非正規の死神と隣人の雷神、あと殺人鬼
玉椿 沢
第1話「殺人鬼の退屈」
速くなる呼吸は抑える。
しかし意識的に深く呼吸すればいいというものではない。口で呼吸しようとすると不自然に深くなってしまうし、口を乾燥させてしまう。
平常心だ。
それを保つ事が、何を置いても基本となる。
クリス・ルカーニアは壁を背にして、「フォルセ、フォルセ」と呟いていた。
その短い言葉を繰り返す事で、クリスは呼吸を整えていた。
壁を背にして屈んでいるのは座り込んでしまった訳ではない。
上体を低くし、いつでも飛び出せる態勢を作っているからだ。
目は一点を見つめているが、目に映るものだけでなく周囲全てに注意力を払っている。
「……」
その張り巡らせた集中力に、何かが触れた。
ゆっくりと持ち上げる手には、
巨大なランボーナイフだ。
しかも刃物として使用された形跡がある。
刃を見つめる男の目に光りが宿ったかと思うと――、
「つまらん!」
言葉と共に、ナイフが一閃される!
起き上がり
だが現実には恐るべき者を切り裂いていた。
「ああああ……」
甲高い声には強い違和感がある。悲鳴とも思えるが、叫んでいる訳ではない。
大音量の囁き――これを違和感なく受け入れられる者はいまい。
クリスも違和感はあった。
気にしないが。
「つまらねェ!」
その思いがクリスの違和感を塗りつぶしていた。
クリスがナイフを振るった相手は、半透明の身体で睨み返してくる。真っ当な生き物ではない。
亡霊、悪霊、怨霊――そういった方がいい存在だ。
実態のない存在に対し、ナイフがどれ程、効果的かと言えば
風にも溶けてしまう程、
ナイフの刀身は鉄製――鉄は
クリスは霊の身体を覆う場を、的確に両断する技量があった。
「ちったぁ、頭使え!」
悲鳴をあげながらも向かってくる霊に対し、クリスは眉間にナイフを突き立てたのだった。生きていた時と同じく、眉間と胸は霊になっても急所だ。思考を司る頭と、鼓動を司る胸を貫かれる事で、霊の身体を構成している場は消滅する。
拡散し、空気に溶けてしまう霊には、もう一瞥すらしない。
ナイフをシースに収め、天を仰ぐように視線を見上げさせる。
――飽きたな。
霊に狙われるのは初めてではなかった。最初の数度は数えていたが、もう数える気もない程。数えていた間は人間と違う相手だけに面白みもあったのだが、数えるのを止めた理由はつまらないと感じたからだ。
――あいつらは頭を使わない。壁をすり抜けられるのに、何故か廊下を歩きたがる。天井や床から現れる事があっても、絶対に部屋か廊下からだ。
クリスは人の動きならば読める。
――死んだくらいで俺より強くなれる訳ねェだろ。
そんなクリスを表す単語で最も簡単で分かり易いのは、「快楽的殺人者」――つまり殺人鬼だ。
決して短いとはいえない生涯で殺した人数は、二桁半ばに達している。
それら今まで殺してきた相手に比べ、霊はつまらなかった。
――人間はいい。助かるために必死で考える。その結果が、袋小路で俺に捕まる事になったとしても、死ぬ程、考えて行動する。
ベッドの下やクローゼットの中といった、見つかればお終いになる場所に隠れる者が殆どだが、それは死ぬ気で考えているとクリスは感じていた。
それに比べれば、立場が逆になったとでも考えているのか、霊は面白くない。何も考えずに廊下を歩き――足がないのだから歩くというのは適当ではないが――ドアや壁をすり抜けてくるだけだ。
反撃は容易く、返り討ちにするのも容易い。
「全く……誰だ? つまらん事をしやがって」
シースに収めたナイフをジャケットの下に隠しながら、クリスは部屋を出た。
***
霊は
虚とは「存在しない」を意味する言葉。
霊が生きている人間に害を加えようとする時、彼らは動く。
冥府の役人、死神だ。
特に、こう言う厄介な事案に対して、常に呼ばれる男がいる。
非正規の死神――名を
――お前、年休は20日余してから取れ!
午後から4時間年次有給休暇を申請した八頭は、まず管理職から、そんな怒声をぶつけられた。非正規の死神としての仕事は唐突で、対応するには有休を取るしかない八頭は、年に20日支給され、最大40日溜まる有給休暇を40日まで貯められた事はない。
それに耐えて帰路に就いた八頭を出迎えたのは、アパートから走ってくる同居人の悲鳴だった。
自転車に乗っている八頭へ向かって走ってくる同居人は、見事な
「八頭さーん! 助けてー!」
明確な言葉を発する同居人は、ウサギではない。
雷獣と呼ばれる存在である。
その雷獣は――危機的状況に
「は……?」
思わず足を止めてしまう八頭が見たのは、同居人・アズマを追いかけてくる、テンションが上がってしまった様子のコーギーだった。
アズマはやっと八頭を見つけたと安堵の表情を浮かべるが、そこで逃げる足を緩めてしまったものだから、コーギーに追い付かれる。
「はーん!」
コーギーは甲高く鳴くと、捕まえたアズマに鼻を擦りつけ、なめ回す。
「遊んでほしいんだろ」
可愛いもんじゃないかと手を伸ばす八頭は、アズマからコーギーを引き離す訳ではなく、ポンポンと二人の頭を撫でた。
「えー……」
追い掛けられて怖い思いをした、とアズマは
「
コーギーの飼い主だろうか、ショートボブの小柄な女性が小走りにやってきたからだ。
「あ、すみません。お宅のうさちゃん? うちの子が……」
コーギーを抱きかかえてアズマと引き離した女性は、慌てた様子で何度も頭を下げる。
「いえ、大丈夫です。何故かこいつ、動物に好かれるタチらしくて」
いつもの事だという八頭の言葉は、ウソではない。アズマは動物に好かれる。テンションの高い仔犬となれば、追い掛けられる事など日常茶飯事といっていい。
「本当にすみません。うさちゃん、怖かったでしょ? ごめんなさい」
女性はアズマの方にも頭を下げ、何度も謝りながらコーギーを連れていった。
「ペットと飼い主って似るっていうけど、そんな風だな」
八頭が笑う。女性は小柄――八頭の身長が177センチである事を差し引いても、頭一つ分も低い――で、コーギーの仔犬も、アズマと同じくらいしかなく、共に活発そうな印象を受けた。
笑顔は、これから「嫌な話」をしなければならない気持ちを、少しだけ軽くしてくれた。
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