邪悪な企て

 信長と春の方が尾張に帰還し、彦太郎一家が美濃国に移住した半月ほど後。


 将軍・足利あしかが義藤よしふじ(後の義輝よしてる)は、六角ろっかく定頼さだよりの軍勢に守られて京都に帰還した。天正十七年(一五四八)六月のことである。


 将軍父子と管領かんれい細川ほそかわ晴元ほるもとの対立を発端とする京の周辺国天下の争乱も両者の和解によって落ち着き、


 ――世上五年も十年も静謐せいひつ候はんずるか。(『細川両家記』より)


 五年か十年は平和が保たれるだろう……という安堵した空気が、富貴を問わず畿内の人々の間に流れた。


 だが、管領の細川晴元には、過去に何度も世間の期待を裏切ってきた罪科がある。平和を願う人々の気持ちとは裏腹に、彼はまたもや新たな内紛の火種をまきつつあった。


 それは、将軍帰洛のひと月ほど前のこと――晴元は、突如、摂津の国人・池田いけだ信正のぶまさを自害に追いやったのである。


 信正は、先の内乱では反晴元勢力に属したが、しゅうと三好みよし政長まさなが(細川晴元の側近)を通じて降伏していた。つまり、晴元は一度許したにも関わらず、和睦成立直後に信正の命を奪ったのだ。


 どうも、信正の突然の死の陰には、舅である三好政長がいたらしい。

 政長は、主君の晴元に讒言ざんげんして娘婿むこを切腹させると、自分にとっては孫にあたる信正の子・太松(後の池田長正ながまさ)に家督を継がせ、池田家の宝物などを横領おうりょうしたのである。


 当然、池田家の家臣たちはこの沙汰に反発した。信正の死から三か月後の八月、彼らは晴元・政長主従に抗議するために、政長の息のかかった者たちを池田家の城から追い出したのである。


 こうして、池田家のお家騒動は世間の明るみに出てしまった。


君側くんそくかんを排除せねば、天下に静謐は訪れませぬ。三好政長をちゅうするべきです」


 この事態を受けて、主君の細川晴元にそう進言したのは、政長の同族の三好長慶ながよしである。


 後に信長に先んじて天下人となるこの男――長慶は父の元長もとながを一向一揆との戦いで失っている。その一向一揆の大軍を元長に差し向けたのは、元長を嫌っていた主君の晴元であり、晴元にそうするようにそそのかしたのは政長だった。


 父を殺した主犯である二人のことを長慶は深く恨んでいたが、主君の晴元に牙を向けることは躊躇ためらわれる。そう思い、長慶はこの機会にもう一人の仇の政長を弾劾したのだ。


 しかし、晴元はここでも愚を犯した。明らかに非がある政長をかばい、長慶の進言を退けたのだ。


 長慶はまだ二十七歳の若者だが非常に優秀で、細川家中において頭角とうかくを現しつつある。主君の晴元などよりもずっと評判が良かった。心の狭い晴元は、そんな若き獅子ししの声望に嫉妬し、長慶の頭をおさえつけるために彼の同族である政長を寵愛したのである。


(細川家のためを思って正論を言ったつもりだったのに、一蹴されてしまった。やはり、晴元様は、自分が死に追いやった武将の子である私を警戒しているのか。父の時と同じように、政長とぐるになって私を除くつもりなのでは……)


 危機感を募らせた長慶は、政長討伐を名目に挙兵することを決断した。同じく晴元・政長主従に不信感を抱いていた河内かわち国の遊佐ゆさ長教ながのりと結び、政長の子・三好政生まさなり(後の三好宗渭そうい。三好三人衆の一人となる人物)が立て籠もる摂津榎並えなみ城を攻めた。これが、十月のことである。六角定頼の尽力で実現し、五年十年と続けと期待された京の周辺国天下の静謐は、将軍の京都帰還からわずか四か月で瓦解したのだった。


 この畿内における三好長慶の挙兵は、膠着こうちゃくしつつあった織田信秀と斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)の戦いに新たな展開をもたらすことになる。




            *   *   *




 十一月。美濃稲葉山いなばやま城――。


 この日、斎藤利政は、「城で面白い余興がありますので、ぜひお越しください」と守護館に使者を遣わし、主君である美濃守護・土岐とき頼芸よりのりを呼びつけていた。


 宴の席で一服盛られるのでは……と頼芸はおびえたが、拒絶すれば利政に余計な疑念を持たれかねない。内心びくつきつつも、家来のもり可行よしゆき可成よしなり父子を護衛に従えて稲葉山城におもむいた。


