主家ご謀反

 ――清須きよすの織田大和守やまとのかみ家(信秀の主家。尾張下半国守護代)が突如裏切り、古渡ふるわたり城を攻めている。


 信長からの驚くべき急報を受けて仰天した信秀は、華厳寺けごんじの本堂に重臣たちを集めて評定を開いた。


山口やまぐち教吉のりよし(信長の側近。鳴海城主・山口教継のりつぐの子)。尾張の今の状況を皆に説明してくれ」


「ハハッ」


 信秀に命令されると、山口教吉は緊迫した面持ちで「主家ご謀反」の詳細を居並ぶ諸将に語りだした。


「これは守護代・達勝みちかつ様のご意志ではありませぬ。信長様が忍びを使って調べさせたところ、守護代家の家宰かさい(家長に代わって家政を行う者)・坂井さかい大膳だいぜんの暴走だということが判明しました。今、守護代家は坂井とその一党に乗っ取られているようです――」




            *   *   *




 ここで、時間を少しさかのぼる。


 尾張国で異変が起きたのは、織田軍が響庭あえば合戦で斎藤軍を打ち破る五日ほど前のことである。


 守護代・織田大和守達勝の居城である清須城には、「共に信秀を討とう」という斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)からの誘いの手紙がひっきりなしに届いていた。


 信秀を憎む家宰の坂井大膳は、(今こそ信秀を滅ぼす絶好の機会)と考え、主君の達勝に毎日のように決起を促していた。


「殿。何故なにゆえ、斎藤殿の誘いを無視なさるのですか。我らと斎藤殿が手を組めば、尾張国のまつりごとを牛耳る奸臣を除くことができまする。何とぞご決断を」


 その日も、大膳はでっぷりとした肥満体を揺さぶりながら熱弁を振るい、達勝を説得していた。

 大膳の一味である坂井甚介じんすけ河尻かわじり与一よいち・織田三位さんみらも清須城に登城しており、「大膳殿の申される通りでござる。奸臣が居城をがら空きにして美濃に攻め入っている今こそ好機!」と口々に訴えている。


 だが、達勝は、大膳たちがいくら言っても不愉快そうな顔をしているだけである。


「……大膳よ。奸臣とは、いったい誰のことじゃ」


「それはもちろん、信秀のことです。奴は守護代家をないがしろにし、好き勝手に戦をしている奸臣。今のうちに排除せねば、尾張国はあの男の物に――」


「黙れッ! このたわけどもが! 信秀は、武衛ぶえい様(尾張守護・斯波しば義統よしむね)とこのわし陣代じんだい(主君の代わりに領内の武士を統率して敵国と戦う役)に任じて、尾張国の安寧と天下静謐せいひつの実現のために戦っておるのだ。信秀の胸中によこしまな心など存在せぬ。信秀を蹴落として己が尾張国の実権を握ろうとしておる奸臣は、うぬらのほうであろう!」


 達勝は老齢ながらその目は曇っていない。信秀の大義の戦を理解し、大膳とその一党の野望を見抜いている。「儂が信秀を裏切ることなど有り得ぬ!」と怒鳴りながら立ち上がり、大膳のあぶらぎった顔を杖で叩いた。大膳はギャッと叫び、流血したひたいを手で覆う。信秀排斥を訴えるたびに老主君に殴られているこの男の顔には、たくさんの傷跡があった。


「帰れ! 帰れ! 汝らの醜い顔など見とうはないわ!」


 癇癪かんしゃく持ちの達勝は興奮し、大膳の後ろに控えていた坂井甚介らも激しく打擲ちょうちゃくした。


 大膳たち奸臣一党は広間内を必死に逃げ回り、達勝は杖を振り回して彼らを追いかけ続ける。蹴鞠のように丸々とした体の大膳は、動きが遅いのですぐに捕まり、またもや額を数度叩かれて悲鳴を上げた。


「義父上。これは何事ですか。お体に障りますゆえ、おやめくだされ!」


 養子の彦五郎ひこごろう信友のぶとも(ケシカラン殿・織田因幡守いなばのかみ達広みちひろの実子)が騒ぎを聞きつけて現れ、老いた養父を止めようとした。達勝はここ数年病気がちで、興奮すると体調を崩すことが多い。こんなにも激昂させたら危険だ。


「の、信友様! お助けくだされ!」


「ケシカラン奴らめ。何をやっているのだ。義父上を興奮させるなとあれほど……ああ⁉ ち、義父上⁉」


 信友が大膳を叱ろうとしたその時。

 達勝は、杖を手に握ったまま唐突に倒れた。


 驚いた信友と大膳たちは、達勝の元に慌てて駆け寄る。「義父上! しっかりしてくだされ、義父上!」「守護代様!」と呼びかけたが、言葉は返って来ない。意識が無いようだ。


