骸捜査官と屍犯罪者
koumoto
プロローグ
彼女は何か醜いものに出くわしたかのように思わず顔をしかめてしまったが、たちまちに取り澄ました微笑に入れ替え、品の良さを繕った。
来客は二人組だった。
一人は背広姿の頑健そうな体格をした二十代半ばくらいの男で、そつのない笑みを浮かべて姿勢よく立っている。しかしその振る舞いはどこかぎこちなく、彼の本来の性格はもっとざっくばらんなものであることを示していた。
彼の背後に、一歩退いたようにして、もう一人の男が佇んでいた。
「こんにちは。お忙しいところ恐れ入ります。少しのあいだだけお時間よろしいですか? 先ほど申しましたとおり、我々はこういう者です」
前方に陣取っている背広の男はそう言って、捜査官の証である手帳を懐から取り出して見せた。最も、偽物だったとしても、彼女には見分けがつかないが。
男の動作は、慣れた手つきであるのに、やはりどこかぎこちない……。といっても、美春はこの男が身分を詐称しているのでは、などと疑ったりはしなかった。一目見ただけでもぶっきらぼうな人柄がにじみ出ており、いかつい風貌のわりには、不思議と警戒感を抱かせなかった。
おそらくは、こういう儀礼的な振る舞いに居心地の悪さを覚える人物なのだろう。
「ええ、まあ……。別に構いませんが。でも、捜査官の方が何の御用でしょう?」
当然の疑問を口にしながら、美春はちらちらと後ろの男の方に視線を向けてしまうのを抑えられなかった。
分厚いコートを着込み、目深に帽子をかぶって、眼を伏せたまま微動だにしない。自分の影でも見ているのか、それすら見ていないのか、限りなく生気のない態度を示している。交渉は背広の男に任せきっているのか、美春に顔を向ける様子もない。
ただただ突っ立っている。なんだか案山子みたい、と美春は思った。どう見ても捜査関係者というよりは、不審者といったほうが似つかわしい。
異臭の源はこのコートの男だと春日井美春は察した。
背広の男はその視線に明らかに気づいているようだが、後ろの連れを紹介することもなく、つつがなく話を進めた。
「いえね、先日このマンション近くで、例の
「どうでしたかしら……。最近はあまり見てないかもしれませんね。なにしろいつ見たって、暗い話題ばかりでしょう? そうはいっても、自分の周りは平和だからあまり実感はありませんけど……。なんだかそれが申し訳なく思えたりもして。いっそのこと無関心を決め込んで、情報に触れるのなんかやめようかと……。あら、何のお話でしたっけ?」
「屍犯罪者です。確認されただけでも三名の犠牲者が出ています。痕跡から、同一犯であることが判明しました。目下潜伏中ですが、この界隈で目撃情報があったのです」
「まあ、そんな物騒なことが――」
美春は息を呑んだ。といっても、現実感は湧かなかった。彼女は日常に裂け目が入ることを、あまり上手く想像できなかった。ニュースで報じられるような事件というものは、自分の生活とは別の世界で起こることだとしか考えられない。目の前で起きたとしても、ぴんと来ないかもしれない。
屍犯罪者というのも話としてはもちろん知っているし、いたるところに発生しているとも聞くが、美春にとっては地球の裏側の紛争や飢餓と同じくらい遠い存在だった。つまり、実感できない。どうしても身近なこととは思えなかった。
「屍犯罪者って……。あの、つまり、ゾンビのことですよね?」
「ええ、みなさんその名称で呼びますね」
背広の男は苦笑した。態度が少し砕けてきて、地金が出始めている。
「あの、わたし詳しくなくて。屍犯罪者って、どういったものなんですか?」
「まあ、ゾンビと呼ばれて定着しているイメージとは少し食い違うところもありますが、根本的なところは同じですよ。彼岸に渡りきれずに、現世に舞い戻ってしまった、生ける屍。噛みつくことでその状態を伝染させ、仲間を増やし、生者の社会に混乱をもたらす」