 頼芸がそこで利政に見せられたのは、なんと城内で執行中の罪人の処刑だった。


「……利政よ。まさか、わしに見せたい余興とはこれか?」


 頼芸が不愉快さを隠しきれぬ表情でそう問うと、床几しょうぎに腰かけている利政は蛇のような目を細めて「いかにも」と答えた。


「この数日の間に牛裂きの刑で十数人ほど殺しましたが、飽きてきたので今日は釜茹かまゆでの刑を行うことにしました。大釜に罪人を放り込み、その母や父、兄弟、妻に命じて火を焚かせ、罪人を煮殺すのです。昼までにすでに三人殺し、今は四人目でござる。

 ……守護様、何をぼーっと突っ立っていらっしゃるのです。さあさあ、それがしの横に座って一緒に見物しましょうぞ。酒はたっぷりありますが、足りなくなったら遠慮なく申してくだされ」


「こ……このようなむごい光景を見ながら酒など……」


 そう言いつつ、頼芸は、燃え盛る炎で煮えたぎっている大釜に目をやった。二十代後半と思われる男が、地獄の釜の中でもがき苦しみ、泣きわめいている。あまりの惨さに見ていられず、頼芸はすぐに目を反らしてしまった。


「しゅ、守護代様! わ……私は……何の罪で殺されるのですか⁉ 私は何もしていない! 盗みも殺人も犯していない! あ、あああ……。妻よ、やめてくれ。これ以上、火に薪を……ぐわぁぁぁ!」


 利政に心はあるのだろうか。哀れな男の悲鳴をさかなに酒を飲み、軽薄そうな笑みを浮かべて楽しそうにくつろいでいる。


 罪人の妻は、すすり泣きながら、炎の中に薪を投げ入れ続けていた。

 ついさっきまでは父親と母親も同じことをやらされていたが、「自らの手で息子を煮殺すことなどできない」と叫んで大釜から子を助け出そうとし、城兵の槍に突かれて二人とも死んだ。両親のむくろは片付けもされず、大釜のすぐ傍らに転がっている。


「何をちんたらとやっておるのだ。この調子では、日が暮れてもこの罪人は死なぬぞ。もっと火の勢いを強くせぬか。……おい、罪人の子供たちに母親を手伝わせろ」


 妻一人では刑の執行に時間がかかると思った利政は、罪人の男の子供たちを刑場に連れて来させ、七歳になる兄と四歳の妹に「お前たちの父を煮殺せ。やらねば、母親も釜の中に放り込む」と命じた。


 兄妹はなぜこんな恐ろしいことになっているのかわけが分からず、しばらく泣きべそをかいていたが、城兵が頭を二、三度小突くと、小さな体をぶるぶる震わせながらも薪を運び始めた。


「幼い兄妹に父殺しの罪を犯させるとは……何という鬼畜な。もう許せぬ!」


 義侠心に厚い森可成が我慢できず、刀の柄に手をかけようとした。それを可行が息子の利き腕に手を伸ばし、押しとどめる。目配せして、(今はその時ではない。耐えるのだ)と制した。


 今すぐ利政を斬ってやりたいが、父の命令に逆らうわけにはいかない。怒りのあまりひたいの血管が激しく脈打つのを感じながら、可成は「ぐ……ぐぬぬぅ……」とうなりながら刀から手をはなした。


 そうしている間にも、罪人は釜の中で泣き叫び続けている。

 煮えたぎる熱湯が身を焼く苦しみよりも、愛する家族たちによって殺されゆく絶望に心が耐えられなくなったのだろう。獣のごとき声を上げ、利政を大いに罵った。


まむしぃぃぃ‼ 私が……私が何をしたというのだぁぁぁ! 殺せぇー! とっとと首を斬って殺せぇー! この成り上がり者がぁぁぁ‼」


「黙れ! お前が土岐とき頼純よりずみ帰蝶きちょうの元夫)の残党どもを村の近くの洞窟にかくまったことは先刻承知なのだ! 頼純の側近であった羽田仁左衛門はどこへ逃げた! 死ぬのが嫌ならば、大人しく吐け!」


「し、知らぬ! 私は知らぬ! 無実だ! 落ち武者をかくまった覚えなど……あがぁぁぁ⁉」


「フン! 吐かぬのならば、そのまま死ね!」


 利政が頼純をだまし討ちにして一年が経つ。

 しかし、いまだに頼純の旧臣たちの一部は逃亡を続けており、利政は彼ら残党を討ち果たせずにいた。恐らく、若くして非業の死を遂げた頼純を哀れに思う民たちが、頼純の旧臣たちをかくまっているのだろう。


