エピローグ
一七六三年、パリ条約締結。これによりヨーロッパ全土とアメリカ大陸で起きていた植民地戦争が終わりを迎える。後にこの戦争は七年続いたことから七年戦争と呼ばれるようになった。
一七七〇年、ルイ十六世とマリーアントワネットが結婚。同時期に「シュヴァリエ・デオン=女」説がロンドンで広がる。
一七七四年、ルイ十五世死亡。合わせて機密局が解体される。
一七七五年、デオン・ド・ボーモンはボーマルシェとの交渉の末、自身を「女」であると公言する。
一七八三年、パリ条約によりイギリスがアメリカの独立を認める。
一七八九年、パスチーユ襲撃。フランス革命の始まりである。
一七九三年、ルイ十六世処刑。
一八〇三年、デオンはメアリー・コール夫人と慎ましい生活を送る。
そして一八一〇年
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四月、ロンドン・ニュー・ウィリアム・ストリートにある小さな家、そこには二人の老婆が貧窮と共に暮らしている。
そのうち一人は病床におり、ここ暫くずっと寝たきりであった。その部屋に一人の老婆がパンを持って入ってきた。
「シャルル、今日はエリゼ神父がパンを分けてくれたのよ」
「まあ!」
「ほら、食べさせてあげる」
「ありがとう、メアリー」
メアリーと呼ばれた女性はベッドに横たわるシャルルという名の老婆を抱き起こして、その口元へパンをちぎって差し出した。
シャルルはゆっくりと、小鳥のようにパンを啄んで少しずつ咀嚼していく。
「メアリー、お腹がいっぱいだわ。あとはあなたが食べてちょうだい」
「まだ半分も食べてないわよ」
「いいのよ」
「わかったわ、でも食べたくなったら言ってね。残しておくから」
「ええ」
メアリーはそれ以上食べさせる事は諦めて部屋を出ていく。
ドアが閉じられて静かになると、シャルルは手元に置いていた詩集を手に取り開く。
詩はいい、感情や情景を詠った詩は胸を打つものがあり、活きる力となる。聖ルイ勲章も嗅ぎ煙草入れも売り払ったが、これだけは手放せない。
そうして詩の世界に身を浸すこと数時間、夜も更けた頃に玄関を強くノックする音が聞こえた。どうやら非常識な珍客が来たらしい。
メアリーが対応に出て、そしてシャルルの部屋のドアが開けられた。
「シャルル、あの……あなたにお客さんが来ているのだけど」
「こんな夜更けに来る非常識な知り合いなんかいないわ」
「そう? ……なんか『クリス・デュランが来た』と言えばわかると言ってるんだけど」
クリス・デュラン? シャルルの脳裏にその名前が浮かぶ、最初はしっくり来なかったが、だんだん胸に沈み込んできて心を暖めてくれる。
そう、クリス・デュランという懐かしい名前に胸をうたれたのだ、そしてその名前を使う人物を一人知っていた。
「知らないなら……断るわね」
「待って!」
部屋を出ようとするメアリーを止めて、シャルルはクリス・デュランを招くように頼んだ。
しばらくして、フードを目深く被ったクリス・デュランが部屋へ訪れる。
「メアリー、二人っきりにしてもらえないかしら」
「わかったわ」
そして、二人きりとなった部屋でしばしの静寂が流れる。最初に口を開いたのはシャルルだった。
「お久しぶりです……デオン様」
クリス・デュランはフードを外して、その相貌を明らかにした。
美しい金色の髪に蒼い瞳、スラっと細身の身体は記憶にある彼となんら変わっていなかった。
クリス・デュランは、かつて悪魔狩りとしてヨーロッパを駆け巡ったデオン・ド・ボーモンその人であった。
その姿は二十歳を超えたあたりから変わっていない。
「久しぶりだ……クリス」
そしてベッドに横たわるシャルルこそ、デオンに成り代わって激動のヨーロッパを駆け抜けたクリスである。
「このような姿で申し訳ございません」
「いい、楽にしてくれ」
「はい。また会えて嬉しく思います」
デオンはベッド脇に膝をついて彼女を見上げる姿勢をとる。クリスの皺だらけの手を取って、甲に軽く口付けをした。
「君が危険な状態と聞いて駆けつけて来たんだ。デュランの時は間に合わなかったからさ」
「デュラン様はむしろ死ぬまでデオン様に知られないようにしてたんじゃありませんか?」
「多分そうだろうな……全く彼らしい」
それから二人は思い出話に花を咲かせる。トネールでやんちゃしていた幼少期、コレージュ・デ・キャトル・ナシオンで過ごした学生生活、ロシアでの生活、そしてお互いの知らないそれからの出来事。
「そうですか、あれからずっとアメリカにいたんですね」
「ああ、あそこは今開拓が始まって活気に溢れているんだ。良くない輩もたくさんいるけど、悪くない場所だ」
「一度行ってみたかったですね」
「……今まで本当に、私のためにありがとう。君の受けた苦難や辱めは伝え聞いている。何度変わってやりたいと思ったか」