「――怖ろしいんですね」
「ええ、まったく危険なことです。そんなやつがうろついていたらおちおち眠れもしない。それで、ここ最近この辺りで何か不審なものを見かけたり、物音を聞いたりはしませんでしたか? 何でもいいんです。ごく些細なことでも」
「いえ……。でもそれでしたら、何もご協力できることはなさそうです。ここ最近は家を空けておりまして、弟の看病にかかりきりでしたから。ここに戻ったのもつい昨晩のことで」
「弟さん? 御病気なのですか?」
「ええ……。といっても、大したことではないんですの。大きくなったくせに泣き言ばかりで。顔色は悪くしていましたけど、そんな騒ぐようなことでもなくて。愚痴に付き合わされただけのようなものです」
「そうですか……。まあ、何はともあれお大事に。健康が一番ですからね」
「本当、そのとおりですね。息災でいるだけでも、どれだけ貴重でありがたいことか――」
美春と背広の男の、実りのない世間話のようなやり取りはまだしばらくは続きそうであったが、それを断ち切るように、後ろにいたコートの男が前触れもなく口を開いた。
「
抑揚のない、単調な声音だった。
美春は改めてその男を見つめた。その言葉から察するに、なんらかの連絡が入ったと思しいが、しかしこの男は別に携帯電話を手にしているわけでもなく、相変わらず身じろぎもせず突っ立ったままだ。
「また出やがったか……。しょうがない、行くぞ、テツ。――春日井さん、どうもありがとうございました。もし何かありましたら署の方にご連絡を」
そう言って、背広の捜査官はさっさと行ってしまった。
ご苦労様です、と美春はその立ち去っていく後ろ姿に向けて頭を下げたが、また異臭が鼻をついた。
顔を上げると、コートの男はまだそこに残っていて、さっきまでは伏せていた眼をこちらに向けていた。ようやく視線が合ったわけだが、それだけのことなのに、美春は心臓が縮むような思いがした。
「
そう言い残して、男はようやく動きだし、先ほどの捜査官の後を追った。
「……ぷはっ」
美春は大きく息を吸って、何度か咳き込んだ。どうも、無意識に息を詰めていたらしい。
(屍者は疫病神……? でも、それを言うならあなたも……)
その場にまだただよっている死臭を嗅ぎながら、あれが屍犯罪者といつも対に語られる、
運転する車内で、
「……さっきの人、なかなか美人だったよな」
同意を求めるように、真司は助手席に座る相棒に顔を向けた。
「美醜の判断は僕には出来かねますが、真司は惚れっぽい所がありますね」
素っ気なく、
「おまえは、潤いがないなあ。恋とかしないのか? 生きるのを楽しまないのは犯罪だぜ」
「そもそも生きてませんから」
車内は死臭に満ちていた。しかし真司は窓も開けずに運転していて平気だった。においが気にならない質らしい。骸捜査官と組むには絶好の特質だった。
「おいおい、お題目言ってんじゃねーよ。歩いて、しゃべって、心があって、それで生きていないなんて誰が決められる? 死んだ後の人生のかたちもあるさ」
「医者は僕の身体が死んでいることを証明してくれますし、法的にも生者と同一の権利は認められていませんよ。もちろん婚姻もです」
「堅物だな、まったく。テツよ、俺が言ってるのはそういうことじゃねーんだよ」
「その理屈でいうなら、屍犯罪者の権利も尊重されてしかるべきだということになりますが」
「……そういうわけにもいかないさ」
快活な真司の表情が曇った。システムは容赦なく悪を規定している。
「――で。この辺で合ってるのか?」
「ええ。その角を右折してください」
言われるままに真司は車を走らせる。
通報のあった住宅街に着いた。閑静な、という形容がまさしく似つかわしい、ありふれた家の建ち並ぶ、ありふれた場所だった。人気はない。
