけど、ああいう作業は苦ではないんだ。それより、みんなが手をつけてくれてよかった。……あ、君たちが不真面目な生徒だとかそう思っていた訳ではなくて」

慌てて付け加えると、僅かに口角が上がった。気を使ってくれただけかもしれないが。

「そう思われても仕方ありませんよ。僕たちがここのところ勉強なんてしていなかったのは確かですし。しかもテストだけではないのでしょう? あんな量の紙、初めて見ました。代表してお礼を言っておきます」

こんなに美しい笑顔を初めて見た、と思うほど紅玉のそれは計算され尽くしていると感じた。当人はきっと意識していないのだろうが、どこか違和感があった。まるでそれをやり慣れているかのような。

ただがむしゃらに動いていただけだからと言い返すのを止めた。褒められることに後ろめたさを感じる。良いのだろうか、こんなことで褒められても。自分が生徒にお礼を言われても。

久々すぎて返事が分からず「いや、いいんだよ」なんて曖昧な調子で答えていた。目も合わせられないなんて情けない。しかし単純に嬉しいと喜んでいる自分も確かに存在していた。

「でも先生。今日はちゃんとお休みになってくださいね。そわそわして落ち着かない小さい子を寝かしつけるのに苦労しましたから」

くすくすと笑って教室の方を見た。こちらの会話が気になるのか、何人かが時折振り返っている。その視線がただの好奇心なのか、悪意を持ったものなのかは分からない。

「ああ、今日は帰らせてもらうよ。そっちに」

私はやっぱり、面白みのない答えを返すことしかできなかった。



♢蛇紋♢

忘れ物をしたとあの人が去っていった教室内は、思っていたより空気が変わらなかった。昨日に比べて、受け入れられているのを感じる。

テストが終わった後、プリントの束を手渡された。これも一人一人内容が違うらしい。綺麗に綴じられたそれを試しに開いてみると、コピーされた教科書や問題集、そこに手書きで追加の説明まで書いてあった。一般的に正解率の悪い問題にはマークが有り、そこに丁寧な字で注意点を付け加えていた。几帳面、生真面目、そんな言葉がぴったりの人だと思う。自分も多少は真面目だと思われていたが、そんなハードルは簡単に飛び越えられてしまった。これに手をつけるべきかと教室内……彼の方を気にしていると、前の方から声が上がった。

「最初は優しいフリをしているだけなんだ」

また翠か。それは憎しみを込めた、でも震えて怖がっているようにも聞こえる声だ。気が小さいくせに、皮肉だけははっきり言うようになった。

「まだ気を許しちゃダメだ。こんな風に甘い顔をして騙すなんて詐欺の手口なんだから」

つい視線は彼を――紅玉を追ってしまう。いつも通りただ微笑を浮かべているだけだった。どちらでもない、強いて言えばあの先生のことは好意的に見ている、こんな感じだろう。じゃあ自分も反対することはない。

視線を戻して、鉛筆を手に取った。先ほどのテスト内容は随分と広範囲だった。一般常識で知っていなければならないレベルから、全く見たことのないものまで。それにしても自分達の分を全てだなんて、一体何時間で作ったんだろう。何故か紅玉に対する気持ちまで負けたような気がして一瞬不愉快なものが胸を過ぎる。彼が俺のことなど見向きもしなくなったら……。頭を切り替えろ。落ち着け、これは全員分だ。全員公平だ。俺まで。そうだ、こんな俺にまで。だったら受け入れられるのも正当な理由か。だってこんなものまで作ってくれた。ただでさえ体調が良くなさそうな顔を一層暗くしていたから、睡眠も碌に取っていないのだろう。つまらない嫉妬なんかしていたら嫌われてしまう。心を大らかにして感謝しなければならない。そんな人間の方が彼も好きなはずだ。だって彼は美しいから。

そうして解きやすい自分専用の問題集を、次々に進めていった。

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