王佐の才

 彦太郎が三郎という不思議な若者と出会った翌日のこと。


「彦太郎殿ぉ~! 彦太郎殿ぉ~!」と、朝っぱらから明智屋敷の前で喚く者がいた。


「国友村から戻られたのであろう。ちょっと出て来てくれ」


 あんまりにもうるさいので、彦太郎が寝ぼけ眼をこすって表へ出ると、顔見知りの老人が門前に突っ立っていた。


 彼は、すぐ近所の法蔵寺に出入りしている琵琶法師である。明智屋敷の美味い井戸の水を求めて、たまにふらりとやって来ることがあり、彦太郎とも仲が良かった。


「ああ、あなたでしたか。おはようございます。お水ですよね。いま持って来るので、ちょっとそこで待っていてください」


 年寄りに親切な彦太郎は、琵琶法師の早朝の来訪に対して嫌な顔ひとつせず、そう微笑みながら井戸がある場所へと向かおうとした。しかし、老法師は「いやいや、今日は水をもらいに来たのではないのじゃよ」と手を振る。


「所用で出かけるついでに、おぬしへの伝言を法蔵寺の胤善いんぜん殿から頼まれたのじゃ。『彦太郎殿が読みたがっていた書物が手に入ったゆえ、いつでも来られよ』とな」


「おお! それはありがたい! では、早速行ってきます!」


「あ……。その前に、やっぱり一口だけ水を――」


 くれぬかの、と琵琶法師が言う前に、彦太郎は疾風はやてのごとき素早さで走り去ってしまっていた。気配で彦太郎がいなくなったことを察した盲目の老法師は、


「やれやれ。寺は目と鼻の先なのに、そんなに急いでいくことはあるまいに」


 と、苦笑するしかない。


 信長一行はうっかり見落としていたが、佐目さめ村には十二相じゅうにそう神社の他に大きな寺院があった。それは明智屋敷から歩いてほんの数分の場所に存在し、


 法蔵寺佐目道場


 と呼ばれている本願寺(一向宗)の道場である。本願寺勢力にとっては湖東地域最大の布教拠点だった。


 彦太郎は、幼い頃から彼ら本願寺の僧たちと近所付き合いをして育ったのである。




            *   *   *




「胤善殿! 胤善殿! 『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』が手に入ったとはまことですか!」


 韋駄天いだてん走りであっという間に法蔵寺に到着した彦太郎は、山門の前であくびをしていた若い僧に手を振りながら呼びかけた。


「おう、彦太郎殿。これが『春秋左氏伝』だ。しばらく貸してやるから、いつものように書き写すがいい」


 胤善と呼ばれた武骨な顔立ちの僧は、彦太郎が書物を受け取るためにすぐにやって来るだろうと予測して門前で待ってくれていたようである。ふところから書物を取り出し、彦太郎に手渡した。


「また面白そうな書物が手に入ったら、貸してやるからな」


「ありがとうございます! 恩に着ます!」


「アハハハ。本当に彦太郎殿は勉強熱心だなぁ。おぬしの父の光国みつくに殿は親鸞しんらん聖人しょうにんの生まれ変わりだと佐目村の人々に噂されるほど人柄の優れた御仁であったが、俺は彦太郎殿こそが親鸞聖人の生まれ変わりだと思っているぞ。よく学び、我ら同郷の本願寺門徒たちを守ってくれる立派な侍になってもたいらいものだ」


「胤善殿ったら、そんなにおだてないでくださいよ。親鸞聖人の生まれ変わりだなんて、ちょっと褒め過ぎです」


「いや、本気で言っているのだ。他の僧侶たちも口々におぬしを褒めておる。末頼もしき神童しんどうだとな」


「それはどうも。胤善殿から受けた御恩は、私が将軍様の家来になるためにこの村を離れる日が来るまでには必ず返しますので、気長に待っていてください」


「彦太郎殿ならば、必ずや幕府の重臣になれるさ。人相学を少々かじっている俺には分かる。おぬしには王佐おうさの才がある」


「ま……またまたぁ! 胤善殿は本当にお世辞が上手いんだからぁ~!」


 自尊心をくすぐられた彦太郎は、照れ臭そうに笑い、上機嫌でそう言った。

 しかし、胤善の眼は真剣そのもので、「お世辞でも何でもないさ。彦太郎殿は天下人に仕える器だ」と断言した。


「じゃあ、将軍様の側近にでもなったら、胤善殿のために大きな寺院を建ててあげますね。それでは、失礼します」


 あまりにも褒めちぎられて、居たたまれなくなったようである。彦太郎は顔を赤らめながら早口でそんな約束をすると、すたこらさっさと駆け去って行った。


「……胤善や。また彦太郎殿に書物を貸したのか」


 彦太郎がいなくなった後、腰の曲がった老僧が杖をつきながら現れ、胤善に声をかけた。


「俺だけではありませんよ。洞瞬や永恩も寺の蔵書をあの子にたまに貸してやっています。早くに父親を亡くして、勉学の師もなく、一人で苦学をしているのですから可哀想でしょう」