「……おっ。いたいた」
その日常的な風景の中に、異物が混ざり込んでいた。
道の向こう側から、すり切れた服を着た男が靴も履かずに裸足のまま、ふらふらと蛇行しながら歩いて来る。目的地がある足取りには見えない。文字通り徘徊しているだけだろう。
真司は車を路肩に停車させた。
「さて……。荒仕事だな。テツ、いっちょかましてやれ!」
「……傀儡の相手を務めるのは真司の役割でしょう?」
「もちろん。もちろぉん、そんなことはわかってるよ。原則的にはね。でもさ、俺、徹夜明けで身体がぎしぎし言ってて、本調子じゃないんだよね」
「それはあなたの問題であって、仕事には関係ありません」
「そんな硬いこと言わずにさあ。パートナーを休ませる気遣いぐらい持っても罰は当たらないだろ?」
「――役割を放棄するのですか?」
病葉は冷たく真司を見据えた。
「……ったく。冗談だよ、冗談。わかったよ、行きますよ、骸捜査官どの」
しぶしぶといった調子で、真司はダッシュボードから警棒を取り出して、ドアを開けた。
「しかしさ、心配じゃないわけ? 寝不足の俺がやられちゃったらどうすんの?」
車を降りる前に、真司は未練たらしく訊いた。
「そんなタマじゃないでしょう」
病葉は素っ気なく答える。自分は車を降りる気すらないらしい。
「ま、そりゃね……」
ばたん、とドアを閉めて、真司は徘徊する男の方へ向かった。
空は抜けるような青空だ。陽光が気持ちよく降りそそぎ、絶好のピクニック日和だった。
そんな快晴を一顧だにせず、半死人はよろけながらのろのろとその歩行を進めている。
(あーあ、なにが悲しくて、こんな天気のいい日にゾンビなんか相手にしてんのかね)
真司はそう独りごちながら、その男に向かい合った。
「あー、聞こえますか? あなたは、えー、傀儡です。屍犯罪者に汚染された哀れな犠牲者です。特に恨みはありませんが、このままだと近隣住民の迷惑なので、今から制圧します。後腐れないよう、平にご容赦を」
真司がそう話しかけても、男は無反応で、どんどん近づいてくる。
男のうつろだった眼が突然、ぎょろっと真司の顔に焦点を合わせた。
「あ……あ……ぐっ、ぐが……」
ふるふると男が物欲しそうに身を震わせる。
次の瞬間、意外なほど素早い動きで、男は真司に跳びかかって来た。
「けっ」
その攻撃を、慣れた動作で真司は横にかわし、たたらを踏む男の首筋に警棒を打ち込んだ。
「ぐむっ……」
男はその一撃で、呆気なく倒れた。間髪入れず、真司の片足が男の後頭部を踏みつける。
「はい、制圧完了、っと」
そのまま男の後ろ手を縛り、噛まれる心配なくはめられる、特製の猿ぐつわを相手にはめた。
襟首を掴んで男を立たせ、車の方にまでずるずると引きずっていき、後部座席に押し込んだ。
「さすがのお手並みですね」
病葉が別に驚いた様子も見せずに言った。
「なーにがだよ、ったく。傀儡は人間に復帰できる可能性があるからな。ゾンビとはいえ、準生者だ。丁重に扱わねーと」
「……あれでですか?」
周囲がざわめきだした。今になって、ちらほらと近隣の住民が姿を現し始めたのだ。窓からずっと様子をうかがっていたらしい。
「住民の皆さん、ご協力に感謝します!」
おざなりにそう叫んで、真司は運転席に乗り込んだ。
そのまま車を発進させようとすると、どんっ、と助手席の窓に何かがぶつかる音がした。
ん、と真司はそちらに顔を向けた。道をころころとボールが転がっていく。
少し離れたところに、何人かの子どもが立っていた。どうもボールを投げたのはその中の一人らしい。
子どもは真司と眼が合うと、鼻を押さえて、わざとらしく嘲るような動作をした。くせー、くせー、とかすかに声が聞こえた。
近くにいた大人が、慌てたようにその子どもを家の中に引っぱっていった。
「…………」
