ゆきの手

葉野亜依

ゆきの手

 空を仰ぐと灰色の雲で覆われていた。冬特有の分厚い雲だ。そう言えば、今日は雪が降るかもしれないと天気予報で言っていた気がする。

 吐く息は真っ白で、体が震えるほど寒い。野外にいるのだから、当たり前と言えば当たり前か。

「それで、いつまでそうしているつもり?」

「……だって」

 隣にいる彼女――ゆきに言葉を投げかけると、ずずず、と盛大に鼻を啜る音が聞こえてきた。

 仮にも彼氏である僕の目の前でそんなことをするのはどうかと思うが、遠慮なんてものは最早ないに等しい。

 話すだけで、目を合わせるだけで、顔を赤くしていたあの初々しくて可愛らしいゆきは何処へ行ってしまったのだろう……いや、今も可愛らしいけど。

 とまあ、惚気はさて置き。

 真っ白なコートを身に纏っているゆきは、小さく震えていた。でも、それは寒いからではない。

 ゆきは寒さに滅法強く、今日も薄手のコートを着ているだけで、手袋もマフラーもしていない。

 手も首元も見ていて寒そうだが、本人は全くもって平気なのだ。ゆきを見ていると、厚手のコートを着て手袋もマフラーもしている自分が少々情けなく思えてくる。

 では、何故ゆきは震えているのか。

 答えはいたって簡単。声は上げていないが泣いているのだ。先程の鼻を啜る音は、寒さのせいじゃなくて泣いているせいなのだ。

 先に言っておくが、僕がゆきを泣かせた訳ではない。僕はゆきを泣かせるようなことはしない……などと、かっこよく言い切れたらいいのだけど、悲しきことかな、前科があるので断定することはできない。でも、今回は違う。少なくとも僕のせいではないとだけ言っておこう。

 では、何故ゆきは泣いているのか。

 事の発端は、今から数時間前に遡る。


   *


 休日である今日この日。僕とゆきは外に出かけていた。

 服屋や雑貨屋などを巡って、食事をしてまたお店巡りをする。何てことはない。所謂、デートというやつである。ゆきがいなかった時、街中を歩く男女を見ては、「リア充爆発しろ!」などと心の中で叫んでいたあの頃が何とも懐かしい。

 でも、今は違う。楽しそうにショッピングをするゆきを見ているだけで、僕の心は満たされた。例え、財布の中身が寂しくなろうとも。

 そして、楽しい時間というものは早く過ぎてしまうもので。

 名残惜しくもそろそろ帰ろうかと、ゆきに告げるために振り返る。すると、ゆきはある一点をじっと見つめていた。

「どうかしたの?」

「迷子!」

 言うが早いか、真っ直ぐに伸びた黒髪を翻して、ゆきは突然走り出した。

慌ててゆきを追いかける。すると、その先には小さな女の子がいた。女の子は一人 で、辺りには親も友達もいる気配はない。

 今にも泣き出しそうな女の子に近付いて、ゆきは優しく訊ねた。

「どうしたの?」

「おかあさんと、はぐれちゃったの……」

「そっか……じゃあ、お姉ちゃんたちと一緒にお母さんを探そうか」

「ほんと?」

「うん」

 ゆきが勇気付けるように笑うと、女の子も屈託なく笑った。

 ……何と、心癒される光景だろうか!

 心の中で僕は叫ぶ。携帯電話を掲げて写真を撮りたい衝動に駆られたがぐっと堪えた。

 待て、早まるな。空気を読め自分。そんなことをしている場合じゃない。もし、空気の読めない行動などしようものなら、きっとゆきに絶対零度の眼差しで睨まれてしまうだろう。

 ああでも撮りたい!あの笑顔を写真に収めたい!でも、駄目だ!耐えるんだ、自分!

 ……などという僕の葛藤はさて置き。

 闇雲に探し回る訳にもいかないため、取り敢えず、交番に行くことになった。ショッピングモールだったら迷子センターへ行ってアナウンスをかけてもらうことができるのに、と思わずにはいられないが致し方ない。

 僕たちが現れるまで、女の子は不安で仕方がなかったのだろう。縋るように、ゆきの手を握ろうとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

 それを見た僕は思わず叫んでしまった。

 決して、ゆきの手を握ろうとした女の子に嫉妬した訳ではない。僕はそこまで心の狭い男ではない……はずだ。これがもし、男子だったらその可能性は無きにしも非ずだが、僕が声を上げた理由は他にある。

