先陣の大将

 斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)の軍勢は、腰を落ち着ける暇もなく、稲葉山いなばやま城を再び発った。


 敵軍を迎え撃つためには、信秀よりも先に大野郡おおのぐんに着かねばならない。利政は村の猟師に道案内をさせ、美濃領内の民だけが知っている抜け道をひた走った。


「このまま進めば、我が軍と織田勢は大野郡の饗庭あえばあたりで激突する。喜平次きへいじよ、かの地の豪族の鷹司たかつかさ政光まさみつに急使を送れ。『尾張の兵が間近に迫っておるゆえ、ゆめゆめ油断いたすな』と伝えるのじゃ」


 利政は、過酷な急行軍に根を上げて脱走しようとした兵を三人ばかり斬り殺すと、血刃を兵の死体でぬぐいながら、三男の喜平次にそう命令した。


「父上。鷹司政光の先祖は公家です。根っからの武家ではないあの者を信用してもよろしいのですか? 臆病風に吹かれて、我らが到着する前に織田方に寝返るのでは……」


「その心配はいらぬ。政光は、かつて俺の後ろ盾を得て兄を討ち取り、家督を奪取したような気性の荒い男だ。敵の進攻に恐れおののくはずがない。家督争いの際に手を貸してやった借りもあるゆえ、政光が裏切ることはまず無いであろう」


「なるほど。仰せごもっともです。早速、使者を遣わします」


「うむ。…………皆の者、何をのそのそと歩いておる。急げ急げ。遅れたら死罪、逃げれば一族皆殺しじゃ。殺されたくなければ死に物狂いで走れいッ。敵軍に遅れをとってはならぬッ!」


 利政はそう叫ぶと、自分の目を盗んで隊列から離れようとしていた足軽をまた一人斬殺し、馬の尻に鞭打った。


 六角軍の撤退。

 度重なる強行軍。

 様々な要因が重なり、斎藤軍の士気はすでにボロボロだった。

 大野郡での決戦に勝つためには、どうしても現地の地侍たちの合力ごうりきが必要である。過去に鷹司政光に恩を売っておいて良かった、と利政は馬を走らせながら心中呟くのであった。




            *   *   *




 利政の軍勢が大野郡饗庭に到着する半日ほど前には、周辺地域の国人衆こくじんしゅう(地方豪族)たちは鷹司政光の支城である相羽あいば城に集結していた。


(鷹司ら大野郡の国人衆は戦上手が多い。だが、この地で織田軍と戦っても、勝てるかどうか……)


 相羽城へと向かう道中、利政は何度も悲観的な感情にとらわれていた。


 この饗庭荘の一帯は平地が多く、大軍勢が力押しで攻めやすい地形である。

 逆に言えば、伏兵や奇襲を駆使する戦法が得意な利政のような武将にとっては不利な場所だ。相羽城に立て籠もっても、小規模の平城なので、とてもではないが耐え切れないだろう。不利を承知で、野戦で勝負を決するしか道はない。


 信秀はそこまで見通したうえで、平野が決戦の地になるように誘導したに違いない。今回の戦は、完全に信秀の戦略が利政を圧倒していた。


(清須の織田達勝みちかつ(尾張下半国守護代)が挙兵したという報せはいまだに来ない。あれだけ裏切りをそそのかす書状を送ったというのに、達勝・信秀主従の絆は壊せなかったか。こうなったら、この地の豪族たちの奮闘に期待するしかないな……)


 敵に策略で翻弄される経験がこれまでほとんど無かった利政は、すっかり精神的に疲弊してしまっている。やっとの思いで相羽城に入城した頃には、疲労のせいで顔が死人のように青ざめていた。


「おおー、利政様! お待ちしておりましたでおじゃる! 敵を迎え撃つ備えは万端整っておりまするでおじゃる!」


 城門で利政の軍勢を出迎えた武将が、おじゃるおじゃるうるさく言いながらあいさつをした。饗庭荘の領主の鷹司政光である。利政は、彼の奇妙な語尾に思いきり眉をひそめ、「何じゃ、そのおじゃる口調は……」と言った。


「政光よ。数年ほど会っていないうちに、なぜそんな奇怪きっかいな喋り方になったのだ」


ちんが家督を継いだ鷹司家は、五摂家ごせっけ(藤原氏の嫡流である近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家のこと)の血を受け継ぐ高貴な家柄でおじゃる。利政様のおかげでその鷹司家の当主になったからには、朕も高貴な振る舞いをせねばなりませぬでおじゃる。それゆえ、普段からみやびな喋り方をするように心がけているのです、でおじゃる」