真司はかまわずに車を発進させて、その住宅街を離れた。
病葉鉄二郎は子どもたちに眼も向けなかった。
二人は署に一旦戻ると、拘束した傀儡の身柄を引き渡した。
「後遺症が残るような真似はしてないだろうな」
「とんでもない。傷ひとつつけてないよ」
そう答えながら、真司は内心、おかしがっていた。
(傀儡に対してはずいぶんとお優しいことで。屍犯罪者とはえらい違いだな。もっとも、まだ人間に後戻りできるかもしれない状態だから、当然か)
留置場に傀儡が連行されていくのを見送り、二人は車に戻った。
駐車場には何台もの車が停められているが、真司が停める定位置からは、どの車も必ず距離を置いているように思える。
(さすがに気にしすぎかね……。でもなんか、ぽつんとしてることが多いし。特殊車両以外はどこに停めてもオーケーのはずなのに、俺たちだけ場所決められてるし。偏見がはびこるのは一般市民のあいだだけでもないってことか……。せめて同僚ぐらいは、優しくしてほしいものだがね)
「どうかしましたか?」
周りを見まわしてため息をついた真司に、助手席の病葉はいぶかしげに訊いた。
「いや、別に。――で、どうする?」
「とりあえず、車を出してください」
「ほいよ」
言われた通りに真司は車を発進させて、署の敷地内から出た。
「適当に流してください」
「いいのか? そんなんで」
「構いません」
真司は小腹が空いたこともあり、最初に思い浮かんだ定食屋の方へ進路を取った。車内に立ち込める死臭もなんのその、食欲を妨げることはなかった。
「また地道に聞き込みとパトロールってところか」
「放っておいても、なんらかの反応があるでしょう」
「……どういうことだ?」
「傀儡を制圧しているときに、絡みつくような視線を感じました。いまもです。対象はこちらを追ってきているようです」
表情も変えずに病葉は言う。赤信号に差し掛かり、車は停車した。
「おまえね……。そういうことは早く言えよ」
「何故ですか」
「襲われたらどうする」
「殺意を直接ぶつけてきてくれるなら、対象の位置を特定できます。そこからは僕の役割です」
「俺を巻き込むなよ……」
「それがパートナーの仕事でしょう」
「仕事ね、確かにね。お給料ももらってることだしね。でもさ、なんつーの? もっと繊細ないたわりっつーの? 優しさっていうか……。そういうのが俺は欲しいわけよ。相棒からも、同僚からも、女性からも、お給料の面でも」
「来ます」
病葉がそう言った瞬間、運転席の窓が暗くなり、何かが砕けるような生々しい音と共に車が揺さぶられた。
何が起こったか、真司には一瞬わからなかったが、どうやら車体の右側から何か、塊のようなものが勢いよくぶつかってきたらしい。
「なんだなんだ、どうした」
焦る真司をよそに、病葉は落ち着いたままドアを開けて、車を出た。真司もそれにならうが、念のため病葉と同じく助手席側から外に出た。
運転席の方にまわると、道路上に男がぐったりと横たわっていた。腕が異常な方向にねじくれていて、血も出ている。
「なんだよ、このおっさんは。タクシー運転手……?」
「どうやら
助かった、とは真司のことであって、骨の砕けた被害者のことではなかった。
「屍犯罪者の馬鹿力か……。ひでえことしやがる。テツ、特定はできたのか?」
「肝心なところで殺意を逸らされました。威嚇でしかない。対象は、なかなか節度をわきまえているのかもしれません」
「どこがだよ……」
周囲は騒然とし、野次馬が遠巻きにこちらを眺めている。近くの交番から巡査が駆けつけてきた。
「何事ですか」
「救急車を呼んでくれ。屍犯罪者の攻撃で巻き添えが出た」
「ああ……。では、あなた方が骸捜査官ですか」
巡査は目を細め、ちらりと意味ありげな視線を病葉の方に投げかけた。
「骸捜査官はこいつで、俺は単なる捜査官。言っとくけど、俺は死んでねーから」