 けれども、時既に遅し。女の子はゆきの手に触れてしまった。そして、僕が危惧したことは現実になってしまったのだ。

「冷たい!」

 次の瞬間、女の子が叫んでゆきの手を振り払った。その行動に、ぴしり、とゆきは氷のように固まる。

 ……そう、僕が叫んでしまった理由はゆきの手にあった。雪のように真っ白なその手は、雪のようにとても冷たいのだ。

 案の定、ゆきの手に触れてしまった女の子は、その冷たさに驚いてぐずり始めてしまった。

 泣き出しそうな女の子の様子を見て、ゆきは一瞬傷付いた表情を浮かべた後、ゆっくりと振り返って困ったように眉を寄せながら僕を見つめてきた。

 その瞳は明らかに「どうしよう……」と告げていて、こちらも泣き出してしまいそうだった。

「よ、よーし、お兄ちゃんがおぶってあげよう!」

「……ほんと?」

「ほんとほんと。さあ、来い!」

 場の雰囲気を変えるために無駄に明るく振る舞ってしゃがみ込む。すると、女の子は嬉しそうに僕に突進してきた。予想以上の衝撃に、僕は思わず「うっ……」と呻き声を上げてしまった。

 地味にダメージを受けながらも、決して落とすことのないようにゆっくりと女の子を背負う。目線が高くなって見る景色が変わったからだろうか。機嫌を直してきゃっきゃと笑う女の子に、取り敢えず安堵の溜息を吐く。

 でも、問題はまだ残っている。

 僕は、恐る恐る隣にいるゆきを見遣った。

「……大丈夫?」

「……全然大丈夫。そんなことより、早く交番に行かないと!」

 ゆきの作ったような笑顔が気になったが、ゆきの言う通り今は女の子を交番に連れて行く方が先だ。

 携帯電話を取り出して、地図アプリで交番の位置を確認しながらゆきが歩き出す。

 女の子を背負いながら、僕はその後をついて行った。


 交番までの道のりを、僕たちは他愛もない話をしながら歩いた。と言っても、話しているのは主にゆきと女の子だけで、僕は二人に相槌を打っているだけなのだけれど。

 どの年代でも、女というものはお喋りが好きらしい。先刻までの気まずさなどなかったかのように、ゆきと女の子は楽しそうに話している。

 それを微笑ましく見遣りながら、僕は考える。

 もし、ゆきと結婚して家庭を築くことができたなら、こんな風なのかもしれない。

 ちょっと、いや、かなり気の早い話ではあるが、僕は幸せな未来を思い描いた。

 そんな想像をしていて、どうやらそれが顔に出てしまっていたらしい。ゆきが怪訝そうに言葉を投げかけてきた。

「何にやにやしてるの?誘拐犯と間違えられるから、変な顔しないでよね」

「え、ちょ、その言い方酷くない?」

「おにいちゃん、ゆうかいはんなの?」

「違うよ!」

「やーい、誘拐犯ー」

「ゆうかいはんー」

「だから違うから!」

 瞬く間に女子二人組に弄られる男の図の完成である。

 もし、ゆきと結婚して家庭を築くことができたなら、僕はゆきと子どもに弄られてばかりなのかもしれない。

 ……ああ、いけない。何だか将来が思いやられる。

 僕が不安に駆られ始めたその時、「あ、ママだ!」と女の子が叫んだ。その声が示す先を見ると、こちらに駆けてくる一人の女性の姿があった。

 女の子を下ろしてやると、一目散にその女性のもとへ飛び込んで行った。女の子をぎゅっと抱き締めた女性――女の子の母親の目には、涙が浮かんでいた。

 話を聞くと、母親の方も交番に向かっていたところだったらしい。

 頭を何度も下げる母親とバイバイと手を振る女の子を見送る。親子は離れないように、互いの手をしっかりと握り合っていた。

「よかったね」

「うん、よかった」

 二人して、ほっと胸を撫で下ろす。けれど、ふと何かを思い出したかのように急にゆきの顔が曇った。

 ……もしかして、さっきの事を思い出したのかな。

 じっと自分の手を見つめるゆきを見て、僕は直感した。

「……行こうか」

「……うん」

 僕の言葉に頷いたけれど、その声に覇気はない。これはまずいな、と脳が警鐘を鳴らす。一刻も早く、この場を移動しなければ大変なことになる。

 ゆきの手を握ろうとしたけれど、ゆきが両手を固く握っていたためそれは叶わなかった。仕方が無しに、か細い手首を掴んで、僕たちはその場を後にした。


   *


 そして、今に至る。

 寒空の下、僕たちは公園にいた。天気のせいか、時間帯のせいかわからないが、公園には僕たち以外誰もいなかった。

 僕の予想通り、女の子の前では元気だったゆきも、ここに着いた途端泣き出してしまった。

 恐れていたことが現実になってしまったが、取り敢えず誰もいないからこれ幸いである。いや、こうなると思ったからこそ、人がいない場所に連れてきたのだけれど。

「……いやもう本当に結構ショックだったんだけど」

「だろうね」

 ゆきの様子を見れば一目瞭然だ。

 幼い子は素直だからこそ、その言葉は時に残酷なほど真実となる。だからこそ、ゆきはこんなにも凹んでいるのだろう。

「確かに昔友達に手を振り払われたりはしたけどね……小さい子にまであんな反応されたら流石にこたえるわ……」

「だろうね」

「でも、私のせいではない!不可抗力だもの!」

「そうだね」

 そう、ゆきが言う通り、不可抗力だったのだ。手を握ってきたのは、ゆきではなく女の子からだった。

 勿論、女の子が悪い訳ではない。そうかと言って、ゆきが悪い訳でもなく――確かに手袋も何もしていなくて、外気に触れていたからより一層冷たくなっていたというのもあるのだろうけど――ゆきの手が冷たいのは、ゆきの意思とは全く無関係だからだ。