 娘婿を殺して以来ますます悪逆の道を突き進むようになった利政は、疑わしい者を片っ端から捕え、拷問をともなった厳しい尋問を続けている。そして、何も吐かなかったら、見せしめとして極刑に処していた。


 利政は、己の悪逆行為が原因で乱れてしまった美濃国をさらなる恐怖政治によって治めきるつもりなのである。この国にとっては不幸なことに、国内に利政を打倒する力を持った者がいないせいでその思惑は半ば成功しつつあった。


「も……もうよい。こんな惨たらしい刑は早く終わらせろ。儂はそなたの余興に付き合いとうない」


「そうはいきませぬ、守護様。この斎藤利政に逆らう人間がどうなるか、とくと見せつけねばならぬのです」


「ならば、勝手にするがよい。儂は帰る!」


 この場にいるのがだんだんと恐くなってきた頼芸が背を向けて去ろうとすると、利政は燃え盛る大釜を睨みながら「帰ってもらったら困るッ‼」と吠えた。頼芸はビクッとなり、恐るおそる利政のほうに向き直る。


「な……何じゃと? 今、なんと申した?」


「……帰ってもらったら困る、と申し上げたのです。


 ギロリ、と利政の鋭い眼光が頼芸の心の臓を貫く。

 この酷刑こっけいは儂に見せつけるためのものであったか……と察し、頼芸はサーッと血の気が引いていくのを感じた。そして、心が千々に乱れたこの愚かな美濃守護は、余計なことを言わなければいいのに、


「わ……儂がそなたに何をしたというのだ? そ、そなたの命を狙っているのは、近江の六角定頼殿と尾張の織田信秀であろうが。儂は何も知らぬ。六角と織田が手を組んだことに焦りを感じておるのか⁉ しゅ……主君であるこの儂を脅すのはよせ!」


 と、声を裏返させながら反駁はんばくしてしまった。


(しゅ……守護様! それを言ってはなりませぬ!)


 森父子が主君の失言に驚き、心の中でそう叫んだ。


 だが、もう遅い。利政は蛇の目をキラリと妖しく光らせ、「ほほーう。六角と織田が手を組んだ、ですと? 今、そう断言されましたな?」と笑った。


「それがしを討つために六角と織田が密約を結んだことを、守護様はなぜご存知なのでしょう? この利政ですら、六角家の忍びの妨害で定頼と信秀の動きをつかみかね、今日まで確信が持てずにいたというのに……」


「あっ……。し、しまった……」


「くっくっくっ。おおかた、そこにいる森父子を尾張の織田と内通させ、六角織田同盟の情報を入手したのでしょう。我が宿敵の信秀と密かに連絡を取り合うとは……それがしに対する重大な裏切り行為ですぞ、守護様」


「ち……違う! さ、定頼殿からのふみで知ったのじゃ! 定頼殿と儂は縁戚じゃ。彼と文のやり取りをしていて、六角家の内密の企みをたまたま知ってしまっても、そなたに対する裏切りにはならないはず……」


「それは無い。六角定頼は、あなたと近しいゆえに、織田信秀よりもずっとあなたの馬鹿さ加減をよく知っている。いくらあなたを救うための六角織田同盟とはいえ、その企てを阿呆のあなたに漏らせば、こうやってポロリとそれがしに言ってしまうことを定頼は熟知しているはずです。間違っても、重大な情報を手紙であなたに漏らすはずがない。あなたは阿呆ですからな」


「あ、阿呆、阿呆言うな!」


 涙目になってそう叫んだが、頼芸はすでに絶望していた。信秀と内通していたことがばれてしまったからには、この場で利政に殺されてもおかしくはない。土岐家の嫡流であり、娘婿でもあった土岐頼純を抹殺まっさつしたこの男ならば、何の躊躇もなく主殺しをやってのけるだろう……。


「守護様」


「ひ……ひっ! 近寄るな!」


 利政が床几から立ち上がって歩み寄ると、頼芸は女みたいな悲鳴を上げて後ずさる。だが、利政は頼芸を逃がさない。主君の腕を乱暴につかむと、ぐいっと引き寄せ、頼芸の団子鼻をつまんだ。頼芸は「ふ……ふんごご⁉」と豚のような声を上げる。


