春待青は春を待っている

綾坂キョウ

season1:梅雨―陰鬱な日々―

第一話 だから勝手にやってくれ

1-1 春待青という女

 ふわりと、甘い香りがする。

 軽く波打つ長い黒髪は、さらりと揺れる度に天使の輪を輝かせ、肌は透き通るほどに白い。

 猫のような大きな黒い目は、角度によって藍色に輝き、まるで硝子玉で作った玩具の宝石のようだ。


「わたし、恋がしたいのです」

 まるで鈴が鳴るような軽やかさで、彼女はそう言った。


 絶世の美少女――彼女のことを、僕は幼い頃から知っていた。喋ったことも、遊んだこともあるし、なんなら彼女のちょっとした秘密だって知っている。いわば、幼馴染みという存在だ。


 だからこそ、彼女がそんなことを言い出したとき、僕は正直、嫌な予感しかしなかった。


「ねぇ、ミナミ」

 甘ったれた声で、彼女が僕の名前を呼ぶ。それを聞いた僕の中で、警報音が鳴り響く。


 例えば、僕が大事にとっておいた好物の唐揚げの、それも最後の一個を、気軽にねだってきたときのような。大寒波が押し寄せてきた寒い冬、なけなしの防寒具であった手袋とマフラーを意味もなく奪っていったときのような。

 そんな、しょうもなく致命的なワガママを言うときの声音だと、僕の経験が告げてくる。


 ひんやりと冷たい彼女の手が、僕の手を握る。固まる僕に、彼女はにっこりと文句なしの笑みを見せた。まるで天使のようだが、彼女の正体なら僕はよく知っている。


 彼女がまた一歩、距離を詰めてくる。濃くなる甘いミルクのような香りに、気持ちを一瞬持っていかれそうになる。


 少女――春待はるまちあおは、つまりはこういう女なのだ。

 悪戯っぽい、猫のような目が、僕を真っ正面から射る。不覚にもドキリとしてしまったことを、僕は早々に後悔した。


 彼女が言う。鈴のように軽やかに。あるいは、硝子玉のように、軽率に。


「わたしに、恋をさせてください」

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