《うさぎの眼帯》

私は彼にどうしてと訪ねた。

すると彼は、その質問の意味が分からないと言った。

しばらく私が、少なくともこの年に近づくまでは聞いていたと思う。でもそのたびにお前は何も気に病むことはない、ただそのまま……それでいてくれたらいいんだと彼は嬉しそうに、時折泣きそうに答える。

私は根本的に、彼とは造り方が違うんだなと思った。

そう考えると楽で、私はどんどんと空っぽになっていった。

彼のことで埋まっていた心が流れていく。

そうしたら空っぽになってしまった。

一時は必要だから入れてみる。でもそれは心に入る前に跳ね返されてしまう。

柔らかいクラゲのような心なのに、その中には誰も何も入れないし、近寄ってきても、ぐにゃりと形を変えてしまう。

その奥の方で小さく小さく残っている僅かな感情は、この暗い部屋いる自分と同じような気がした。

涙は出ないけど目が赤くなるから、もう見なくていいように塞がれる。



《煉獄喫茶 わら人形》

偶然にも話したいと思っていた彼がすでに来ていて、あちらもあっと小声で気づいてから、軽く会釈を交わした。

「こ、こんにちは」

「どうも」

隣に座ると、早速というように彼は聞いてきた。

「こないだあそこに入ったんですよね! うわーいいなぁ……で、どうでしたか?」

「うん。良かったよ。紅ちゃんは相変わらずだったけどね」

「はは……それで、何したんですか?」

「それはまなぶくんのときの為に、楽しみはとっておいたら?」

えぇーとあからさまに残念そうな顔をするので、笑ってしまった。

「まぁ、みきちゃんとはすることも違うと思うけどね。紅ちゃんとはテレビゲームをやったよ」

「ゲームですかー。楽しそうですね」

「私は下手くそだからねぇ……学くんはゲームとかやるの?」

「あー、自分は割とやる方ですかねー。上手さは分かりませんけど」

「そういえば学くんはどのくらい貯まったの?」

そう聞くと、取り出したカードは八枚になっていた。

「もうこんなに増えたの? ちょっと詰めすぎじゃない?」

「はは……まーちょいキツいですけど、他の物を削ればなんとか」

「……あまり無理はよくないよ。良かったら今日は一緒に食べてくれない? 最近あまり重い物は食べられなくてね……年のせいかな。食べてくれると嬉しいんだけど」

「ええっ! いや申し訳ないですよ」

「いいよ、遠慮しないで。ポイントは君の方につけてもらうから。あ、みきちゃんこれ頼むね」

「えーほんまにー? 分かった! 気合い入れて作りんだよーっ」

「ふふ、よろしくね」

「ありがとうございます…… すみません」

「いいんだよ。私もこうして話せる人ができて楽しいから」

「本当に昭悟しょうごさんにはかなわないなぁ……。あ、お礼にはならないかもしれないんですけど、これって知ってます?」

手に持った携帯の画面には黒っぽい背景の上に、ここの店の名前が書かれていた。

「やっとサイトを作ったらしいんですけどね。まずここに登録しないと見られないんですよ。ほら、まだ少ないですけどブログ……えっと、日記みたいなのとか」

それは初めて見るページだった。みきちゃんがお決まりの格好に、ダブルピースしたポーズで写真を載せている。『今日も一日がんばるにゃ(`ω´)!』というコメントもついていた。

「へぇ……色んな人と交流ができるって奴かな」

類似のものは聞いたことがあるが、そういうものはさっぱりだ。

「良かったら登録しませんか? あ、俺で良かったらネット上でも会話とかできますし」

「……うん、教えてもらおうかな。でも私にもできるかなぁ」

「覚えちゃえば簡単ですよ。俺から招待ページを送りますね……」

若い人に囲まれていると、気分まで若返っていくようだ。もちろんそれは錯覚に過ぎないのだけれど、自分から少し息苦しい、中毒性のある昂りが溢れてくるのを抑えられなかった。



春昭の家の近くだというコンビニで待ち合わせをする。何か飲み物でも買って行った方がいいかと、棚を凝視していた。

「うーん……」

ペットボトルだと大きいかな? 三人分だし……。春昭も妹さんもオシャレだから、紅茶のほうがいいかな。無難に紙パックの……。

「ひゃわぁっ」

ぴたっと頬につけられた冷たい感触で、飛び上がるように驚いてしまった。睨むように振り返ると、案の定ニヤニヤ笑った春昭が立っている。手には今持っていたペットボトルが握られていた。