「了解しました」
その場の処置を巡査に任せ、二人は車に乗り込んだ。
「逃がしたか……。テツ、どっちの方向かぐらいはわかるか?」
「コールが入りました」
「なに?」
病葉は噛んで含めるように繰り返した。
「コールが入りました。傀儡です。数時間前に聞き込みに行ったマンションから程近い。現場に向かいましょう」
その通りは街の賑わいからも離れて、人気もなかった。真司は車を徐行させて周りを眺めながら、まるで自分たちが通ることで街を寂れさせていくような錯覚をふと抱いた。
「この辺りか。しかし、屍犯罪者の方は追わなくていいのかね」
「対象の波長と思考が大方掴めてきました。無目的な傀儡の生産。フットワークの軽さはあっても、計画性はない。悪意の程度もたかが知れています。死んだことへの戸惑いが強い。屍犯罪者としては三下といったところです」
「迷える
「追跡者を目前にして、錯乱しています。ほどなくすれば、僕たちの前に姿を現すでしょう」
「勝手についてくるってことね。それまでは、そいつに汚染された犠牲者を制圧してればいい」
通りを進んでいくと、工事中のビルに差し掛かった。
「おそらくこの中です」
「ここ? 傀儡さんも、
真司は車を止め、ダッシュボードから警棒を取り出した。
「工事の連中は休みか……。避難を呼びかける必要もなくて、都合がいいな」
「油断は禁物です」
「心配してくれるってわけか? なんだ、俺が優しさが欲しいとか言ったからか?」
「…………」
「まっ、傀儡は俺に任せろ。屍犯罪者が来るまでは、テツはベンチを温めておけ」
病葉を車に残し、真司は防護シートをくぐり、ビルの骨組みに囲まれた薄暗い空間に入った。足場が組まれ、下には建材や鉄パイプなどが転がっている。
(さて……。おっ、いたいた)
鉄骨にもたれるように、人影が背を向けて立っていた。
「あー、聞こえますか? あなたは傀儡です。屍犯罪者に汚染されたゾンビです。でも屍犯罪者は筋金入りのゾンビ、あなたは更生可能なゾンビ。まだ間に合います。だから、制圧されても恨まないでくださいね」
真司は余裕を持った足取りで、その人影に近づいた。警棒の感触を確かめるように握りしめる。いつものように制圧しようと構えたところで、人影が振り返った。
「……えっ」
「――きしゃっ!」
その端正な顔立ちの女性は、獣じみた素早さで、真司に跳びかかってきた。
真司はかわし損ね、女性ともつれるようにして倒れこんだ。
警棒を持った腕を強い力でおさえつけられ、相手が馬乗りになるのを許してしまった。
(なんだよ……聞き込みに応じてもらった、あの美人さんじゃないか!)
正気を失った春日井美春は、ゆっくりと真司の首筋に物欲しげな口を近づけてくる。真司はもがいたが、一度不利な体勢に持ち込まれると、それを覆すのは容易ではなかった。
(なんてこった。油断した……)
真司は思わず眼を閉じた。寝不足がたたったのもあってか、これはこれで、ちょっと気持ちいい最期かも、なんて馬鹿な考えがよぎった。
「――女性に弱いですね、真司は」
いつの間にかそばに来ていた病葉鉄二郎が、傀儡の首根っこを掴み、人間離れした力で放り投げた。ビルの骨組みに叩きつけられた美春は苦悶の声を上げて、そのままぐったりとのびてしまった。
傀儡の制圧は、滞りなく完了した。
「油断は禁物と言ったでしょう。とはいえ、こんな失態は珍しい。まさか真司、本当に惚れたんですか?」
「……うるせえよ」
「立てますか」
病葉に助け起こされた真司は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「傀儡の相手は俺の役割のはずだろ?」
「原則的には、ですよ。それに、僕のお相手も来たようです」
なに、と真司が訊き返そうとしたところで、近づいてくる足音に気がついた。
