時空旅行記
トンネルを行く。八十竹はのそのそと尽きない暗闇を歩いていく。急いでいるのは星のほうで、飛び去っていく光は足元を照らしもしない。時の流れが見えるだけで、彼らは同じ方向に向かいはしない。次にどのように巡り合ったとしても、縁などではない。
星の間を渡って、次に立つのはいつの地か。尋ねても知る者はいない。過ぎ去ったことは語られない。暗闇のトンネルが映す時の記憶は書き換えられることがない。埃をかぶった本の文字は砂になった。
八十竹は闇の中でただ退屈していた。みな闇の中で眠っている。墓標がこんなにも並んでいては、語りかける気も失せる。彼らを覚えている者はいない。八十竹だって彼らを知らない。あるいは見知った顔もあるかもしれないが、全ては無名の墓石だ。寝たふりをして蹲っている大岩もある。眠れる龍のようなもので、起こすと大喧嘩になって生きとし生けるものが滅びる。
店の品に紛れた闇、空の溜まりや季節の境目、災厄の翡翠、秘密の抜け道。触れがたい世界がどれほど転がっているだろう。カウンター裏の部屋が彼の書斎であることは知られていない。書斎に詰まった年表を辿り過去に立ち、歴史の傍観者になる。八十竹は度々この退屈なトンネルを通る。時の高速道路を通って、三千年を一跨ぎ。出掛けたまま元の地に帰らなくなったり、長く住んだ地に再び辿り着けないこともあったから、どこの時代の生まれだったかすっかり忘れてしまった。たくさんの故郷と思い出の地、謀と戦乱も墓標に刻まれてしまえば風化する。時を渡ることに準備はいらない。手ぶらでいい。夕飯を買いに行くように、衣の裾を引き摺りながら歩けばいい。
買い出しに出かけて元の店に戻るとき、八十竹はちょっとだけ不思議な気分になる。何度も見た店の看板がひどく懐かしいものに見える。もしかしたら長いこと店を空けていたのかもしれない。そう思って扉を開けると子龍に出迎えられる。リウセイがやって来てからずいぶん経つ。八十竹が旅物屋にきちんと戻るようになってからも、ずいぶん経つ。今日だって、夕飯の支度までには帰るのだ。彼は今、生活に忙しく、眉間に皺を作る暇が減ってしまった。
どうして時を彷徨う渡り鳥になったのか、始まりすらも遠すぎて、思い出そうと遡ってみるものの足跡を辿れない。世を知りながら人に知られることのない幻影は記録にも残らない。記録があっても今頃は砂になっている。積み重なった時間の中では砂粒と同じ。墓標に加わることもなく、風に吹かれて散っていく。生き続けるとは寂しいものだ、さらさらと砂になった自分を見送る。もしかしたら、暗闇を埋める墓標は全て自分のものかもしれない。真実から遠ざかる。
トンネルを抜け、見覚えのない街に出て、ぶらりと市を回る。野菜や干し肉の調理方法を聞きながら揃えていく。籠を編む者が天使を歌っている。どの時代でも人は天使の物語を歌う。漂流する天使に実体は無いが、時を越えて生きている。なんと確かな存在か。風呂敷に包んだ荷物がずり落ちたのを見て、籠編む詩人が売り物を差し出す。ポケットに入れていた黒曜石と交換。小物が入る小さな籠もつけてくれた。これに子龍への土産を入れよう。
「天使を知っているか」
長いトンネルを通って店に戻る。書斎から出ると、子龍が変わらず寝転がっている。
「竹さんには尻尾があって、暗闇と繋がっているんだ」
「寝ぼけているな」
小さな籠に花を入れて子龍に渡した。いい匂いだねえ。子龍がうっとりする。野菜の入った籠は台所に置く。夕飯には早いので、店の整頓でもしようか。カウンターには小銭が乗っていて、留守の間子龍が来客対応していたことが分かる。
「龍は天使の話はあまり語らないよ」
子龍はまだ寝転がっている。花びらを数えながら「知っているのは、もういないことだけ」と答えた。街で聞いた天使の童話を歌い始める。衣を干して晴れ間を作り、煙突から飛び出して雨雲を呼び、夜空に針で穴を開けて星を作った。「いたずら好きな天使だなあ」