「ぶ、無礼なッ!」


 森父子が憤ってそう叫んだが、自分たちが刀を抜いた瞬間に、利政が頼芸を殺しかねない。黙って事の成り行きを見守ることしかできなかった。


「守護様に、折り入ってお願いがあるのです。我が願いを聞き届けてくださったら、信秀と内通していた件は不問に付しましょう」


「ふ、ふごご⁉」


「信秀は、夏頃までは大慌てで戦の準備をしていたようですが、幕府管領・細川晴元の家中で内紛が起きた直後ぐらいからその動きは急速に鈍り出しておりまする。恐らく、畿内の情勢が思っていた以上に早く再び乱れつつあることを気にして、美濃遠征の軍を起こすことを躊躇っているのでしょう。美濃に攻め込んだ隙に今川が信秀の背後を襲った際、六角や将軍父子が畿内の争乱を鎮めることに忙殺されていたら、今川との和議の仲介を幕府に願い出るのは難しくなりますからなぁ」


「ふご……」


「そこで、それがしは信秀が躊躇ちゅうちょしている今のうちに先手を打ち、大柿おおがき城(大垣城。織田方が占領している美濃国の城)を攻めるつもりです。美濃攻めの足がかりとなる城を攻め落とせば、織田軍の士気は大いに下がることでしょう。フフフフ……」


 利政は不気味に笑いながら、頼芸の団子鼻から手をはなす。頼芸はよろめき、「そ……それで、儂に何をしろというのじゃ」と問うた。


「簡単なことです。六角定頼に文を送ってくだされ。『我が命で斎藤利政が織田方の大柿城を攻めるゆえ、斎藤軍に加勢して欲しい』と頼んでくださればよいのです」


「ば、馬鹿なことを。六角は織田と手を結んだのだぞ。そんな誘いに乗るはずが……」


「六角殿が利政に加勢してくれなければ、儂は利政めに殺される――とでも泣きつけば、さすがの六角定頼も信秀を裏切るでしょう。縁戚関係にあるあなた様を見殺しにするわけにはいきませぬゆえな」


「こ、ころ……⁉ お……おぬし、今、主君である儂を殺すと言ったな⁉ か、完全に脅しではないか‼」


「アハハハハハハハハハ。ただの方便。六角を動かすための方便でござるよ。それがしが守護様をしいし奉るはずがありませぬ。…………それがしに逆らわぬ限りは」


 にたぁぁと利政は口の端をり上げ、頼芸の頬をめるように撫でた。ゾゾゾゾと頼芸の背筋が凍りつく。その瞬間、


「うわぁぁぁぁぁ‼」


 女の号泣する声が城内に響き渡った。

 釜茹でにされていた夫がついに力尽き、熱湯から浮かび上がってこなくなったのである。絶命したのだろう。気が狂った罪人の妻は大釜にすがりつこうとしたが、業火に近づきすぎたせいで火の粉が衣服に飛び移り、またたく間に火だるまになった。「熱い、熱い」と喚き、利政たちの前で転がり回る。


 幼い兄妹が「母ちゃん!」と叫びながら母に近づこうとしたのを森可成が後ろから抱きとめ、「ならぬ……近寄ってはならぬ!」と言った。可成の両眼からは、眼前の炎で赤く染まった涙が流れている。まるで血の涙のようだった。


 利政は横目でその光景を見ながらフンと鼻で笑うと、頼芸の耳元へ口をそっと寄せ、こうささやくのであった。


「土岐頼芸よ。お前もああなりたくなかったら、俺の言うことに黙って従え。六角軍を俺の味方につけるのだ」


「……は……は、はひぃぃ……」


 頼芸が全身を戦慄わななかせつつコクリとうなずいた頃には、火だるまとなってもがき苦しんでいた女はすでに動かなくなっていた。








※これにて「尾張青雲編 五章 濃尾参州燃ゆ」の六角定頼編は終了です。次回以降、信秀VS道三が描かれる「大柿城後巻き編」になります。

次回の更新についてですが……。夏は児童小説の執筆に集中したいのでしばらくお休みをいただき、9月~10月のうちに連載を再開したいと思います。

(信長に集中しすぎて新作小説まだ一行も書けてないにゃん……(>_<) 助けて!!)

「大柿城後巻き編」では、最初槍の勇者・造酒丞と戦闘狂の明智定明が戦場でどったんばったん大騒ぎ!! 尾張国内でも反信秀勢力がどったんばったん大騒ぎ!! そして、ふんどし一丁の滝川一益も再登場してどったんばったん大騒ぎ!! もちろん(首が)ポロリもあるよ!!

……みたいなイベントが目白押しとなる予定ですので、どうぞご期待ください。

連載再開まで各自コロナに気をつけて、健やかに全裸待機をしていてください。

これからも執筆がんばるぞい!!!°˖☆◝(⁰▿⁰)◜☆˖°

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