まぼろしにゆめを
悪い冗談か、体面を気にする兄が嘘を吐いているのだと思った。しつこく確認するわたしに呆れ果てた兄が翌日持ってきた戸籍謄本を見るまでは。
ない。兄の妻やつい先日引き取った“あの子”の名は載っているのに、肝心の彼女の名前が――まるで、最初から存在していなかったかのように。
パニックに陥ったわたしを、兄は『病気によるショックで記憶が混濁している』と判断した。もういい、変なことは考えるな、ゆっくり休め――そう言い残し、それっきり、兄が見舞いに来ることはなかった。
何が起きているのだろう。モモが消えた? そもそも、そんな少女は実在していなかった? ……そんな馬鹿な。わたしの今までの日々が、孤独で気を病んだがための白昼夢だったというのか。あの声が、眼差しが、笑顔が、光が――全部幻だったと?
そんなことがあってたまるか。
あるいは、これも彼女の魔法によるものなのか。彼女はあの日、彼女の望みだけが存在を許される世界へ行ってしまった。ドロシーやアリス、浦島太郎のように家に帰ることを望まなかった。
根拠のない推測である。むしろ、わたしが『そうであってほしい』と必死で縋り付く浅はかな希望以外のなんであろうか。何しろ彼女のことを覚えているのはわたしひとりきりで、それを証明づける確たる証拠は存在していないのだ。わたしの気が違っていないと言い切れる自信は、今のわたしにはない。
異変はそれだけにとどまらなかった。寝台に寝転がり、点滴を吸い取るだけの日々の中、せめて彼女との日々を思い返そうとし――彼女の名前を思い出せなくなっていることに気が付いた。少なくとも“モモ”ではなかった。もっと愛らしく、チャーミングで、彼女にぴったりの名前であったはずなのだ。何度も呼び、焦がれたあの名が、喉元から出てこない。名前だけではない、声や顔も、少しずつおぼろげになっていく感覚があった。
このままわたしも、彼女のことを忘れてしまうのか。
こうして筆を執ったのも、実を言うとそれが理由であった。思い出して書き留めておけば、彼女のことを記憶にとどめておけると思いたかった。もうあといくら保つのか、下手をすれば数日もないかもしれないような余命を、たったひとりきりで過ごすなんてとても耐えられない。あの日々が永遠に戻ってこないことはわかっていても。
彼女の存在が現実か、それとも幻か。どちらであっても、今となっては些細なことである。わたしという生き物の長い闇の中の生に、彼女というまばゆい光がほんのわずかの時間でも存在してくれたということが、わたしにとっての真実なのだ。だから、記したい。刻みたい。祈りたい。彼女という人を。彼女がくれた温もりを。彼女にしてしまった仕打ちを。わたしが生きた証として。
さて、これがわたしの罪、祈りのすべてである。もはや書くべきことは何もない。まだあるかもしれないが、それは多分既に記憶から取りこぼしてしまっている。あとはもう、この世界からいなくなってしまった彼女の幸せを願いながら、天井を見つめて時を待つのみである。
しかし、看護師に用意してしまったノートとペンがひどく余ってしまった。もう書くことはないのだが、わたしが死んだあと、新品同然の筆記具がそのまま処分されてしまうのはなんだか忍びない。まだ時間があることだし、もう少し、何か書いてみようか。
――そういえば、彼女との約束をすっかり忘れていた。書きかけのあのノートは、まだ離れにあるだろうか。何を書くつもりだったかはすっかり忘れてしまったが、どうせなのだ、また一から考えてみよう。
タイトルは既に決まっている。あのオルゴールのメロディ、あれの曲名をやっと思い出せた。きっとあれがぴったりだと思う。
トロイメライ。
わたしという汚泥から、誰よりすてきなきみにおとぎ話を贈ろう。
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