第4話 空中散歩
ふと気が付くと、岩から身を乗り出して、淵に飛び込もうとしている自分に気づき、慌てて供養塔まで戻った。慌てたせいか、息苦しく、身体の芯から湧き上がってくるような寒さに震えが止まらない。居ても立っても居られなくなり、何者かに追い立てられるように、小走りで来た時につけた足跡を辿った。何度か転びそうになりながらも息を切らせて車に辿り着くと、扉を開けるのももどかしく乗り込んで、ドアをバタンと閉めた。冷えた身体を温めようとエンジンをかけてヒーターを一番強くしたが、なかなか車の中が温まらない。どこからともなく氷のような冷たい風が首筋をなでていったので、慌ててパワーウインドウのスイッチをカチカチやったが、窓は全部閉まっている。この場にいてはいけないような気持ちに押されて、着ていたジャケットを脱ぐことなくシートベルトをすると、車を奥多摩湖方面へと発進させた。
花魁淵を離れると、だんだん車内は暖かくなってきて、気持ちは少し軽くなってきた。やがて奥多摩湖にかかる深山橋のところまで戻ってくると、前方の信号が赤に変わった。赤信号を待つ間、奥多摩湖に目をやると、赤地に白いラインのロープウェイが湖面の上を気持ちよさそうに空中散歩している様が見て取れた。今まで何回もここを通っているが、奥多摩湖の上を走るロープウェイがあるなど、見たことも聞いたこともない。ロープウェイの索道を辿ると、深山橋を渡った対岸の山腹に駅があるようだ。意味もなく無性にロープウェイに乗りたくなると、信号が青になると同時にウインカーを右にだして、深山橋を渡っていた。
橋を渡ると直ぐに左折し奥多摩周遊道路へと車を進めた。やがて右手上に駅が見えてきたので、駅前にあった駐車場へと乗り入れた。駐車場には「川野駐車場」と看板がでていて、車の窓越しに山の斜面を見上げると、『奥多摩湖ロープウェイ 三頭山口駅』と書かれた看板が見えた。車の時計を見ると15時10分とデジタル表示されている。まだ大丈夫、ロープウェイに乗って対岸に行き、戻ってくる時間はありそうだ。
車の扉を開けると、氷のような冷たい風が吹き込んできて、まるで富士山に登った時のように、再び息苦しくなった。一瞬躊躇したがロープウェイに乗りたい気持ちが勝り、大きく深呼吸して息を整えると車を降りた。青空が広がり陽光を感じるのに、全く暖かく感じないのは何故だろう。
駐車場の中心部にはロープウェイの索道を支える支柱が聳え立っていて、他の車は一台も止まっていない。貸切状態で空中散歩が楽しめそうだ。リモコンキーを押して車のドアをロックすると、道路を渡り山に刻まれた石段を駅へと急いだ。
雪の積もった階段をどうにか上りきると、駅が見えてきた。「そうだ、まずは駅舎の屋上から奥多摩湖を眺めてみよう。」
幸い屋上へと通じる外階段には雪が積もっていない。
屋上に上がると、眼前には奥多摩湖が広がり、周辺のそそり立つような山々が織りなす絶景に息を飲み込んだ。雪の積もった斜面は微妙な色の濃淡に、白いビロードの布を敷き詰めたように見える。
ロープウェイの索道をたどると、これから渡る湖の上を一直線に索道が伸びていき、対岸には青梅街道が走っているのが手に取るように見える。10円玉を入れると見ることが出来る、大きな双眼鏡が数個屋上に設置されていた。近づいてみると、なんと双眼鏡には『Nikon』と書かれている。思わず10円玉を2枚取り出すと、「20円」と書かれた投入口に入れた。どこか遠いところででカチッと音がしたかと思うと、今まで真っ暗だった双眼鏡の接眼レンズから、明るい光が見えている。さっそく接眼レンズに目を当てて景色を覗くと、遠くの景色が手の届くところに近づいたかのように見える。対岸の青梅街道には子供の頃よくみかけたようなクラッシクカーが数台走っていた。
屋上からの階段を下りて建物に入ると、切符売り場があった。
「いらっしゃいませ、大人80円です。」
「じゃぁ大人1枚ください。」
幸い財布には10円玉がジャラジャラ入っていたので、10円玉を窓越しに渡すと、固い厚紙の切符とパンフレットを受け取った。
「・・・ん、この切符110円って書いてある上に80円ってハンコが押してある!?」
「あ、お客様、ただいま割引運賃適用中なので。」
「なるほどね、冬場は観光客も少ないのだろう。」と納得して改札口へと向かうと、駅員さんに切符を切ってもらって薄暗い通路を進んだ。
通路の途中には、半開きになった扉があった。扉の上には、「機械室」と書かれた木の札が貼られている。誰もいないのをいいことに、扉をそおっと押し開けて一歩足を踏み入れると、ぷ~んと機械油の臭いが漂ってきた。照明がついていなかったので、最初は真っ暗で何も見えなかったが、目が慣れてくると、目の前には大きなコンクリートブロックが現れてきた。索道にテンションをかけている重さ数トンはあろうかと思われる大きなブロックだ。ブロックの上に乗ると、かすかに揺れる。周りを見渡すと、電動機などの機械は見られないので、対岸の川野駅にあるのだろう。
機械室を出て、ホームに上がると『みとう号』と書かれたヘッドマークを付けたゴンドラが待ち構えていた。
「やった、一番乗り・・・というか、やっぱり今日は僕だけの貸切運行だ!」
みとう号に乗り込むと、異様な寒さに驚いた。まるで冷凍倉庫の中に入ったかのような寒さで、冷気が身体の芯から湧き上がってくる。
ジャケットの襟を立てると、ファスナーを一番上まであげて冷気が入らないようにして、先頭の長椅子に座った。ゴンドラは、大人が6〜7人乗ったら満員になるくらいの小ぶりな大きさだ。切符売り場でもらった『奥多摩湖ロープウェイ』と書かれたパンフレットを開くと、美しい奥多摩湖の上を走るゴンドラの写真とともに、付近の見どころやお土産ものなどが書いてある。裏側には、全長621m、ゴンドラの分速180m、所用時間3分と書いてあった。
発車のベルが鳴ると、軽いショックとともにゴンドラは湖の上へと飛び出した。対岸を走る青梅街道の橋がきれいに見えている。橋をよく見ると、ボンネットバスが渡って行く。今日は大きなクラッシクカーのイベントがあるのだろう。
湖の中心までやってくると、前方から『くもとり号』というヘッドマークを付けたゴンドラがやってきた。すれ違いざまくもとり号を見ると、ゴンドラには誰も乗っていなかった。
わずか3分の空中散歩はあまりにも短く、対岸の川野駅が間近に迫ると、ゴンドラは急に減速しはじめた。
・・・・つづく
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