「対象のおでましですよ」
言いながら、病葉はポケットから武器を取り出し、拳にはめた。
その言葉通り、防護シートを荒々しくまくって、屍犯罪者は姿を現した。
「――姉さん! 姉さん!」
見た目は普通の男とさして変わりない。死んだときの外傷は服の下に隠れているのだろう。傀儡のうつろな表情やふらついた歩行、骸捜査官の屍者特有の青白い肌や死臭などと比べたら、一番まともとも言える。
ただ、眼の色だけは別だった。屍犯罪者の眼は爛々と、鮮やかな朱に染まっていた。
「姉さん、だと……。じゃあ、彼女の言ってた弟さんってのが――」
「貴様ら……姉さんに何をした!」
屍犯罪者は烈火のような怒りを湛えた目で、二人を睨みつけてくる。
「何をした、か。むしろ俺が訊きたいよ。肉親を死者の側に引き入れようとするなんざ、恥だと思わないのか? 生き汚い屍犯罪者の典型だな」
「うるさい! おれは姉さんを傷つけてなんかいない!」
「どの面さげて言ってんのかね。彼女の首筋に残る噛み跡が、お前の罪を雄弁に物語っているよ。さて、屍犯罪者さんよ――」
「おれを規定するな! おれはそんな存在じゃない!」
「屍犯罪者。おまえに言っておくことがある」
真司はわめき散らす相手を冷たく見据えた。
「権力の
「――いや。逮捕なんてしない。おまえには、死ぬ権利しか認められていない。だからいまのうちに祈っておく。
もはや問答は無用とばかりに、屍犯罪者は真司に躍りかかった。一般市民がゾンビという言葉からイメージする鈍重さなどかけらもない、俊敏な動きだった。
それを、骸捜査官である病葉鉄二郎が、しっかりと食い止めた。
人間離れした怪力のぶつかり合い――。がっぷり四つに組みあった二人の屍者は、互いの眼を覗き見た。
病葉は屍犯罪者の紅い眼に、怒りと恐怖を見出した。
屍犯罪者は病葉の眼に何かを見出したとしても、それを誰かに伝えられる機会は永久にない。
押し負けたのは屍犯罪者の方だった。
途端、病葉はメリケンサックをはめた右手を大きく振りかぶり、屍犯罪者の胴に思いきり打ち込んだ。
血と臓物が、盛大に飛び散った。
「……グロいな」
真司は思わず顔をしかめた。病葉の右腕が、屍犯罪者の腹を突き破り、後ろから飛び出ている。見慣れた光景とはいえ、凄惨さは覆い難い。
「ぐ、ぐはっ……」
ずるり、と病葉が腕を引き抜くと、屍犯罪者はその場にくずおれた。
「――やはり、三下ですね」
返り血に汚れた病葉が、涼しげにつぶやく。
「テツ、相変わらず容赦ねーな」
「屍者に加減など不要です」
「その通りだが……まさか、春日井さんにも手加減してねーのか?」
慌てて真司は倒れている春日井美春に駆け寄った。
病葉もそちらに無表情な顔を向ける。その時だった。
「――ふっ!」
力を振り絞るような呼気の音と共に、無力化されたと思われていた屍犯罪者が跳んだ。
ビルの骨組みをバッタのように跳ねて、そのまま外へと飛び出していった。
逃げ出した――。
「……驚きました。なかなかのタフさです。三下から小悪党に格上げして、記憶にとどめておきましょう」
「おいおい……呑気なこと言ってんなよ」
真司が呆れたように言う。しかし本気で心配しているわけではない。
「役割を果たせ、テツ」
「もちろんです」
骸捜査官は当然のようにそう答えた。
彼の錯乱した頭は断末魔をあげていた。完全なるパニックに陥っていた。
逃げている。おそろしい相手から逃げている。息を必要としない屍者が息を荒くし、はみ出る臓物をこぼしながら、なりふり構わず逃げている。
全速力で走り、力の限り跳躍し、それでも、自分が生き延びられるという気がかけらもしない。
なんでこうなったんだ。おれはなんで死んだのだったか。死ぬなんてことがあっていいんだろうか。だって、まだ何も成し遂げていない。何も得ていない。誰からも愛されていない。こんな人生なら、そもそも何故生まれたのかもわからない。