「別に責めておるわけではない。彦太郎殿の父の光国殿は実に立派な武士であったからな。本願寺教団の教えにも理解を示してくれ、我らの良き隣人じゃった。

 ……されど、そもそも美濃から流れて来た明智家がこの村に根を下ろしたのは、彦太郎殿の祖父が六角家の命令で我ら本願寺門徒を監視するためであったからな。彦太郎殿が優れた武将に成長しても、父ではなく祖父に似ていて、本願寺教団の教えに否定的な考えを持つようになれば……近江での我らの布教がやりにくくなるやも知れぬ。

 もしも、あの少年が勉学に励み、そなたの言うように大出世して権力でも握ってみろ。六角ろっかく定頼さだよりのごとく兵力に物を言わせて本願寺の寺院を焼く仏敵になる恐れもあるのではないか? わしはそのことが少し心配なのじゃ。そなたの人相見はよく当たるからなぁ……」


 老僧は、胤善が「彦太郎には王佐の才がある」と予言したのが気になるらしい。現在、この国の王――すなわち将軍――を補佐しているのは、山科本願寺を火の海にした六角定頼だからである。彦太郎少年が定頼のような権力者となってしまったら、本願寺に危害を加えるのではないかと危惧しているのだ。


「アハハハ。そんな心配はいりませんよ。あの子は……彦太郎殿は優しすぎますから。この乱世では要領よく出世などできません。せいぜい地元の領民たちに慕われる名士どまりです。佐目村に住まう民や我ら本願寺門徒を外敵から守るために戦い、歴史に名を残さず、やがて老いて近江の土に還ることになりますよ」


 胤善はそう語りながら、彦太郎には見せなかった狡猾こうかつそうな笑みを老僧にさらす。


 老僧は眉をしかめ、「そなた、さっきは彦太郎殿に『王佐の才がある』などと申しておったではないか。あれは嘘か」と問うた。


「いえ、嘘ではありません。ただし、彼がなれるのは『治世ちせい能臣のうしん』です。この乱世でのし上がれるのは、いわゆる奸雄かんゆう。平和な時代に、身分ある侍の子供として生を受けていたら、良きまつりごとを行う名臣になれたでしょうが……。生まれた時代と場所が悪かったですな。殺し殺される戦国の世は、優しい彦太郎殿には厳しすぎる。そもそもこんな田舎の村で生まれても、何の後ろ盾も無いままでは立身出世などできぬでしょう。彦太郎殿は、たぶんこの村から離れることは一生無いはずです。彼の人生に天変地異でも起きぬ限りは、ね」


「……つまり、優秀だが出世の見込みがない彦太郎殿に恩を売るだけ売っておいて、この寺が本願寺を憎む勢力に狙われた時には彦太郎殿に守ってもらおうと考えて親切にしておるのじゃな、そなたは。坊主のくせして腹黒い奴め……」


 老僧は呆れ返り、汚らわしい物を見るような目で胤善をめつける。


「よしてくださいよ、そんな目で俺を見るのは。『奇貨きかくべし』と言うではありませんか。あんな逸材がこの近江国の端っこに埋もれているのです。幼いうちから手懐てなずけけておいて、損はありません。我ら門徒が権力者たちの圧政に立ち向かうために一揆を起こすようなことがあった際、彦太郎殿に一揆軍の指揮をとってもらえば百人力ではありませぬか」


「ふん……。儂は青雲の志を抱く純粋な子供の心をもてあそぶような真似は好まぬ。仏に仕える身でありながら他者を陰から操るなど、蓮如れんにょ上人の教えに反する行いじゃ。ろくな死に方をせぬぞ、胤善」


 腹立たしげにそう吐き捨てると、老僧は寺院の奥へと去って行った。


 胤善は遠ざかる老僧の小さな背中を睨みながらチッと舌打ちし、「あんたたち年寄りが頼りないから、本願寺教団はいつまで経っても六角家に首根っこをおさえつけられたままなのではないか……」と呟いていた。


 だが、この胤善の思惑が上手くいくことはなかった。まさにこの日、彦太郎の人生に天変地異が起きるからである。


 彦太郎とその家族は、ある人物によって美濃国に突然連れ去られるのだ。








※胤善というキャラクターは、この物語の創作人物です。ただ、佐目村に本願寺の寺院・法蔵寺佐目道場があったのは本当です。現在は遠久寺という名になっており、「明智十兵衛屋敷跡」と伝わる場所からは歩いてだいたい五分ぐらいのようです。

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