「やめろ。ただの阿呆にしか見えぬ。あと、自分のことを『朕』と言っていいのは帝だけだ」


 げんなりとした表情でそう叱ると、利政は明智・稲葉・安藤・氏家ら主だった武将を引き連れて城内に入った。


 相羽城の小さな館には、鵜飼うかい弥八郎やはちろう筑摩ちくま弥三右衛門やざえもん横巻よこまき彦三郎ひこさぶろうら近隣の国人衆たちが集い、軍議が始まるのを待っていた。


 上座に座った利政は、居並ぶ猛将たちをざっと見回した後、


「こたびは信秀めにしてやられた。ここまで美濃の奥深く攻め込まれたのは、この利政の落ち度じゃ。すまぬ」


 と珍しく殊勝なことを言い、目に涙をにじませながら素直に謝罪した。


 利政は戦略で信秀に負け、斎藤軍の本隊は疲弊しきっている。この危機的状況下で逆転するためには、今ここにいる大野郡の豪族たちの手勢に頼らねばならないのである。ここはできるだけ下手に出るべきだ。そう考えたからこそ、横暴な君主としての顔を隠し、味方の武将たちに弱みをわざと見せたのだ。


(……おいおい。まむしが臭い芝居を始めたぞ)


 利政の性格を知り抜いている稲葉いなば良通よしみち一鉄いってつ)、安藤あんどう守就もりなりら部将たちは顔をしかめ、一様にそう思っている。彼らは利政の狂言に何度もだまされてきたのだから、当たり前である。


 しかし、この地の国人衆たちにはそれなりの効果があったらしく、哀れを装う利政の姿を見てもらい泣きしている者が数名いた。中でも、鷹司政光は利政に恩義があるため、彼の役に立ちたいと考えている。


「利政様! 我ら大野郡の国人衆にお任せくだされ、でおじゃる! この鷹司四郎右衛門尉しろうえもんのじょう政光が先陣を切り、敵大将・織田信秀の首を見事持ち帰ってみせましょうぞ、でおじゃる!」


 と、こぼれ落ちる涙を拭いながらそう豪語した。


「お……おじゃる……? 今さっき、おじゃると申されたか?」


「鷹司殿。何故なにゆえ、そんな奇怪な喋り方なのじゃ」


 稲葉良通と安藤守就にそう問われ、政光は「……みやびゆえ」と重々しい声で答える。本人は大真面目なのだが、怪しいおじゃる口調はふざけているようにしか聞こえない。


(馬鹿だ……。思いきり馬鹿だ……。しかし、大馬鹿だが、こいつは戦だけは強い。きっと織田勢に大きな痛手を負わせてくれるであろう)


 利政は内心ほくそ笑み、「おお、頼もしや。野戦上手のおぬしが先駆けしてくれるか。百人力……いや、千人力じゃな!」と大げさに喜んでみせた。政光はおだてられたらどこまでも木を登っていくような性格だから、とことん褒めてやると、実力の三倍以上は発揮するであろう。


「おひょひょひょ! 朕……じゃなかった、麿まろが織田軍などぶちのめしてやるでおじゃる!」


「うむ。これで先陣は政光で決まりじゃな。次は二陣の大将じゃが……」


「待て待て! 待たぬか、利政!」


 鋭い声が、軍議を進めようとする利政をさえぎった。ギョッと驚いた一同は、一斉にその声の主に視線を向ける。


 斎藤軍の中で堂々と利政を呼び捨てにする武将といえば、一人しかいない。一族の小見おみ姫を利政の正室として嫁がせている明智頼明よりあき老人である。


「……いかがなされた、頼明殿。何かご不満でもおありかな」


 このジジイ、またいちゃもんをつけてくるつもりか……と心の中で悪態をつきつつ、利政は丁寧な口調で頼明老人にそう問うた。


 明智家は用兵に優れた者が多く、嫡男の定明さだあきは戦狂いの化け物である。この老将との仲がこじれて反乱でも起こされたら厄介なことになりかねないので、表面上は頼明を敬っているふりをしているのだ。

 ただし、明智家の血を引く帰蝶きちょう姫を不幸のどん底に叩き落としてしまった時点で、頼明の利政に対する殺意はすでに鎮火できぬほど燃え盛っているのだが、人の心を軽視しがちな利政はそこのところを理解できていはいない。


「不満も不満、不満大有りじゃ! 先駆けの任を我が嫡男・定明に命じぬとは、どういう了見なのじゃ。こたびは美濃国の命運を左右する一大決戦じゃぞ。自軍の最強の武将を先陣に立てるべきであろう。軍議の席でおじゃおじゃ言っておる阿呆に先陣の大将など務まるはずがない。定明に先駆けをやらせろ。精鋭ぞろいの明智隊は、お前の度重なる急行軍に付き合わされても士気はいまだ衰えておらぬゆえ、心配はいらぬ」