と一度歌を止めて感想をはさむ。最後に月に飛び込んで、天使は夜の裏側に姿を隠してしまう。街の者は天使を知らないが、心の片隅に住む名前の無い生き物について、真実が埋もれるほど無数の物語を作り、語り継いできた。
「子守唄に抱かれて、天使は目覚めない」
「みんな眠ってから顔を出すのさ」
「眠りたがらない子龍がいるうち、天使の出番は無いな」
「その通り」
そして子龍はもう一言、欠けた器を悲しむように言う。
「天使はたった一つきりで、失われてしまったら、元には戻らないね」
子龍は花を置いて起き上がった。台所に消え、小瓶に水を入れてから戻って来る。八十竹が出先で聞いた歌を口ずさんでいる。手に持った籠の目から、種や羽根を落として歩く、歩いた一本の道は草花に彩られ、過去から現在まで繋がっているという内容だった。
「人の街には子守唄が溢れているね」
天使を起こさないための、そしてこれから眠りにつく全てのもののための子守唄。鎮魂歌に変わることはないだろう。眠れ、ねむれと歌い続ける。世界は眠るように終わる。天使が目覚めるのは、誰もが眠りについてからだ。
「起きたら誰もいないだなんて、寂しいね」
夢から醒めて、夜の裏側から顔を出した天使は何を思うのか。
「子龍よ、一族とともに眠らずに街にやって来たのはどうしてだ」
「人だけがいつまでも眠らなくて、寂しい種だと思ったからだ」
八十竹は小瓶を受け取りカウンターに飾る。茎が細かな気泡を纏う。ふつふつと浮かび上がる泡を目で追う。弾ける音は天使の眠りを邪魔しない。
「子龍よ、可愛らしい俺の友人。人とは孤独なものだが、おまえが孤独に過ごす必要はないのだよ」
リウセイもカウンターまで椅子を引っ張ってきて、小瓶の気泡を数え始めた。それから花の向きを整え、色の調和を取る。花を入れてきた籠の中には、青いドングリが代わりに入れられていた。
「人は孤独であり、そして竹さんは寂しがりだ」
「確かに孤独ではあるけれど、今はそれなりに楽しいよ。おまえさんがいるからな」
人はなぜ寂しいのだろうかと子龍は問う。
「誰かが側にいようと、暮らしが落ち着いていようと、幸福であろうと、我々はそれとは無関係に孤独を抱えているものだ。この孤独とは、空っぽと言い換えてもいい。うつろの穴が空いているのだ。それは寂しいことだ。埋まらないから。でも、空っぽを持っているのは良いことだ。何でも入れられる。なににでもなれる。どこにでも行ける」
おまえの中にも空っぽがあるか? 八十竹が聞くと、リウセイは小瓶を見つめて考えた。
「あるのだと思う。捕まえたことはないけれど、空っぽの器だから見えないけれど。だからこそ、名前のない場所に、名前のないものが、あるのだと思う。それは寂しいことで、孤独で、孤独を持っていることで体がふわふわするけれど、どこにでも行ける」
満たされた器にも、気泡のような空っぽの空間があるのだ。そして翻るカーテンの形を留めた花弁に目を向けて続ける。
「孤独とは悲しいけれど、名前の無いままどこまでも飛んでいきたい。綿毛のように、渡り鳥のように、空の向こうまで。空とはなんと悲しい場所だろう。でも、高い空の音が聞こえる。風が渦巻く音が。雲が生まれる音が。空はからっぽで、心によく似ている」
夜空の向こうの天使や、暗闇のトンネルの航行者も、からっぽの中に花や月を放り込んで、空を漂うのだ。寂しさを埋めることなく、歌い紡ぐ。
「人の世が、眠らない者のためにお祭りをしているのだから眠るにはもったいない。私だけじゃあないよ、異種も、幻も、離界からも、街に遊びに来るんだ。まだ眠らない多くの種が、行く末を見守っている。私も楽しみなんだよ。最後のお祭りさ」
時代に属さぬ時空の旅。故郷や始まりは遠く霞む。四季は忘れてしまうほど緩やかで、夢と現が混ざり始める。それぞれ抱えた寂しさすらも、夢の中では一つになって。忘れてしまったけれど、忘れてしまうけれど。
「見届けようか、夜明けまで」
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