 これが普通の冷え性だったら、まだ改善策はあるのだろう。けれど、ゆきのは冷え性というよりももっと根本的なところに要因がある。それこそ不可抗力なものなのだ。

「仕方が無いよ」

 だって、と僕は言葉を続ける。

「君は、雪女の末裔なんだから」

 僕とゆき以外誰もいない空間に、僕の言葉は白い吐息となって消えた。


 ―― 私、雪女の末裔なの。


 ある日突然、ゆきにそう告げられた。

 時には冷酷にも人の命を奪い、時には人と交わりを持つ。恐ろしくも美しくて儚い雪の妖怪――雪女。

 ゆきの家系は、その雪女の血を継いでいるのだという。

 俄かには信じられなかった。けれど、ゆきからそのことを告げられた時、僕は妙に納得してしまったのだ。

「ああ、だから雪みたいに肌が真っ白で綺麗なのか」

 勇気を振り絞って言ったのであろうゆきに対して、僕は暢気にもそんなことをのたまった。

 言った時は何とも思わなかったが、僕の言葉に真っ赤に染まったゆきの顔を見て、「自分は何てことを言ってしまったんだ!」と後から慌てたあの頃が何とも懐かしい。

 とまあ、回想はさて置き。今は目の前のゆきをどうにかしなければならない。

さて、一体どうしたものか。

 思考を巡らせるよりも先に、気付いた時には行動に移していた。

 手を伸ばして、ゆっくりとゆきの手を取る。その白い手はぞっとする程冷たくて、本当に雪のようだった。あの女の子が思わず手を振り払ってしまったのも、強ちわからなくもない。

 握りしめた小さなその手は、僕の大きな手からどんどん体温を奪っていく。それでも、振り払うなんてことはしない。

 ゆきの手は、冷たくてもちゃんと血が通っていて、例え雪女の末裔であろうとも、僕にとっては普通の女の子の手なのだ。

 突然の僕の行動に、ゆきがびっくりした様子で顔を上げる。真っ直ぐに伸びた綺麗な黒髪がさらりと肩から零れ落ちた。

 泣きはらして真っ赤になってしまったその目をじっと見つめて、僕はゆきに笑いかける。

「でもさ、手が冷たい人は心が温かいって言うし」

 昔からよく聞く言葉だけれど、本当にそうなのかはわからない。でも、ゆきの心が温かいのは間違いない。心が冷たい人間なら、迷子を見ても自分には関係ないことだと放っておくだろう。

 でも、ゆきは違う。迷子の女の子に直ぐに駆け寄って声を掛けた。女の子と話している時は、女の子の目線に合わせていた。その後傷付きながらも、最後まで女の子を親元に送り届けた。

 ゆきは、心優しい普通の女の子だ。僕は、そんなゆきが好きなんだ。


 ――この手から、少しでも僕の気持ちが伝わったらいいのに。


 僕はそう思うのだ。でも、口に出しては言わない。いや、言えない。恥ずかしすぎて無理だ。理解してもらえないかもしれないが、男という生き物は――少なくても僕は、好きな子の前では見栄を張りたいのだ。

 そんな僕の気持ちなど露知らず、ゆきが首を傾げて僕に訊いてきた。

「それじゃあ、手が温かい貴方の心は冷たいってこと?」

「冷たいのなら、こんなことはしないよ」

「……それもそうね」

 ふふ、とゆきが笑う。幸せそうな笑みに、僕は何処となくくすぐったさを感じた。

 力の入れ方を間違えたら折れてしまいそうなその手に、優しく力を入れる。僕の手の熱が少しずつゆきの手に伝わっていく。しっかりと繋がれた手は、とても温かい。

「……ねえ」

「ん?どうかした?」

「何だか、すっごくあついんですけど」

「そう?」

 真っ白な肌を赤くさせて何処か恥ずかしげに悪態を吐きながらも、ゆきは僕の手を振り払うなんてことはしなかった。

 僕たちは、お互いに顔を見合わせて、どちらからともなく笑い出す。

 それに呼応するかのように、空から真っ白な雪が降り注いできて、僕たちの手の上に優しく舞い下りてきた。

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