「良いのです。私が選んだ生き方ですので……確かに大変でしたけど、最後にデオン様と会えたのでとても幸福でした」
「すまない……ありがとう」
デオンの瞳から涙が零れ落ちる。その涙は握りしめたクリスの手を濡らして床に滴り落ちた。
「デオン様……今こそあなたにこの名前をお返しします。
シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン」
「確かに、受け取った」
クリスは更に「それから」と付け足して、ポケットから徽章を取り出してデオンへ差し出す。
その徽章は若葉色の下地に銀の星があしらわれ、真ん中に剣をあしらった装飾がある。
「それは……シュヴァリエの徽章に見えるが」
「はい、ナポレオンが定めたレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエ徽章を改造したものです」
「よくそんなものを手に入れられたな」
「デュラン様が生前に手に入れたものなんです」
「そういえばあいつ、しれっとフランス革命に加わってナポレオンに取り入ってたな」
「その時にくすねたものだそうです」
「あいつ」
「これを……デオン様に」
「私に?」
「そうです。本当の名前と共に、あなたにシュヴァリエの称号を授けます。どうか人々を守る正義の
クリスの眼差しは強く、とても死期の近い病人には思えない
デュランはこのために徽章を盗んで加工したのか。
二人の友人にこうまで期待されていては応えないわけにはいかない。
「わかった。私は、人々を守る騎士としてこれからを生きていくと共に、君達の友情に生涯を掛けて誠実に応える事を誓う」
「よろしくお願いします……デオン様」
翌月、五月二十五日、メアリー夫人とエリゼ神父に見守られながら、デオン・ド・ボーモン(クリス)はその生涯を閉じた。
八十二歳であった。
――――――――――――――――――――
『シュヴァリエ・デオンが死去! 驚くべきその性は!』
と大きく書かれた見出しの新聞を片手に、デオン・ド・ボーモンはロンドンにある喫茶店で焼き菓子を口に入れた。
新聞には続いてこうある。
『彼女の屍体を確認したエリゼ神父らは、そこに男性器の存在を確認した』
「ブッ」
思わず吹き出してしまい、新聞に焼き菓子の破片が唾液と一緒に貼り付いた。
「クリスめ、一体どんなマジックを使ったんだ?」
大方検死の時に男と公表するよう頼んだのだろうが、これは少し不意打ちだった。このようなイタズラはクリスらしいといえばクリスらしい。
そうやってクリスの仕掛けにほくそ笑んでいると、店の表から騒がしい声が聞こえた。
「てめぇ! 金をだせぇ!!」
白昼堂々、往来の真ん中で恐喝が行われている。
人目につくから警察もすぐ来るだろうと思い放置しようとしたが、恐喝されてる方が五人から殴る蹴るの暴行を受けており、警察が来るまで耐えられそうにない。男達もそれが分かっているのだろう。ひたすら暴行を加えていた。
「やれやれ」
デオンはお金をテーブルに置いて店を出る。目と鼻の先に彼等はいた。
彼等もまた突如現れた見目麗しい人物に気付いてその手を止めた。
「なんだ姉ちゃん?」
「ああ、なんだ……そこまでにしてやってくれないかな」
「ああ? 姉ちゃんには関係ないだろう?」
「それとも姉ちゃんが俺達の相手をしてくれるのか?」
どうやら向こうはこちらを女と勘違いしているらしい。女のような見た目だと自覚はしているが、これでも最近は男らしくしようと心掛けていたのだ。一瞬で崩れてしまったので少々凹む。
男達はイヤらしい笑みを浮かべながらデオンへと詰めよろうとする。
これからする事を想像して楽しんでいるのだろう。
流石にそれはゴメンこうむりたいので、デオンは手近にいた男の手を引いて顔面を殴り、それから足を引っ掛けて転がした。
「何すんだてめぇ!」
「女だからと手加減しねぇぞ!」
怒らせてしまった。
「残念だが私は女ではない」
「はっ、男かよ」
男達は嘲笑う、しかしそれも束の間、デオンは一人ずつ近い男から順に殴り飛ばして意識を奪い取っていく。
只者ではないと思ったのか、残り二人となったところでようやく同時にかかってくる。
近い方の男へタックルしてひるませた後、首に手刀を入れて気絶させる。その隙に迫ってきた男の拳を額で受け止めてから、腕を掴んで捻る。腕の捻りに合わせて男の身体が宙を舞って地面へと落ちる。
「くっそぉ……何もんだてめぇ」
「気にするな、ただの……シュヴァリエだ」
デオンは金色の髪を撫でながら、静かに男を冷たく見下ろして自分の在り方を、友から受け取った誇り高き称号を伝えるのだった。
シュヴァリエ編 〜完〜
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