クアッド平野防衛線⑧

「──ハヤト君、そこをどくんじゃ」

 額の熱が限界に達する直前に、背後にやってきたクラウスの声でハヤトは振り返る。

「クラウスさん……アイカが、」

「あぁ、分かっておる。ワシに任せてくれ」

 クラウスは横たわるアイカを片膝を立てながら覗き込む。

 陶器の様に真白な肌になってしまったアイカの呼吸は浅い。

 消え入りそうな呼吸が限界が近い事を物語っていた。

「アイカ君」

「……く、らうす……さん?」

「そうじゃ。安心せい。直ぐに助けてやるから、ワシを信じて身を委ねてほしい。出来るか?」

 言葉を発するのが辛いのか、アイカは小さく首を縦に振った。

「ありがとう……君には本当に世話になった。君のこれからに幸多からんことを」

 クラウスは慈しむ様に優しい手つきでアイカの手を取る。

「クラウスさん……?」

「さぁ、目を閉じて。ゆっくり、ゆっくり呼吸をするんじゃ」

 クラウスの言う通りにアイカは目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 クラウスの右腕に宿った白い獣力が、繋いだ手を伝ってアイカの体を包み込む。

「こ、これは……⁉」

 驚くハヤト達の前で、アイカの体が僅かに浮き上がる。

「ロストの奴は霊獣を完全に扱う事が出来なかったから知らないじゃろうが、マイサの霊獣カルシスの我獣特性アビリティは厳密に言えば『透明化』ではないんじゃ」

 アイカの体を包む白い獣力から白鶴が現れ、アイカを見下ろす。

「霊獣カルシスの真の特性。それは全てを透き通る澄み切った力……『透過とうか』の力なんじゃ。任意の対象を透過させる。それは『毒』とて同じ」

 白鶴が両翼を広げる。

 白く透き通った獣力が一際強く光り、

 ばしゃ! と、アイカの下に濃紫の液体が飛び散った。

 濃紫の毒はジュウゥ、と緑草を一瞬で腐敗させて蒸発する。

 アイカの体から白い獣力の光が失われ、アイカの体はゆっくりと芝生の上に横たわった。

 その表情に苦痛はなく、穏やかな呼吸が聞こえてくる。

「これでもう大丈夫だ」

 立ち上がって振り返ったクラウスは、少し驚いた表情を浮かべる。

 振り返った先で、ハヤトが片膝を付いて深く首を垂れていた。

 それは霊獣士が王族や己の師などに向ける、最大の敬意を示す時に行われる作法だ。

「貴方の行いに最大の感謝と敬意を。クラウス・タトルゼン。本当に、ありがとうございます」

 深く頭を下げているハヤトの表情は心底安堵した様な、深い後悔に押し潰されそうな、複雑な表情をしていた。

「なに、これは妻の霊獣のお陰じゃ。礼を言うなら妻の霊獣にでも言ってやってくれ。じゃが……ワシも最後に君達の手伝いが出来て満足じゃ」

「……え? それはどういう」

「お、おい! ハヤト!」

 レインの驚いた声に顔を上げたハヤトは、そこで言葉の意味を理解する。

 見ると、クラウスの体から獣力が溢れ出していた。

 残り少ない、命そのものといえる獣力が。

「なんでだよ……ロストの檻は破壊したはずだ! ようやく呪縛から解放されたんじゃねぇのかよ! なんで獣力が消えてくんだよ……なんで、なんで死にそうになってんだよ‼」

 納得できないと首を振るレインに、クラウスは優しく微笑む。

「薄々分かってはいたんじゃ……奴に奪われた霊獣が解放されても、それはもう奪われた霊獣。奴を倒した所で戻ってくるものではない」

 霊獣とは即ち、魂の具現化。抜き取られた魂はその時点で培養された心臓の様に、ロストの檻という回路が切れた途端に停止する。

 つまり、解放と同時に霊獣を奪われた者もその役目を終える。

「……どうして、言ってくれなかったんですか」

「確証はなかった。もしかしたら、と甘い希望に縋っていたんじゃが、先の霊獣達が天に消えていくのを見て確信したんじゃよ」

「俺は、貴方に返しきれないものを貰った……なのに、」

 俯き、歯を食いしばるハヤトに、クラウスは首を横に振る。

 そんなことはない、と告げる様に。

「……少し、老人の思い出話に付き合ってくれるか」

 ハヤトは無言で頷き、クラウスの傍に向かう。レインもそれに続き、三人は顔を突き合わせて座り込む。

「ずっと、考えていた。なぜあの時、ワシだけ生き残ったのか。復讐だけに生きたこの二十年、思い返せば何もなかった。人との繋がりも、懐かしむ様な世界の情景も、何も。全てを流してきた。そんな老いぼれに残っていたのが復讐という目的だけ。実に詰まりの無い人生じゃった」

 じゃが、とクラウスは付け加え、空を見上げる。

 空はまだ暗いが、地平線の先が白んでいる。もうすぐ日の出だ。

「そんなワシに、光が射した。無邪気で、真面目で、慌てん坊な三つの光。それからの数日はまさに光の様に眩しい日々じゃった。ここで過ごした数日は、この二十年では決して太刀打ちできない充実した日々じゃった。そしてアイカ君が倒れた時、ワシはようやくこの命の意味を理解した」

 ハヤトとレインは黙ってクラウスの言葉に耳を傾け、頷いている。

「この時の為のワシじゃったんじゃ。あの時、全てを奪われて死ぬはずだったワシが生かされたのは、復讐だけじゃなかったんじゃ。ワシは妻と共に、また人を助ける事が出来たんじゃ」

「えぇ、貴方はアイカを救った。それは誰が何と言おうと貴方と、マイサさんのお陰だ」

 クラウスから出る獣力が、とうとう消えかかっていた。

 これが最後の言葉になると、全員が理解した。

「クラウスさん。貴方という霊獣士がいた事を、俺は忘れません」

 真っ直ぐにクラウスに言葉を投げかけるハヤト。

 しかし、レインは言葉が出なかった。

「爺さん……お、俺は……」

 言いたいことは、ある。なのに、言葉に出来ない。

 そんな風にレインは何度も口を開いては、歯噛みしていた。

「レインよ……ワシの様に後悔だけはするな」

「ッ!」

「お主が何を背負っているかは分からん。じゃが、後悔だけはするな。霊獣士は魂で戦う戦士。偽り続ける戦いはいずれ後悔を生む。周りに目を向けるんじゃ。そうすれば、きっと……」

「……ありがとう、爺さん。俺も、アンタの事は忘れねぇ」

 満足そうに微笑むクラウス。

 三人を照らす様に、光が差し込む。

 振り向けば、地平線の先から光が射していた。

「あぁ……永い夜が、やっと」

 安堵の息をつく様に、クラウスが呟く。

 ハヤトもレインも、夜明けの光をジッと見つめた。

 やがて、二人は静かに立ち上がる。

 そして、もう立ち上がらない戦友に向け、背筋を伸ばして右手を胸の前に掲げ、敬礼する。

 胡坐をかいて微笑む老人の姿を、日が照らす。

 明け始めた空に緑の獣力と白の獣力が、楽しそうにくるくると舞い上がって、消えていった。

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