何故あいつらは生きているんだ。おれが死んだのに、やつらは何故のうのうと生きているんだ。誰もこちら側には来てくれないのか。
姉さん。そんなつもりはなかったんだ。ただ、寂しかったんだ。独りでこのまま闇に消えるのが……。姉さん。助けてくれ、姉さん。
そして、屋根伝いの跳躍から路地裏に降り立ったとき、何かが飛んできて、彼の足を砕いた。
「ぐかっ……!」
飛来したのは、恐ろしい力で投擲された、一本の鉄パイプだった。工事中のビルから拝借してきたものだ。
足が無様にひしゃげてしまい、移動もままならず、それでも這いつくばってどこかへ向かおうとする彼の前に、その屍者は立ちはだかった。
「……なんで」
彼が末期に口にしたのは、絶望感を通り越して浮かんだ、素朴な疑問だった。
「なんで、おれは死ななきゃならないんだ。あんたとおれの、どこが違うっていうんだ」
「〝死にたる者にその死にたる者を葬らせよ〟」
路地裏の一角を、屍者の血が赤く染めた。
死者の怒りは、同じ死者による暴力によって、消滅させられた。それが、この社会が選択した、鎮魂のシステムだった。
春日井美春は目覚めると、自分が見知らぬ部屋のベッドに臥せっていることを知った。
「…………」
白を基調とした、清潔感のある、それでいて生気に乏しい空間。一見して、病室だとわかる。飾られた花だけが生命の匂いを香らせていた。
ぼんやりとした頭で、記憶をまさぐってみる。自分は何故ここにいるのか。何があったのだったか。思い出せることと、思い出せないことがあった。
思い出せたことの中に、二人の屍者の影を見出した。
口が渇き、不快感が這い上ってくる。思い出さなければよかった。
「気がつかれましたか」
ベッドのそばの椅子に腰かけた男が、美春に声をかけた。
医者ではない。体格のいい、背広を着た男だ。その男の顔には見覚えがあった。
「刑事さん……」
「覚えてくださっていたとは、光栄です」
いつかの聞き込みに来た二人組の片割れだった。
「この世へのご帰還、おめでとうございます」
刑事はよくわからないことを言う。私は死んででもいたのだったか。
「ゾンビに噛まれた者はゾンビに……。その病状のことはご存知ですか? 感染源の屍犯罪者とは別に、我々はそういった犠牲者を傀儡と呼んでいます。朦朧とした意識のままに徘徊し、人を襲う、そんな存在。あなたは、傀儡となっていたのですよ」
屍犯罪者……。傀儡……。知ってはいても、自分の日常に関係する言葉だとは思っていなかった。経済学の用語と同じくらいに、身に沁みない言葉だ。
「傀儡は、屍犯罪者とは違い、まだ回復が可能です。春日井さんは発見が早かったこともあってか、無事にこうやって戻ってこられた。戻ってこられない連中もいますから、これは幸運なケースですよ」
「……弟は……あなた方の言う、屍犯罪者は、どうなったのですか?」
刑事は神妙な顔つきになった。単調な説明に、苦味が走る。しかし口調そのものは淡々としたままだ。
「――どうやら今日こそは、意識がしっかりしてきたようですね。ここ数日、何度かお邪魔したのですが、覚えてますか? 質問があったのは今日が初めてです。……そう、屍犯罪者でしたね。あなたの腹違いの弟さん。
「…………」
弟とは、高校生の時に引き離されてから後は、会うこともなかった。それなのに、何故わたしに「助けて」などと、すがってきたのだろう。わたしがどこにいるのかも知っていたということは、生前から、気にかけていてくれたということか。あるいは金を借りようとでも思っていたのかもしれない。
いや……。弟はどうしようもないほど孤独な人間だった。だから、わたしくらいしか、すがる相手などいなかったのだろう。
「屍犯罪者は、我々が始末しました」