「お待たせー碧」

「もう普通に来てってば……あ、これ買っていった方がいい?」

「ん? だから碧はそんな気を使わないでいいって。飲みたいならいいけど、お茶ぐらいなら家にあるしね」

「だったらお菓子は?」

「もー俺がちゃんと準備しといたから大丈夫。店には悪いけど、行こっか」

「う、うん」

鼻歌混じりに腕を引っ張られた。最近の春昭はなんかずっとご機嫌な気がする。

辺り一体は同じ時期に作られたのか、外見が似ていた。綺麗な住宅街だ。春昭の家もその内の一つにある。

「はい碧、入って入ってー」

「うん。お邪魔します」

入った瞬間に甘い匂いが漂った。なんだろう玄関に置いてある消臭剤かな?

「わぁ……綺麗だね」

やっぱり新しい建物なのか、隅々までぴかぴかだ。

「よく見ると傷とか付いてるかもしれないし、あんまりじろじろ見ないで。なんか恥ずい」

「はははっ……あれ?」

玄関から真っ先に目に入る扉を開けると、リビングになっていて、そこの奥はキッチンになっていた。そこに誰か立っている。

「雪乃。碧来たぞー」

「はいはーい。いらっしゃいましーぃ!」

ふんわりとした手触りの良さそうなパーカーと、ショートパンツは部屋着だろうか。家にいる格好としてはかなりオシャレだ。それに二つ結びをしているのに、大人っぽく見えるのは……。

「きゃあ! ちっちゃい! 可愛いぃー! お兄ちゃんには、ほんまもったいないないなー」

「えっ……あ、初めまして……」

……僕より背が高いからだろうか。ぶんぶんと握手された手が痛い。

「こらっ離れろバカ。お前が握ってたら碧が潰れるだろ」

「何それ失礼なんですけどぉー」

兄弟ってこんなものなんだなと圧倒される。

「ごめん碧。あー、とりあえず俺の部屋行くか」

「お兄ちゃんの部屋汚いから、反対に一票であります!」

「碧、こっち」

「あ……」

「ちょっと碧たん待ってって! もーバカ兄貴、これでいいのー?」

「そこにまとめて置いてあるだろ。それ持ってこい」

つんと言い放つと部屋を出た。

「は、春昭……任せちゃっていいの?」

「いいんだよ。それより……」

くるりと振り返って、じっと僕の顔を見つめた。

「なに?」

「いや……碧がいるの、変な感じだなーって」

それだけ言うと、また鼻歌を鳴らしながら階段を上がった。気分が悪いわけじゃなさそうだから、さっきのは日常茶飯事なんだと思うと、少しおかしかった。

春昭の部屋は僕の部屋に比べて広かった。思ってたよりお金持ちだったんだなぁ……。

「ほらー開けろーバカ兄」

扉の向こうから声がかかった。トントンと叩く音は多分足で蹴っている。

春昭が慣れた様子で開けてから何か呟き、そのまま出て行った。トイレにでも行くことを伝えたのだろうか。

「これ、どーぞー」

「あっ、ありがとう……」

女の子に慣れていないとはいえ、目線すら合わせられないのが情けない。しかも二人きりなんて随分久々だ。ふと視線を感じて顔を上げると、先ほどの春昭と同じようにこちらを見ていた。

こうして見ると二人は結構似ている。年が近いからかな。

「お兄ちゃんと同い年なら、やっぱタメはアレですよねぇー。あっ! 碧兄とか呼んでもいいですかー?」

にっこりとクッキーを勧めながら笑った。

「うん……何でも大丈夫だよ。えっと、雪乃ちゃんだよね?」

「はい。雪乃のこともお好きにどーぞ。あっ、それ今焼きあがったばっかだから熱いかも。ふふー、でも自信作ですよ」

「わざわざ作ってくれたの? ……じゃあいただきます」

「ふふふ、どうですかー」

「うん、美味しいよ。お店のみたい」

「きゃー碧兄優しいー。えへへっ……あっ! そうだ。いきなりなんですけどぉ、私とお兄ちゃんって似てますー?」

「ん? そうだね……顔は似てるけど、その格好じゃ初対面では兄弟って気づかないかも」

「ほほーなるほどー。あ、お兄お帰りー」

「何、話してたんだ?」

「内緒〜」

こてんと首を傾げてから、小さくウィンクをする。細かい仕草一つにもこだわりがあるみたいで、実際会うと写真以上にアイドルのような女の子だ。

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