「い……いかん! これはいかんぞ! 薬師くすし(医者)を……早く薬師を呼ぶのじゃ!」


 動転した信友は唾を飛ばしながらそうわめく。信友は四年前に実父を戦で失ったばかりだ。養父である達勝まで死なせたくはない。


 しかし、広間にいる家臣たち――坂井大膳とその一党はすでに冷静さを取り戻していて、動く気配が無い。誰も薬師を呼びに行こうとはしない。


「信友様」


 押し殺した声でそう言いながら、大膳は信友ににじり寄る。額から滴り落ちた血で真っ赤に濡れている唇を信友の耳に近づけ、この蹴鞠男は恐るべき魔のささやきをした。


「これは、天の助けかと」


「天の……助け? 義父上がお倒れになったのだぞ。おぬしは何を申して――」


「守護代様は我らの敵である信秀に肩入れし、正直言って邪魔でした。早くくたばってくれないだろうかと、それがしはずっと思っていたのです。

 ……ようやくその時が来ました。薬師など呼ぶ必要はありませぬ。このまま守護代様の意識が戻らずに逝去されることを期待して、我らは我らの為すべきことを実行しましょう」


「我らの為すべきことだと……?」


 信友の声は震えていた。あまりにも不忠で非道な大膳の言葉に戦慄せんりつしていたのである。


 大膳は主君の生き死にを歯牙しがにもかけていない。むしろ死んでくれたら都合がいいとさえ考えている。ここまで恐ろしい男だとは思ってもいなかった。この男の冷酷さは美濃のまむし・斎藤利政に匹敵するものがある。大膳の言うことに従わなければ、自分も何をされるか分からない。


「こ……この私に何をせよと申すのだ」


「決まっているではありませぬか。信秀の居城・古渡を奇襲するのです。我ら清須衆も信秀の美濃攻めに兵力を取られてしまっていますが、主のいない城ならば小勢で落とせるはず。城にいる信秀の妻子を血祭りに上げ、その勢いに乗じて那古野なごや城の信長を攻め滅ぼしましょう。さすれば、美濃で斎藤軍と戦っている信秀は帰る場所を失い、我らに降伏するしかありませぬ。投降するために清須に登城した信秀を討ち果たせば、尾張国は信友様と我ら一党の手中におさまりまする」


 大膳は醜悪な笑みを浮かべ、自らの企みを語る。


 慎重な性格の信友は(そう上手く事が運ぶであろうか)と疑問に思ったが、弱気なこの青年はいなと言う勇気が無い。物の怪のごとき心を持つ大膳が恐くて仕方がなかった。


(ケシカラン……。大膳はケシカラン。何という悪しき家来じゃ。されど、大膳に逆らうのは恐ろしい。信秀を討つ絶好の機会だというげんは一理あるとも思う。やるしかないのか……)


 実父の達広は信秀が主導した美濃攻めで死んだ。父が死んだのは信秀のせいだと、信友は恨みに思っている。大膳の悪魔の囁きに従うのは天の道に背く行いかも知れないが、実行に移すのならば今しかないだろう。


「信友様。達勝様が死ねば、あなた様がこの国の守護代になるのです。どうかご決断を。信秀が斎藤利政殿を討ち取り、美濃を制した後では遅いのです」


 大膳は信友の肩を強くつかみ、血走った目で迫る。肩に痛みが走り、信友は顔をしかめた。決断しなければ殺されるかも知れない……!


「……あい分かった。ただちに出撃し、古渡城を攻めよ。城を守る信勝(信長の同母弟)を討ち取り、信秀の正室も捕えるのじゃ」


「御意。我らにお任せを」


 かくして、大膳率いる清須衆は、意識不明の主君を放置したまま決起した。


 織田信秀の運命は、この大膳の陰謀によっていっきに暗転していくことになるのである。








<織田達勝の死没年について>


 信秀の主君である織田大和守達勝は生年も没年も不明です。

 谷口克広氏著『天下人の父、織田信秀』(祥伝社新書)によると、


・現在確認されている織田達勝の最後の発給文書は天文12年(1543)2月に熱田加藤氏に宛てたもの。


・天文19年(1550)7月に熱田社座主憲信が記した覚書の中に織田達勝と思われる人物が登場する。


・天文22年(1553)9月に「織田大和守勝秀」という別の人物が法華寺に宛てた判物を発給している。(達勝と勝秀の関係は不明)


 とのことです。


 つまり、1543年ごろまでは達勝自らが守護代の政務を執っていたけれど、それ以降は老齢ゆえか目立った活動が見られなくなり、この物語の現時点(1548年)では辛うじて生存しているもののだいぶ弱っていたのではと推測されます。

 1553年9月の時点ですでに亡くなっているようですが、信秀の没年(1552年)よりも前なのか後なのかは不明です。


 何はともあれ、信秀と協調路線をとっていた主君達勝の衰弱と影響力の低下が「主家ご謀反」につながったのではと考えられます。

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