決然として、刑事はきっぱりとそう言った。もうそれは終わったことであり、取り決められたシステムの結果を告げているだけだった。
〝我々〟……。そう、この刑事は二人組だったはずだ。
「あの……今日は、もう一人の方は?」
「え? ああ、テツ……骸捜査官のことですか? 外で待っていますよ。あいつなりの、病人への気遣いでしてね」
「呼んでもらえませんか。ここに」
美春は、考えのまとまらないまま、そう口にしていた。
刑事は少し迷ったようだが、わかりました、と答えて、病室を出て行った。
待っているあいだ、子供の頃の弟の顔が頭を過ぎった。たわいない遊びと喧嘩ばかりだった、幼い時代。
程なくして、刑事に連れられて骸捜査官は現れた。姿よりも先に死臭が鼻をついた。刑事はまた椅子に腰かけたが、骸捜査官は立ったままだ。
「…………」
美春はじっとその青白い顔を見つめている。骸捜査官も黙ってそれを見返している。しばらくのあいだ、沈黙と死臭だけがその場に立ち込めた。
「……臭い」
ぽつりと、美春は呟いた。
「臭い、臭い、臭い! あなたは何故ここにいることが許されているの? わ、私の弟は、なぜ殺されなければならなかったの? あんまりよ! 弟はあなたみたいに臭くなかった! 肌の色も、薄気味悪くなんてなかった! 死んでいるのはあなたも同じじゃない! 気持ち悪い、吐き気がする――。あなたこそ、早くあの世に還りなさいよ!」
駄々っ子のように、美春は感情を爆発させた。普段おとなしい彼女がこんなにも激昂したのは、それこそ、子供の時以来だったかもしれない。
まくしたてて息が上がり、美春は咳き込んで、顔をうつむかせた。
骸捜査官は、憎しみをぶつけられても、表情ひとつ変えなかった。
「残念ながら、僕には使命があります。いずれは還るにせよ、それは今ではありません」
そう答えて、骸捜査官は背を向けた。病室のドアへと歩を進める。
それを追うようにして、傍らの刑事も立ち上がった。
「……やはり、連れてくるべきではなかったかもしれません。申し訳ない。あなたはまだ安静を必要としています。どうか、ご自愛ください」
いたわるその声は優しいものだったが、美春は聞いているのかいないのか、うなだれたままだ。
「屍者は疫病神です。忘れることですね」
背を向けたまま骸捜査官はそう言い残し、二人組は病室を出て行った。
「……なにが、忘れること、よ……」
春日井美春は、自分が泣いていることに、しばらくのあいだ気がつかなかった。
「はあ……」
車に戻った真司は、この仕事に就いてから何千回目になるかわからないため息をまたついてしまった。
「どうしました?」
「いや、わかってるよ。そりゃね、人に愛される仕事じゃないよ。アットホームな職場です、とか、そんな寝ぼけたお題目も信じてなかったよ。いい加減、慣れたもんだよ。でもさ、なんでこんなに行く先々で恨みを買わなきゃいけないわけ? 公僕って、そーいうもんなの?」
「それも仕事のうちでしょう。とはいえ、こう見えても悪いとは思っているんですよ。恋路を邪魔してしまったようですからね」
「あ? 何言ってんの? 俺が? 恋? 馬鹿いうなよ、事件関係者にそんな感情は抱かねーよ。それがプロってもんだ。それがたしなみってもんだ。いや、負け惜しみとかじゃなくて。いや、ホントに」
「ならいいのですが」
「俺が出会いたいのは、もっとおしとやかなタイプだね。三歩下がってついてくる、とまでは言わないけど、俺のことを信頼して、黙ってついてきてくれるような……」
「それはつまり、ゾンビのような女性ということですか?」
「……いや、いいよ。俺が悪かったよ、うん。独り身でもがんばるよ、これからも」
車を発進させて、二人はまた新たな事件へと向かった。
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