弘徽殿の女御

真夜中 緒

第1話皇太后御所の八重の語る

 桐壺の故院の頃の弘徽殿女御様、ですか。

 朱雀院の御母君でいらっしゃる、皇太后様の事ですよね。ええ、もちろん存じております。私がお仕えする主でいらっしゃいますもの。皆、怖い方だと言っています。特に私のような若い者は。

 声を荒らげられたり、睨みつけられたりするわけじゃあないんですけれど、なんというか、威がおありになるんですよね。

 それに誰でも知っているあの噂。あれも皇太后様が怖がられる理由になっているのだと思います。

 なんでも、皇太后様がまだ桐壺の故院の女御でいらした頃に、故院のご寵愛の深かった更衣をいじめ殺してしまわれたとか。その更衣が源氏大臣の母君でいらっしゃるのですって。本当でしょうか。

 よくわからないのですけれど、私には皇太后様がそんなことをなさる方とは思えないんです。

 だってね、打ち橋や渡殿に閉じ込めたとか、廊下に汚いものをまかせたとか。なんだかひどく子供っぽくて安直なんですもの。こんなの皇太后様に似つかわしくありません。

 そりゃあ、後宮の争いなんて馬鹿げて安直なものなのかもしれません。源氏大臣の御母君がひどい嫌がらせを受けて亡くなられたってことも、多分本当なのでしょう。でも、皇太后様以外にそういう嫌がらせをする方がいたのじゃないかって思うんです。むしろ皇太后様にはそんな嫌がらせをする理由も、なかったのじゃないでしょうか。聞いた話なんですけど、桐壺の故院という方は、それはたくさんの女君を寵愛された方だったのだそうです。その数多の女君の中で一番に皇子を挙げられたもの、最も多くの御子を挙げられたのも皇太后様なんですよ。御後見のご実家の威勢も華々しく、源氏大臣のお生まれになった頃にはすでに、一の女御と称されておいでだったのですって。その皇太后様がいくら院のご寵愛があついにせよ、更衣ごときにわざわざ嫌がらせなどなさるでしょうか。

 そういう、意地の悪い方だっておられるとおっしゃるのですか。それはきっとそうなのでしょうね。私が前にお仕えしていたご老女には、確かにそんなところがおありでした。

 御衣装でも、御歌でも、自分を負かす朋輩はとにかくお気に召さないのです。特に若くて美しい女房で大人しい気性の方と見ると、ねちねちと纏わりつくようにいじめて。

 そんなに長くお仕えはしなかったんですよ。だって私がお仕えしてたった半年で亡くなられたのですもの。このご老女が皇太后様の姫宮である、桐壺院の女一宮にお仕えしておられたのがご縁で、私は皇太后様に召し出されたのでした。

 本当にもし皇太后様にお仕えできなければ私はどうなっていたかわかりません。

 だって、そもそも母が死んだので奉公にでたんですもの。帰るところと言っても父方の出家した叔母以外には頼るところもないのです。本当にこちらにお仕えできて助かりました。

 出家した叔母というのがまた、辛気臭いh人なんです。もともとはご老女と同じ女一宮様にお仕えしていた女房なんですけど、きっとぱっとしない女房だったのだと思います。だって姪を奉公に出すのに、もとの朋輩のところにしか押し込めなかったんですもの。それも性格が悪くて、奉公人の続かないような人のところしか。

 ああ、そうでした皇太后様のお話でしたね。

 私、すぐに話がそれちゃうんです。それでよくご老女にも叱られていたんでした。そんなにお喋りができるような主ってわけでもなかったんですけど。

 それで、皇太后様なんですけど、あれはご老女の最期の里下がりの日のことでした。ご老女は朝からひどいいびきで、いくら起こしてもお目覚めにならなかったんです。

 ぐおう、ぐおうって本当にすごいいびきで。

 もうだめなんだろうなって思いました。ご老女の朋輩衆もそう話しておられましたし、私なんかから見てもあまりに異常な感じでしたもの。

 宮中に穢れを持ち込まないために、ご老女を急いでお里下がりさせることになりました。

 その慌ただしい準備の中、ふと、皇太后様がご老女のお部屋においでになったのです。ご老女のお側についていたのは私一人でした。

 「様子を見に来ただけです。看取りをお続けなさい。

 慌てて平伏した私に皇太后様はそう仰せられると、ご老女の傍らにお座りあそばされました。

 「こうして見ると老いたこと。変わらず威勢が良いので今まで気づきませんでした。」

 近々と皇太后様をお見上げしたのはこの時が初めてです。それで私は少し、皇太后様に見とれていました。

 皇太后様が本当にお綺麗だったので。

 目鼻立ちは御娘の女一宮に似ておられました。けれども母君の皇太后様のほうが遥かに艶やかで、華やかで、紅の御衣おんぞがこの上もなくお似合いになって。

 「必ずしも私の心に添う形ではなかったけれど、一生懸命仕えてくれました。」

 ご老女の顔を覗き込みながらささやくように話しかけておられた皇太后様が、ふと私をご覧になられました。

 「そなた、名は?」

 「あの、こみの、と申します。」

 そのころ私はご老女にこみのと呼ばれておりました。私の出家した叔母の女房名が「美濃」でしたので、「小さな美濃」というわけです。

 「ああ、美濃の姪を預かっているとか申しておりましたね。そなたですか。」

 「はい。」

 緊張して、私は再び平伏しました。

 「少将も美濃も、元は私に仕えてくれていたのですよ。」

 少将、というのはご老女の女房名です。今まで言ってませんでしたけど。

 「叔母やご老女から聞かされております。」

 お答えすると、皇太后様が顔を上げるようにと促されました。

 「言われてみるとほんの少し、面影がありますね。あなたの方が叔母御まさりのご器量だけど。」

 皇太后様はそのまま視線を庭のほうにむけられました。

 暖かな春の、庭の若葉がきらめいて見えるような日でした。慌ただしく、御簾も上げたままになっていて、几帳を形ばかり立て回しただけだったので、庭がよく見えたのです。

 「八重の桜に、山吹も美しいこと。」

 皇太后様がおっしゃって、初めて私は八重桜や山吹がちらほらと丸い花を咲かせているのに気が付きました。本当に、どうして気が付かなかったのか。

 しばらくして皇太后様はお戻りになり、私はご老女と共に宮中を下がりましたが、途中の車中でご老女のいびきは絶え、お里についたときにはもう、完全に息絶えておいででした。いっそう慌ただしい弔いを終え、我が身の振り方を思いあぐねていたところ、皇太后様からのお召があったのです。

 どれだけ嬉しかったことか。

 私だけでなく、叔母もとてもよろこんでくれたのでした。

 それで改めて皇太后様のもとへ出仕したのです。

 出仕した日に皇太后様から見事な硯箱の御下賜がありました。蒔絵で八重桜と山吹を描いた、それは美しい品です。

 その硯箱にちなんで私は、八重と呼ばれるようになりました。

 ああ、それでどうして皇太后様が源氏大臣の母君をいじめ殺したのではないと思っているのかですか。

 だって、全然違うんですもの、ご老女と皇太后様は。

 ご老女がいかにもやりそうなせこせこした嫌がらせを、皇太后様がなさるところなんてまるで想像できません。

 人はわからないとおっしゃるんですか。

 そうかしら。

 そんなふうに言われると私みたいな若輩には、もう何も言えないんですけれど。

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