「しかし、あなたの息子も十分にあほ……えほん、定明殿には後先考えずに敵軍に突貫する悪癖がありまする。味方の兵が全滅していても、自分一人で突撃しかねない。もう少し冷静な目で戦場を見ることができる武将に成長するまでは、先陣は任せられぬかと……」


「黙れ。わしの息子の定明は阿呆ではない。ああ見えて、兵法書の『六韜りくとう』(伝承では太公望の兵法書だが、後世の作と考えられている)を幼き頃より熟読し、その他多くの兵法書もそらんじることができるほど軍略の才があるのじゃ。やる時はやる! 先陣の大将が務まらぬはずがない!」


「い……いやいや。あの定明殿が『六韜』を? さすがに嘘でござろう?」


 戦場で大暴れすることしか頭に無いようなあの猪武者が、兵法書など読めるはずがない。そう思った利政は、笑いが出そうになるのを堪えながら、そう言った。稲葉良通や安藤守就ら他の美濃武将たちも、疑わしげな目をしている。


「嘘ではない! そんなに疑うのなら、定明をここに呼んで『六韜』を暗誦あんしょうさせてみせようぞ! 定明が兵法に通じていることを証明できたら、先陣の任は我ら明智一族がもらうがよいな⁉」


 頼明はそう宣言すると、本当に定明を軍議の席に連れて来て、『六韜』を利政たちの前で暗誦するように命令した。


「俺が『六韜』をそらんじることができたら、先陣の大将になれるですと? おお、そういうことならば、喜んでやりましょう」


(本人は自信満々のようだが……。ま、まさかな……)


 利政はそう思っていたのだが、驚愕すべきことに定明は朗々と『六韜』を諳んじ始めたのである。


 淀むことなく、迷いもなく、弁舌爽やかに、文韜ぶんとう武韜ぶとう竜韜りゅうとう虎韜ことう豹韜ひょうとう犬韜けんとうの六巻の内の三巻までをあっという間に語り尽くしてしまった。


 ば、馬鹿な……と利政は思わず呟き、居並ぶ諸将も定明の意外な「才能」に目を引ん剥いて驚いている。


「ああ~、喉が渇いたなぁ。残りの三巻は水で喉を潤してからでもいいですかな?」


「い、いや、もうよい。おぬしが兵法書に精通していることはよく分かった。……しかし、定明殿よ。それだけ兵法を極めておきながら、何故なにゆえおぬしは戦場であんなにも気が狂った……ごほん、ごほん、向こう見ずな行動を取ることが多いのだ?」


「兵法を知らず蛮勇を振るう者は、ただの阿呆です。兵法を極めているくせに血が騒いで己を制御できぬゆえ、俺は『戦狂い』と呼ばれているのです。俺は阿呆ではありません。戦に狂っているだけです」


「よ、余計にたちが悪いではないか!」


「しかし、今回は安心してくだされ。美濃国が今まさに危急ききゅう存亡そんぼうときであることは俺も分かっています。先陣の栄誉を賜ることができるのならば、けっして勝手な真似はやりません。退。逆に、こんな大事な戦で後詰めなどをやらされたら、戦狂いの俺は怒りのあまり味方の兵を後ろから虐殺しかねませぬ」


(うっ……。こ、こいつ、先駆けの大将になるために俺を脅してきたか。恐ろしきは明智の狂戦士よ。鷹司政光のようなただの阿呆ならば、もっと使いこなしやすいのだが……)


 こいつは本気でやばい。狂っていると自ら公言するような怪物を先手の大将に任命するのははなはだ不安だが、ここで後詰めの大将に任じてしまったら、暴発して味方を殺しかねない。想像しただけでゾッとする。


「……あい分かった。こたびの先陣は、明智定明殿じゃ」


 利政は渋々、美濃の戦狂いをこの大事な一戦の先駆けに任じるのであった。


 定明は、嬉しそうににまぁ~と満面の笑みを浮かべる。


 一方で、先陣の任から外された政光は、苦々しそうな表情で定明を睨んでいるのであった。








<鷹司政光について>


 鷹司政光という武将について、『戦国武将録:戦国美濃国人名辞典』というサイトには「長井新左衛門尉の次男(鷹司冬基の養子)」と記されているようです。もしもこれが事実だったら、鷹司政光は斎藤道三の実弟ということになるのですが……。


 このことに関して私が手元の史料で確認できず、鷹司政光について言及がある横山住雄氏著『斎藤道三と義龍・龍興 戦国美濃の下克上』(戎光祥出版)にもいっさい触れられていなかったため、「鷹司政光は斎藤道三の弟である」という設定を小説に入れることは見合わせました……(^_^;)

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